時折、英語で原稿を書くよう頼まれることがある。最近では、ニューヨークに本拠を置くInternational Journal of Constitutional Law という季刊誌に、日本の憲法に関する本の書評を書くように言われ、近年、最高裁を退官された藤田宙靖、泉徳治、千葉勝美の3氏の著作の書評をこしらえて、先方に送ったところである。2018年中には刊行されるであろう。 すでに刊行されたもので近年のものというと、たとえば、Routledge Handbook of Constitutional Law という本が2013年に刊行された。「ハンドブック」とはいうものの、大項目の憲法事典とでもいうべきもので、特徴は、大部分の項目が複数の研究者の共同執筆となっている点にある。筆者は、ローマ大学のチェーザレ・ピネーリ教授とともに、冒頭の「Constitutions」という項目を担当している。世界中の研究者が参照する書物なので、独自の見解を披瀝するわけにはいかない。英米独仏といったところを中心として、オーバーラッピング・コンセンサスになっているところを述べていくことになる。 憲法関係で「ハンドブック」と称される書物は、他の出版社からも刊行されている。オクスフォード大学出版局も、2012年にThe Oxford Handbook of Comparative Constitutional Lawを刊行している。こちらの本では、筆者は「戦争権限 War Powers」の項目を担当した。武力の行使に関する権限の所在、コントロールのあり方に関する問題群を広く指して「戦争権限」と言われる。ここでも、各国の戦争権限に関する実務と学説とを客観的に記述するのが求められている。 他国の戦争権限について知ることは、日本人にとっても役に立つ。たとえば、日本が他国によって武力攻撃を受けたとき、大部分の日本人は、当然のようにアメリカ合衆国が武力を行使して日本を助けてくれると考えているようだが、それは「当然」ではない。日米安保条約の第5条は、日本国の施政下にある領域において、日米いずれかに対する武力攻撃が行われたときは、それぞれの国の「憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動すること」としている。「行動」の中には、武力の行使も含まれるであろう。問題は、「憲法上の規定及び手続」である。 アメリカ合衆国憲法第1篇第8節第11項は、「戦争を宣言すること declare War」を連邦議会の権限としている。これはいわゆる宣戦布告のことではない。アメリカは建国以来、ほぼ毎年のように戦争をしてきた国であるが、宣戦布告をしたことは5回しかない。この規定の意味については、学説上も実務上もさまざまな論争があるが(クリントン政権以降の米政府の有権解釈によれば、warとは言えない規模の武力の行使は、大統領単独の判断でなし得るが、そうした武力行使も戦争権限法(war powers resolution)によって制約されている)、少なくとも大規模な武力の行使にあたって、連邦議会の承認が必要である点については意見の一致がある。第二次大戦後で言うと、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、9.11を受けた対テロ戦争、イラク戦争のいずれも、連邦議会の授権の下で遂行されている。これを受けて、アメリカ政府の確固たる有権解釈も、日米安保条約をはじめとするアメリカの締結した相互安全保障条約に自動執行性はないとする。つまり、日本が武力攻撃を受けたからといって、アメリカ軍がそれに対処することが、当然に保証されているわけではない。連邦議会の同意がなければ、米政府は軍事力を行使することはできない。
第二次大戦後にアメリカが遂行した大規模な軍事行動のうち、アメリカが「勝利を収めた」と言えるのは、湾岸戦争だけである。朝鮮戦争は引き分けだし、ヴィトナム戦争は負けである。イラクとアフガニスタンも、アメリカが期待した結果にはなっていない。ロバート・ゲイツ元国防長官は、「今後、アメリカの地上部隊をアジア、中東、あるいはアフリカに送るべきだと大統領に助言する国防長官がいたら、そいつの頭の中身を調べる必要がある」と指摘している。 というわけで、アメリカが日本を助けてくれるかどうかは分からない。戦うべき相手がアメリカ本土を大量破壊兵器によって攻撃する能力を備えているとか、あるいは、相手がアメリカにとって重要な貿易相手国であれば、連邦議会の承認がないことを口実に、来援できないと言い出すことは十分にあり得る。そもそも、原発の林立する日本で軍事行動に関わるのは真っ平というアメリカ兵も多いのではなかろうか。 日本に来援するアメリカ軍との共同行動の際、アメリカ軍を十分に援護できないのではないかと心配する向きもあるようであるが、アメリカの憲法の規定および日米安保条約の規定からして、アメリカが日本のために来援してくれるかどうかが定かでないことは、肝に銘じて置く必要がある。安全保障を目的とする同盟関係を構築する国は、往々にして同盟の利益を過大視し、同盟が他国に与える脅威を過少視する。同盟国間の利害は共通ではない。「安全保障のディレンマ」は、同盟を通じて拡大しがちである。 このハンドブックの原稿で強調した点の一つは、大規模な戦争や武力抗争の原因は、対立する国家の憲法原理の相違に求められることが、しばしばあることである。これは、古くはジャン・ジャック・ルソーが指摘し、カール・シュミットを経て、現代ではフィリップ・バビットによって展開されているテーゼである。 近年では、軍事問題を含めて、各国の政策決定権を国際組織へと移管し、国際的なコントロールの下に置くべきだとの主張が声高になされることがある。しかし、日本のように、リベラル・デモクラシーを憲法原理とする国にとって、そうした国際的なガバナンスへの権限の移行は深刻なディレンマをもたらす。世界の国々の多くは、リベラル・デモクラシーではなく、それと根底的に対立する憲法原理を保持し続けているし、さらに大部分の国際組織は、構成国の人民に対する説明責任や政治責任を負っていない。国際社会の国内社会に対する優位を安易に語るべきでない理由は、ここにもある。 現実問題としても、国際法は法としてどこまで機能しているか疑いがある。南シナ海領有権問題で常設仲裁裁判所の判断を拒絶した中国を、アメリカは法の支配を無視するものとして批判したが、そのアメリカも、ニカラグア事件での国際司法裁判所の敗訴判決を受け入れようとはしなかった。カークパトリック国連大使(当時)の言によれば、国際司法裁判所は、「半ば法的で半ば政治的、各国はその判断を受け入れることもあれば拒絶することもある」といった存在である。 むしろ、朝鮮戦争当時、全米の製鉄所がストライキ突入を目前にしたことから、鉄鋼生産の停止が国家を危機に陥れることを理由に製鉄所を接収したトルーマン政権に対し、そうした法的権限は政府にはないと言い渡して接収を解除させたアメリカ連邦最高裁のコントロールに学ぶべき点が多いように思われる(Youngstown Sheet & Tube Co. v. Sawyer, 343 U.S. 579 (1952))。安全保障のためなら憲法も法律も関係ないと言い出したら、何のための安全保障なのか──法の支配の下にあるリベラル・デモクラシーという憲法原理を守ることこそが、国を守ることではないのか──という根本的な問題が吹き飛んでしまう。 なお、このハンドブックにおける日本に関する記述は、その後の安倍内閣による憲法解釈変更について触れていない。この解釈変更については、ワシントン州立大学の紀要Washington International Law Journalの26巻1号(2017年1月号)に ‘The End of Constitutional Pacifism?’ という論稿を寄せて、説明を加えている。同大学で開催されたシンポジウムに寄せた報告の原稿である。 この種の、世界中の研究者向けに各国の標準的な学説や制度を説明する原稿としては、ごく最近のものとして、ドイツのマックス・プランク研究所が編纂したオンラインの比較憲法百科事典 Max Planck Encyclopaedia of Comparative Constitutional Law に寄稿したものがある。これも大項目の比較憲法百科事典である点では、ラトリッジ社やオクスフォード大学出版局の刊行した「ハンドブック」と同様であるが、何しろオンラインなので項目数が多い(http://oxcon.ouplaw.com/home/MPECCOL)。筆者は「押しつけ憲法 imposed constitutions」と「通信規制 regulation of telecommunications」の二つの項目を執筆している。 押しつけ憲法というと、第二次大戦後のアメリカによる日本政府への憲法草案の押しつけが思い浮かぶであろうが、imposed constitutionということばの世界標準の使い方からすると、大日本帝国憲法も典型的な押しつけ憲法である。本来的な憲法制定権者であるはずの国民の意思に全く配慮することなく、君主(および君主を代表する政府)が憲法を作って、それを国民に押しつけたのであるから。同様の例としては、フランスの1814年憲章、19世紀ドイツで制定されたバイエルン、ヴュルテンベルク、プロイセン等の諸邦の憲法があり、これらも、英語で議論されるときは、imposed constitutionsとして分類される。 もっとも、これは国民が本来的な憲法制定権者であるという前提をとるからこそ生まれることばの使い方である。そうした前提をとらない限り、「押しつけ憲法」という概念自体、意味を失いかねない。ところで筆者は、そうした前提をとっていない。ある憲法の正当性を議論する際に、それが憲法制定権者であるはずの国民によって制定されたか否かという論点は、二次的・三次的な論点にすぎないという立場をとっているし、そもそも憲法制定権力という概念は、憲法学から消去可能だと考えている。この筆者の見解は、邦語の論文でも公表しているが、英語でも、Indian Journal of Constitutional Lawの第3巻(2009)に ‘On the Dispensability of the Concept of Constituent Power’という題目の論考を寄稿している。こうした立場は、主権概念の意義を多くの憲法学者ほどには重視しない筆者の考え方と共鳴している。筆者がむしろ重視するのは、国家および法の権威主張とその正当性の有無であり、この問題は、個別の主体、個別の論点ごとに答えを出す必要がある。憲法制定権力や主権に関する通常の議論のように、ある法体系全体について、包括的・統一的に答えを出すことはできない。こうした問題意識は、Antero Jyränki ed., National Constitutions in the Era of Integration (Kluwer Law International, 1999)に寄稿した ‘Why We Should Not Take Sovereignty Too Seriously’で示したことがある。 ちなみに、押しつけ憲法に関する拙見は、最近、アンドラス・サイヨー教授への献呈論文集New Developments in Constitutional Law (Eleven International Publishing, 2018)で、まとまった形で公表された。 マックス・プランク比較憲法百科事典の「通信規制」の項目は、日本語でいう「通信」だけでなく、「放送」もカバーしている。アメリカ合衆国では telecommunicationsの普通の用法である。国際憲法学会の過去の世界大会では、筆者はしばしばtelecommunicationsに関する分科会のコーディネーターを務めてきた。その後遺症である。問題は、この項目については、技術の制度の進展のスピードが早いことである。愚図愚図していると、アッという間にアウト・オブ・デイトになってしまうであろう。 筆者の執筆したこうした原稿の大部分は、先方から依頼されて執筆したものである。当たり前であるが、英語の原稿の方が、日本語よりも執筆に時間がかかる。このため、筆者の研究時間の大半は、英語の原稿の執筆に当てられている。日本語で執筆する法律学の原稿と異なり、英語で執筆して海外の出版社から刊行するものは、原稿料をもらえることがほとんどない(全くないわけでもないが)。自身の効用という点では、さして効率的な時間の使い方とは言い難い。 投稿した原稿として思い当たるのは、1本だけである。Ratio Jurisというボローニャ大学に拠点を置いている法哲学雑誌に寄稿した ‘The Rule of Law and Its Predicament’という原稿で、ミシェル・トロペール教授の法解釈理論を後期ウィトゲンシュタインの哲学と調整問題の観念を用いて再構成したものである。 英語の原稿についても、基本的には頼まれ仕事をしていることが、振り返ってみるとよく分かる。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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