こちらの写真は、私の部屋にあるゼラニウムの鉢植えです。これは、育ての親、花屋の千秋さんにはちょっとお見せできない写真です。 昨年暮れ、千秋さんのお店で買った時は、とても青々とした葉でした。ところが、この夏、日焼けしたのか、しみだらけの葉に変身してしまったのです。もうひとつ買っておいた観葉植物は夏の間に枯れてしまったので、このゼラニウムを枯らすことはできません。 この赤い花を見るたび、買い物した時の千秋さんの笑顔を思い出し、うれしくなります。 昨年9月、牡鹿半島を担当することになり、私は半島近くにアパートを探しました。ですが、被災者の方々でさえお住まいがない時に転勤者の部屋が見つかるはずがありません。まずは仙台市郊外の部屋を借りて取材を始めました。 3カ月後、東松島市の津波をかぶったアパートの修理が終わり、こちらへ移り住みました。窓の向こうには青空が広がっています。5年前に勤務した新潟県の佐渡島は、日本海側の気候の特徴で冬は曇天つづきでしたが、ここ太平洋側は、ちがいます。青い空に励まされます。 窓辺に鉢植えを置こうと千秋さんのお店を訪ねました。コンテナを利用した店内の壁には棚も据え付けられ、小さな鉢植えが並んでいます。おすすめはどれですか。そう相談すると、シュガーパインという観葉植物を選んでくれました。じゃあ、それを。丁寧に包みながら、千秋さんは笑顔で一言。 「さびしくなっちゃうわ、娘をおヨメに出す気分よ」 まあ、うれしい。千秋さん、少し冗談が言えるようになったのですね。よかった。本当によかった。 お店を初めて訪ねたのは昨年9月でした。目が合った瞬間、会釈してくれましたが、すぐに視線をそらし、遠くを見つめるのでした。 「私には何も聞かないで」 千秋さんの表情はそう語っていました。そののち、彼女と同じ遠い目をした人々との出会いを重ね、それは大切な人を捜し続ける表情であることを知ります。 彼女にかわって、最初に、長男のおヨメさんが教えてくれました。千秋さんがお父さんの帰りを待っていることを。 お父さんは船をもっていました。あの日、津波から船を守るため、ひとりで船に乗り込み、女川港から沖へ向かい、それきり、帰って来ませんでした。 千秋さんには3人の子がいます。末っ子は伶奈さん。3人の子の中でただひとりの女の子です。彼女がさらに詳しく教えてくれました。 当時、伶奈さんは埼玉県の大学に通っていました。地震の5日後、女川町へ戻り、母に会い、祖父が行方不明だと聞かされました。その日から母娘は同じ布団にくるまって寝ました。伶奈さんは母の寂しさを思いやっていました。 それより前に、祖母を亡くし、叔母も亡くして、悲しみに沈んでいた母の姿をよく覚えていました。ひとり娘になった母が、祖父の身のまわりの世話に心を砕いていたことも、よく分かっていました。 時折、声を上げて号泣する千秋さんを、伶奈さんはいつも黙って見守っていました。 昨年5月、「花屋ができればなぁ……」という母に、娘は「じゃあ、一緒にやろうよ」と答えました。伶奈さんは母のそばにいることを決め、大学を中退し、町へ帰ってきました。7月、コンテナのお店で花屋を再開しました。 町人口の1割近い人々が津波の犠牲になった女川町。その割合は、東北3県の被災市町村の中で最大でした。その事実の重みを、町の花屋さんも日々、実感するのです。 お客さんの多くは顔見知りです。誰のための花を買いに来たのか、わかります。葬儀の花も用意します。家族7人の遺影が並べられた祭壇にも花を届けました。 昨年10月、千秋さんが私にも少し語ってくれるようになりました。 「いままでは私からお客さんに話しかけることはできなかったの。でも、このごろ、話しかけられるようになってね」 ゆっくりと言葉を紡ぎ出します。 「大丈夫? と聞くの。大丈夫よと返ってくる人はいいんだけどね。ん……と言う人はまだつらいの。そういう人は、商店街の出口まで一緒に歩いて見送るの。ご飯ちゃんと食べてねと声をかけるの」 そう言ってから、また遠くへ目を向け、千秋さんはこうつぶやきました。 「つらいわ。本当につらいわ」 遠くを見つめる目がみるみる潤んでいきました。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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