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*本連載は、長谷部恭男『憲法学の虫眼鏡』として書籍になりました(2019年11月)。ここをクリックして編集する.

その5 緊急事態に予めどこまで備えるべきなのか

5/23/2017

 
緊急事態に備えるべく、憲法を改正しておくべきだという議論がある。実際には、現行法制上も、災害対策基本法や各種の有事立法、さらには警察法第6章の「緊急事態の特別措置」等、緊急事態への対処を目的とする立法は数が多い。それなのに、憲法を改正してまで、さらに緊急事態に備えるべきだという議論は──まっとうな議論として受け止めればだが──次のような理屈なのであろう。
 
今でも緊急事態に備えた立法がいろいろと揃っていることは分かるが、実際に現在の法制度で十分に対処できるかどうかは、その場になってみないと分からない。その時になって法律を急拵えで作るとしても、国会の召集とか、衆参両院の審議をするとか、いろいろと時間もかかるだろう。内閣だけで制定できる政令で、法律と同等の効力をもって対処できるようにしておく方がよいのではないか。 

 それなりに筋は通っているようだが、本当にこれでよいのだろうか。未来のことはたしかに分からない。何が起こるか分からないのだから、いくら整っているとはいえ、現在の法制度で対処できない事態が発生する可能性も、小さいとはいえ起こらないとは限らない。理屈としてはたしかにそうであろう。しかし、何が起こるか分からないから、何にでも対処できるようにしておこうとすると、とてつもなく広い権限──ここでは法律と同等の効力を持つ、つまり既存の法律も改廃することもできる効力を有する政令を発する権限を政府に与えなければならないことになる。
 緊急事態に対処するための政府の権限は濫用されるものである。権限が広ければ広いほど、濫用されるリスクは高まる。悪くすると、ワイマール共和国での緊急事態権限がそうであったように、既存の政治体制を守るための権限が、既存の政治体制を根幹から覆す手段として使われかねない。何が起こるか分からないことのすべてに対して、予め備えておこうとすること自体に、とてつもないリスクが含まれている。
 ではどうするのか、何の備えもなくてよいのか。
 前述したように、それなりの備えは現在でもある。しかし、それでは対処できない事態が発生するリスクは、たしかにある。さて、そのとき、政府はどのような行動に出るであろうか。法律が我々に与えている権限はここまでだ、それ以上のことをすると法律に違反することになる。緊急事態に対処するためには必要なことなのだが、法治国家の政府として、法律違反の措置はとれない。やはりやめておこう──それが政府のとるべき態度だろうか。
 ダイシーの『憲法序説 An Introduction to the Study of the Law of the Constitution』第10版は、「法の支配the rule of law」に関する第2篇の末尾で、政府はときに、法の支配に反して行動すべき場合があると言う(pp. 412-13)。
 
暴動や侵略により、法治体制を守るためにも、法に違背せざるを得ない場合はある。政府がとるべき行動は明白である。内閣は法に違背した上で、議会が事後的に免責法(Act of Indemnity)を制定することを期待すべきである。この種の法の制定は、議会主権の究極にして最高の行使である。免責法は違法行為を合法化する。それは、いかにして法と議会の権威の維持と危機の際に政府が行使すべき権限とを組み合わせるかという・・・実践的問題を解決する。
 ダイシーは、人身保護令状の執行停止、無令状での住居捜索などの政府による措置が、事後的に議会の制定した免責法によって免責された例を挙げる(pp. 232-37)。歴史的に有名な事例としては、1766年に深刻な食料難が生じた際、小麦又は小麦粉を積んだすべての船の出港禁止措置を政府が採った例がある。この措置に関与した諸大臣は、事後的に議会制定法によって免責された(cf. Clinton Rossiter, Constitutional Dictatorship (Transaction, 2002), p. 138)。
 緊急事態に直面した政府が法律の与える権限外の措置をとり、それが議会によって事後的に合法化され、責任が免除された例は、第一次大戦時のフランスでも見られる(長谷部恭男『憲法の論理』(有斐閣、2017)153-55頁は、議会が事後的合法化をし忘れた政令の効力を、コンセイユ・デタがいかに判断したかを描く)。また、アメリカでも、リンカーン大統領は南北戦争に際して、人身保護令状の停止を明示的に議会の権限とする合衆国憲法第1篇第9節第2項にかかわらず、自身の判断で人身保護令状の執行を停止した。議会は1863年3月に、この措置を遡及的に承認している。さらにドイツを見ると、軍備拡張に必要な予算の承認を下院が拒否したために1862年に始まったプロイセン憲法争議も、宰相ビスマルクが、対オーストリア戦勝後の1866年、「法的根拠」のない財政支出を行ったことについて、政府の責任を免除する法案を議会に提出し、可決・成立させることで終結した。
 ダイシーが言っているのは、こういうことである。法の支配の原理に反する広汎な権限を政府に予め与えるわけにはいかない。それはあまりに危険である。しかし、緊急の事態に対処するために、政府が既存の法に違背して行動しなければならないことは、たしかにある。そのとき、政府ができることは、事後的に議会が免責法を制定していることを期待しつつ、なすべきことをなすことだけだ。もちろん、免責法を議会が制定するか否かは議会が事後的に決めることである。そのことを承知している政府は、事態に対処するために本当に必要最小限度の、これなら議会も免責してくれるに違いないというぎりぎりの措置だけをとることになるだろう。それは、法の支配の原理に反する広汎な権限を予め政府に与えるより、はるかに理にかなっている。権限濫用のリスクは極小化される。
 ちょっと待ってくれ、という声が聞こえてきそうである。日本の国会は、「最高機関」であるという憲法41条の文言にもかかわらず、最高の法的権威を有しているわけではない。そこがイギリスや第3共和政フランスの議会と違うところだ。これらの議会が制定する法律は、文字通り、最高法規である。他方、日本の国会が政府の違法行為を事後的に合法化し、政府の責任を問わないとする法律を制定しても、それを最高裁判所が違憲だと判断するかも知れないではないか。
 それでもあまり困らないように思われる。日本の国家賠償法1条は、公務員による違法な公権力の行使がもたらした損害を賠償するのは国または地方公共団体だとしている。違法行為をした公務員個人に対する求償は、当該公務員に故意又は重過失がある場合に限定される。他方、ダイシーが「免責」法の制定を期待すべきだと言うのも、当時のイギリスでは、公務員による違法な権力行使については、当該公務員個人が責任を負うこととされていたからである。
 それに、国会による事後法が合憲と判断され、事前に違法であった行為が合法とされたとしても、国民の権利や財産に損害を与えた場合、損失補償はする必要がある。合法な措置の損失補償の額と違法とされた措置の損害賠償の額にさして差異があるとも思えない。政府や地方公共団体による公権力の行使が裁判所によって違法とされる例は、しばしばとは言わないまでも、ままある。緊急事態に限った話ではない。
違法かも知れない、しかしそれでもこの国の政治体制、市民生活を維持するためには、この行動はぎりぎりの措置としてとらざるを得ない、という決断ができないような政府や政治家、自分たちがとる措置はどんなものでもすべて合憲・合法だというお膳立てが予めできていない限り、緊急事態に対処する気にそもそもなれないという政府や政治家に、そもそも日常的な国政でさえ委ねてよいものだろうか。
 法制度は、作ればそれでいいというものではない。制度を運用し担う人間が、それに相応する能力と覚悟を備えているか否かこそが、肝心な点である。
 
最近、提起されるようになった、衆議院議員の任期をいざというとき延長できるようにしてはどうかという問題も、同じように考えていくことができる。単純なので、任期満了による総選挙の場面を考えてみよう(解散による総選挙の場面では、参議院の緊急集会によって対処できることが、憲法の条文上も明らかである)。
 公職選挙法によると、任期満了による衆議院議員の総選挙は、「議員の任期が終る日の前30日以内に行う」こととされている(同法31条1項)。「いざというとき」というのは、大災害等が起こって、総選挙ができないうちに衆議院議員の任期が終ってしまう場合のことを指しているのであろう。
 第1に、任期が終ってしまっても、その後に総選挙ができないわけではない。その旨の規定を公職選挙法におけばいいだけである。
 第2に、公職選挙法の選挙期日の定めをどこまで厳格なルールとして受け取るべきなのかという問題がある。政府の有権解釈を集めた『選挙関係実例判例集〔第16次改訂版〕』(ぎょうせい、2009)によると、こうした選挙期日の定めは「訓示規定」であり、言い換えると、正当な理由のあるときは、必ずしもこうした期日の定めに従う必要はない(331頁以下)。このことは、憲法54条1項の期日の定めについても言い得ることであろう。
 第3に、衆議院議員の任期が終ってしまってまだ総選挙を施行することもできない、という状況で、緊急の立法が必要となることがあるかも知れない(前述のように、ギリギリで法に反する措置をとることもあり得るが、緊急の立法の必要がないとは言い切れない)。その場合は、憲法54条2項の類推で、参議院の緊急集会を求めることができる(高見勝利「非常事態に備える憲法改正は必要か」論究ジュリスト21号(2017年春号)102頁もこうした立場をとる)。
 とはいえ、本当に類推してよいのか、憲法違反ではないのかという疑問があるかも知れない。しかし、そうした場面に現に直面した場合、内閣は参議院の緊急集会を求めようとしないであろうか。私自身が政権担当者であれば、当然、緊急集会を求めるであろう。そして、参議院議員の方でも、緊急の立法の必要があるという理由で内閣が集会を求めているが、憲法違反かも知れないから私は集会に応じないことにしようなどと言い出すものであろうか。ここでも、制度の表層ではなく、制度を運営する担い手の心構えが問われている。
 ​条文の文字面にこだわることが悪いことだというわけではないが、それは時と場合による。違憲・違法のおそれをすべて予め除去しようとすれば、結局、すべてを飲み込みかねない、とてつもなく広汎な権限を政府に与える、危険きわまりない緊急事態法制に行き着くことになる。人としての判断力が問われている。

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    Author

    長谷部恭男
    ​(はせべやすお)
    憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。

    *主要著書 
    『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年
    『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992
    年
    『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999
    年
    『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000
    年
    『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004
    年
    『憲法とは何か』岩波新書、2006
    年
    『Interactive 憲法』有斐閣、2006
    年
    『憲法の理性』東京大学出版会、2006
    年
    『憲法 第4版』新世社、2008
    年
    『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年
    『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年
    『憲法の円環』岩波書店、2013年
    共著編著多数

    羽鳥書店
    『憲法の境界』2009年
    『憲法入門』2010年
    『憲法のimagination』2010年

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