H.L.A. ハートは、フレデリック・メイトランドの法人観について、「なぜ彼がリアリストと呼ばれるのか、なぜ彼が解説したギールケの教説を承認したと考えられているか、理解できない」と述べる。ハートによれば、メイトランドは、法人が「擬制であるとか、多数人の集合の呼び名だとする理論は『事実を歪めるdenatured the facts』ものと確信していたが、法人が実在するか否かについて、最終的な結論は留保している(H.L.A. Hart, ‘Definition and Theory in Jurisprudence’, in his Essays in Jurisprudence and Philosophy (Clarendon Press, 1983), p. 37)。ハートがわざわざこのように述べるのは、メイトランドをギールケ流の法人実在論者だとする学者が少なくないからである(cf. J.A. Mack, ‘Group Personality—A Footnote to Maitland’, Philosophical Quarterly, Vol. 2, No. 8 (1952), p.249)。 メイトランドは、ギールケのドイツ団体法論(Das deutsche Genossenschaftsrecht)の第3巻からDie publicistischen Lehre des Mittelalters の章を翻訳し、著名な訳者解説を付して刊行している(Otto Gierke, Political Theories of the Middle Ages, trans. Frederick William Maitland (Cambridge University Press, 1900))。メイトランドがギールケの団体・法人論に好意を寄せていたことは確実である。しかし、メイトランドは自説を声高に主張する学者ではない。史料が裏付ける事実、他の学者が説く内容等を、判明する限りで控え目に述べる学者である。ギールケと同様に、法人にそれ自身の意思や精神があるとメイトランドが信じていたことを確証する、彼自身の言明は存在しない。むしろ彼は、彼の法人論の到達点を示したと言われる論稿において、「哲学は私と関係がないno affairs of mine」と予防線を張る(’Moral Personality and Legal Personality’, in F.W. Maitland, State, Trust and Corporation, eds. David Runciman and Magnus Ryan (Cambridge University Press, 2003), p. 71)。 Moral Personality and Legal Personality で彼が述べているのは、法的な理論や観念は、長期的には、社会通念 (moral sense or moral sentiment of the people) と合致している必要があり、したがって、法人は単なる擬制に過ぎないとか、国家が法人格を特許することではじめて法人は誕生するし、国家は自由にそれを撤回することもできる等といった典型的な法人擬制説の立場は、維持できないということである。以下、この論文の内容を見て行こう。 法人をめぐる理論の変化を見るとき、イギリスの歴史は参考にすべきではないとメイトランドは言う。イギリス人は、出発点とするには、あまりにも論理的でなさすぎる。出発点としてふさわしいのは、フランスである(p. 66)。王制下のフランスは、個人と国家の間に割り込む媒介物を粉砕し、無に帰そうとしてきた。絶対国家と絶対個人を対峙させるこうした企図は、革命へと受け継がれる。結社の自由が認められるには、20世紀初め(1901)を待たねばならなかった。 フランスを含めたヨーロッパ各国は、19世紀の経験を通じて、以下のような結論へと到達した、とメイトランドは言う。(1)人々が永続的な団体を組織することが適法である限り、そうした団体は、権利義務を担う主体である、(2)団体の人格は純粋に法的な現象ではなく、国家が強制的に団体を解体するのであればともかく、その存続を許容している限り、国家は団体が人格を担うことを認めざるを得ない、(3)社会通念上は、団体は人(person)である(p. 68)。 メイトランドによれば団体は人であり、n人の構成員が団体を組織すれば、そこにはn+1人が存在する。もちろん、生身の個人と全く同じ意味で人であるわけではない。法人が婚姻することはないし、嫡出子として出生することもない(p. 63)。それでも団体は実在する。唯心論者にとっても街灯(lamp-post)が実在するのと同じ程度には(p. 69)。街灯を物理的に解体することはできる。しかし、街灯として機能している以上、街灯は街灯として実在する。黙りこくってはいるが。 以上のようなメイトランドの行論からすれば、彼が法人(団体)の実在性について結論を留保しているというハートの言明は、控え目に言っても不正確である。メイトランドは、典型的な法人擬制説は誤りであるとし、団体は人格を担い(人であり)、それは実在する(real)と明確に述べている。ギールケと同じように、団体自体に意思や精神が備わっているとは、彼は明確に述べてはいない。しかし、アイロニーに富み、極度に控え目な文章表現に巧みなメイトランドに、ことばの表面上の意味のみを帰すことには、逆のリスクがある。アーネスト・バーカーやデイヴィッド・ランシマンのように、メイトランドをギールケと同じ意味における法人実在論者として扱うことが、公正でないとまで言い切ることは難しいであろう。 ところで、ハートの意図は必ずしもメイトランドの立場を擁護することにあったわけではない。彼は、メイトランドのことをin his greatnessとか言って持ち上げておきながら(op. cit., p. 37)、実際にはメイトランドを法人実在論者として扱い、その議論を反駁しようとしている(イギリス人は、全くもって食えない)。 ハートが取り上げるのは、メイトランドがMoral Personality and Legal Personalityの中で描くNusquamiaという仮想の国家の物語である。メイトランドは次のように言う。 他の多くの主権国家と同様、Nusquamiaは借財をする。あなたが債権者の一人だとしよう‥‥‥さて、問題は次の通りである:あなたに借財をしているのは、結局のところ、誰なのだろう。Nusquamiaだ。結構、そうだとしよう。しかし、あなたはNusquamiaがあなたに借財しているというこの命題を、具体的に実在する特定の諸個人に義務を課す命題へと変換することができるだろうか。それは難しいだろう。Nusquamiaのすべての国民が、あなたに小額の借金をそれぞれしているとは、あなたは考えないだろう。誰もそうは考えない。ヴェネズエラの借財をその辺りのフラノとかズタノとかが負っているわけではない。彼等が集合的に(collectively)に借財を負っていると言い換えても、事態はさして改善しないように思われる‥‥‥ゼロはいくら集めてもゼロである。
ハートによれば(op. cit., pp. 38-39)、メイトランドは問題の設定の仕方を間違えている。「Nusquamiaがあなたに借財を負っている」とき、実際にあなたに借財を負っているのは誰なのか。それを問うのは、「試合を取りこぼした」と言われたとき、「あなたは一体何を取りこぼしたのか」と訊くようなものである。強いて問われれば、Nusquamiaだと答えるしかない。取りこぼしたのは「試合」だと答えるしかないように。それでは、その言明の理解に全く役立たない、それはその通り。 こうした言明を理解する上でNusquamiaとか、「試合」とかという個別の概念が何に対応するかを訊ねることは、無駄である。対応するものは実在しないから。むしろ、ジェレミー・ベンサムにならって(Jeremy Bentham, A Fragment on Government, eds. J.H. Burns and H.L.A. Hart (Cambridge University Press, 1988), p. 108)、言明全体を別の言明に置き換えるパラフレーズ(paraphrasis)を行うことで、言明の意義を解明すべきである。そうした変換を通じて、Nusquamiaの法秩序においてNusquamiaの名において借財をする権限を与えられているのはどういった人々なのか、借財を償還するために一定の金額を支払うよう法によって義務づけられているのは、どういった人々か、そうした諸ルールの組み合わせを前提として、それをあなたの事例に適用すると、どのような法的結論が得られるのか、そうした法的結論の妥当性を支える具体的諸条件は何か、それを検討すべきである(そうした法的結論は、真であったり偽であったりするだけでなく、「宣言」され「主張」され「警告」されたりすることで、さまざまな言語行為としても作用する)。 権利とは何か、義務とは何かを、この世界における対応物を探索することで解明しようとすることが意味をなさないのと同様(そんな対応物はこの世界には実在しないから)、法人とは何か、国家とは何かを、この世界においてそれらの概念に対応するものは何かを探索することで解明しようとすることは意味をなさない。そんなものは実在しないから。 わざわざ注意するまでもないことかも知れないが、ハートが言っているのは、たとえば法人に表現の自由があるという言明は、法人の個々の構成員や従業員に表現の自由があるという言明に還元できる等といった妙な議論ではない。法人の権利・義務に関する言明の意味ははるかに複雑であり、かつ、構成員や従業員の権利・義務に関する言明の連言よりも、はるかに事態を単純かつ一貫したものとして記述することができる。関連する多様な法的ルールの組み合わせに言及することなく、法人に関する言明を個々の構成員や従業員の権利・義務に関する言明に変換すれば、事態を大きく歪めて記述することになる。(op. cit., p. 41)。 いたずらに謎を呼び起こしたり、変てこりんな単純化をしたりすることをやめて、法律家が回答できる問題(群)へと言明を再定式化し、実定的な法秩序に即して、どのような条件の下で特定の結論が妥当すると言えるか、それを回答する。法律学がなすべきことはそれである。法人は、国家は、実在するのかしないのか、その問題に関する社会通念は何なのか、それらは無用な、答のない問いである。 もちろん、株主の責任制限に関するルールをそのまま具体的状況に適用することが、社会通念に反することはあり得る。会社の実質的経営者が大株主であると同時に、ただ1人の担保付社債権者でもあり、その実質的経営者が他の一般社債権者の利益を損なう形で会社を清算することが、社会通念に照らして許し難いということもあるだろう。そのときは、そうした状況にあてはまる社会通念──正義の観念──を考えれば足りる。会社が実在するか否かに関する一般的な社会通念は(そんなものがあるとしても)役には立たない。 ハートも、たとえば団体の構成員に共通の社会的目的や利益がある(実在する)ことを否定しはしない。だからこそ、団体は組織される。しかし、だからと言って、団体が生身の人間と同じ(あるいは近い)意味で人格を本来的に備えているか否かを問うことに意味があることになるわけではない。意味があるのは、どのような条件が整えば、われわれは人々の集合が単なる烏合の衆ではなく、そこに人と類比し得る団体(教会、学校、国家等)があるかのように言ったり考えたりするか、それを問うことである(op. cit., p. 43)。自分が属する団体の共通の目的や利益がとてもとても大事だ、と考える人たちにとっては、本来的な人格の存否は重要に見えるのかも知れない。しかし、それは答のない(あり得ない)問いである。 そんな問いにかかずらうのはやめて、答の存在する、答えられる問いへとわれわれの関心を集中させるべきだ。それが、ハートのメッセージである。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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