2013年8月の終わり。 女川湾北岸の浜、尾浦を訪ねました。智博君の生まれ育った浜です。 女川港から北へ。はるか眼下に海を見ながら山中の国道を進みます。 復興工事のトラック以外に行き交う車はほとんどなく、つい通り過ぎそうになるのを注意して、海側へ下りる細い坂道に入ります。どんどん下っていき、入り江に到着。 山を背負うような浜に、あの日まで75世帯238人が暮らしていました。北岸に点在する浜の中では最も大きな集落でした。岸壁から離島の出島がくっきり見えます。島が防波堤となり、四季を通じて波おだやかな海ではサケやカキの養殖漁が営まれてきました。 家並みが消えた浜辺に仮設の「番屋」が立っています。漁師さんの集会所です。この日は漁協の尾浦支部の臨時総会が開かれていました。 総会の最後に区長さんから「中学校から石碑を建てたいと要請があり、みんながいつも逃げる場所、お寺さんの入り口で了解をいただきました」。 智博君のお父さんが補足します。「石碑は金銭的にはまったくかかりません。募金で集めたので。ただ、草取りは、地元に中学生がいなければ、青年部にお願いしたい」 智博君たち実行委員が放課後や休日に活動する間、親たちも仕事の合間を縫って石碑の設置場所を探し求め、浜の区長さんを訪ね歩いていました。 11月に入り、私は1通の封書を受け取りました。 「女川いのちの石碑」除幕式の開催について御案内、と書かれています。 1基目が女川中学校の正面玄関前に立つのです。 差出人に町長、町教育長、学校長、そして委員長の智博君の名前も並んでいます。 23日朝。青空の下、正面玄関前の広場に3年生六十数人が集まりました。 一彦先生も、勤務先の気仙沼市から駆けつけ、舞台裏の準備に携わります。 智博君も晴れやかな表情。カメラの放列の後ろからお父さんも見守ります。 司会役は、実行委員の脩君と滉大君。台本を用意し、何度も練習しました。 来賓へこれまでの活動を報告するのも実行委員たち。これも練習しました。 いよいよ、お披露目へ。 智博君も白い手袋をつけ、紅白のひもをひきます。 あら。あらら。 ひもが外れ、白布はそのまま。緊張もほどけて大笑い。 さあさあ、やりなおし。 今度はうまくいきました。 委員長が碑文を読み上げます。碑の真ん中に刻まれた一言と、その左側に刻まれた同級生の俳句、それからメッセージを。落ち着いた声がしっかり伝わってきます。 小春日和の陽光が降りそそぎます。 朗読中、山のむこうから公営住宅建設の槌音がやわらかに響いてきます。 カンカンカンカン・・・。リズムを刻み、お披露目を祝う打楽器のようです。 閉会宣言は、脩君の母、由希子さんです。 実行委員の活動を支える親の会の代表を務めています。 こう結びました。 「今日のこの空、きっとみんなの大切な人のところへとつながっていることでしょう。そこから、この除幕式を見て、『よく頑張ったね』『えらい、えらい』と言ってくれていると思います。中学生の皆さん、皆さんの周りにいるすべての人に感謝し、亡くなった人に思いを寄せ、町の発展に貢献できる大人に成長してください。最後に、本日ご出席いただいた皆様、そして今を生きるすべての人に、今日と変わらない明日が必ず来ますようにと祈り、『いのちの石碑』除幕式を閉会させていただきます」 智博君の母、智子さんへ思いをはせた宣言です。 午後。実行委員たちは一彦先生や親たちの車に分乗して尾浦の最寄りの浜、竹浦へ。 2基目の除幕式です。 海が見える小さな神社の境内に建てました。 浜のみなさんが、笛や太鼓を用意し、智博君にばちを手渡します。幼い頃から智子さんに連れられて竹浦へ太鼓を習いに来ていました。が、震災以後はさわっていません。「むりー」と尻込みするのを、浜の先生たちは口々に「小さい時にやっているんだから大丈夫」。 本当です。お見事。どんつくどんつくどんつく。ちょっとアップテンポですが、一緒に太鼓をたたく先生も、篠笛の先生も合わせてくださり、すばらしい音色を響かせました。 浜から十数人集まり、実行委員たちと紅白のひもを引きます。 碑文朗読。浜のみなさんは目を閉じ、じっと聞き入ります。 震災前は68世帯188人が暮らす浜でした。あの日、15人が帰らぬ人となりました。 「無理矢理にでも連れ出して」「絶対に引き止めて」 うなずきながら、耳傾けてくださいました。 今も、碑を建てるたびに、実行委員はその浜の人々を招いて除幕式を開きます。 別々の進路を歩み、除幕式に実行委員十数人が出席できる時もあれば、一人きりの時もあります。毎回、一彦先生が付き添い、親の会も同行します。さらに、石材店社長の山田さんも毎回のように手伝いに来られます。 14年5月5日。尾浦の除幕式です。 この日も脩君が司会を務め、脩君の母、由希子さんが親の会を代表して挨拶します。 「明日もがんばれる力をこの石碑から感じ取ってもらえたらと思います」 区長さんも、敷地提供を快諾してくださった和尚さんへ感謝を述べ、こう語りました。 「あのような悲惨なことが二度と起きないように心がけていきたいと思います」 木立から鳥のさえずりが優しい旋律を奏でます。独奏は三重奏、そして四重奏に。 区長さんと石碑をはさんで脩君、美亜ちゃん、智博君の順に並びます。 「『せえの』でお願いします」と脩君。区長さんは微笑んで「それでは。せえの」。 紅白のひもを引き、碑が姿を現します。笑顔が広がっていきます。 脩君は、碑文朗読を美亜ちゃんに託しました。 美亜ちゃんも尾浦で生まれ育ちました。 ひとりっ子です。父方の祖母が近所に暮らしていました。 家庭菜園を楽しんでいた祖母。ミニトマトが実れば「ひまなときにおいで」と電話がかかってきます。大喜びで行くと、袋いっぱいに持たせてくれます。ほおばりながら歩いて帰った浜の道。祖母の五目御飯もモチモチして大好きでした。尾浦の同級生は智博君だけ。祖母は大切な肉親であり親友でもありました。「おばあちゃん」と呼んでいました。 あの日。美亜ちゃんは女川第二小学校にいました。 両親が迎えに来ました。そして悲報が告げられました。 お父さんが私に語ってくださいました。 なんでおばあちゃんを助けなかったと娘に怒られたこと。何もできなかったと父は泣いて答えたこと。ぶつけずにはいられなかった娘の心中を父は十分にくんでいます。 お母さんも私に教えてくださいました。 パパも悲しいのよと母は静かに娘を諭したこと。荼毘のとき、娘はその場を離れずに声をあげて泣いていたこと。ボリビアで生まれ育った母が娘にかけた言葉。Mamita desde el cielo nos protégé, nos esta mirando. おばあちゃんはお空から見ていますよ。 私が美亜ちゃんに当時のことを尋ねると、ご自分の心の内にはふれず、智博君兄妹のことを話してくれました。小学3年生の妹、奈桜ちゃんは泣いていました。「なにしたの?」と聞いても「花粉症で」と答えるだけ。智博君は涙もなく、2歳の妹、柚葉ちゃんを抱いていました。そう私に話す美亜ちゃんの目も真っ赤になります。 碑文朗読の後、美亜ちゃんのお父さんが挨拶に立ちました。 「子どもたちが計画し、募金活動もして、よくぞ、ここまで・・・・・・。ただただ感激で胸がいっぱいです。千年後、二千年後、この石碑を見た人たちが、ああ、大変なことがあったんだなと感じていただければ、本当に幸いです。本当にがんばりました」 高らかなウグイスの声が一帯を包みこみます。 智博君のお父さんも短く挨拶の言葉を述べました。 「当時、どうなるのかなあと思ったんですけど、子どもたちのほうが早く立ち直ったようで。ありがとうございました。これからも、どうぞ、よろしくお願いします」 14年11月23日。1基目の建立から丸一年。 実行委員10人が集合しました。一彦先生や親たちの車で町内5基の石碑を磨いてまわります。尾浦の碑もきれいにしてから、つづいて女川湾北岸、桐ケ崎の浜へ。 6基目の除幕式です。智博君が、石碑建立の経緯を含めた活動を報告します。 司会役の脩君の合図に、浜の人々と共に紅白のひもを引きます。 おや。一瞬、目が点に。ひもが白布から外れたのです。 一同、またまた大笑い。 15年10月最後の土曜日。町の離島、出島の二つの浜で8基目、9基目のお披露目です。 実行委員の中でただ1人、1基目からすべての除幕式に出ている脩君と、この日は七海ちゃんと唯ちゃんの3人が出ます。智博君は欠席。ですが、お父さんが代わりに出ます。3人を乗せて島へ向かう船は、金宮丸。お父さんが舵を取ります。船べりで七海ちゃんと唯ちゃんの会話が聞こえてきました。「とものお父さん、かっこいいよねえ」「ねえ」 石碑を島へ運ぶのにも、この金宮丸が大活躍しました。 お父さんがロープを巻き付けている金宮丸の舳先にご注目を。メロウドの季節になると、このけやきの木組みに、アゾと呼ばれる電柱のような棒2本を備え付けて出漁します。 島の岸壁から声をかけているのは由季ちゃんのお父さんです。由季ちゃんも欠席ですが、お父さんが除幕式の裏方を務めます。お父さん2人は女川第一中学校の同級生同士。いまはサラリーマンの由季ちゃんのお父さん。定年後は智博君のお父さんの漁を手伝いたいんだと楽しみにしています。実行委員たちの30年後を見るようです。 出島の浜、寺間では、海岸に近い神社の鳥居のそばに石碑を建てました。 十人ほどの浜のみなさんに集まってもらい、一緒に紅白のひもを引きます。 「ああ・・・・・・」「おお・・・・・・」 感嘆の声が漏れます。拍手が沸き起こりました。 93世帯257人が暮らしていた寺間の浜。あの日、16人が犠牲になり、それから4年余の間に24人が他界しました。仮住まいで亡くなった方もいます。心労が重なりました。 帰り際、寺間の区長さんに石碑の感想を伺いました。 「すごいっちゃ。こんなにがんばってなあ」 区長さん自身、第35便でも記しました1960(昭和35)年のチリ津波を覚えています。揺れもなくやってきた波。「津波って来るたんび、違う形で来るんだな」。当時小学5年生です。「この子たちは6年生。だから、すごいんだよ。命なくなんのを見て、こんなのやるって思ったこと自体、えらい」。子どもたちを称える区長さんの目が潤んでいきます。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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