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*本連載は、長谷部恭男『憲法学の虫眼鏡』として書籍になりました(2019年11月)。ここをクリックして編集する.

その14 適切な距離のとり方について

5/13/2018

 
裁判官は法を適用し、ときには解釈する。条文で言うと、条文が具体の事案に対して適切な答を導くときはその条文をそのまま適用する。具体の事案に対して適切な答を導かないときは、条文に解釈を加える。関連する法令や先例に加えて、起草者がどのような場面を想定してその条文をこしらえたか、面前の事案がそうした場面にどの程度対応しているか、制定時と現在とでどのような事情が変わらず、どのような事情が変化したか等を勘案して条文に解釈を加え、事案に即した適切な答を出そうとする。
 憲法の条文、とくに基本権に関する条文については、話が変わってくる。基本権条項は、それをそのまま適用して何か具体的な答が出てくるということは、まずない。表現の自由の場合で言うと、日本国憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。しかし、何でもかんでも表現活動のし放題というわけではない。他人の名誉を毀損する表現活動は取り締まられるし、人格権侵害にあたるとして差し止められることもある。届出もしないで道路で集会やデモ行進をしてかまわないというわけでもない。「車両は道路の中央から左の部分を通行しなければならない」と定める道路交通法17条4項や、「土地の所有者は、隣地から水が自然に流れて来るのを妨げてはならない」と定める民法214条とは、相当に趣が違う。道路交通法や民法の場合は、何をすべきか、何をしてはならないか、読んだだけですぐに分かる。憲法21条はそうはいかない。
 ​こうした違いは、道路交通法や民法のような普通の法律と、憲法の基本権条項との役割の違いに起因するところが大きい。普通の法律は(多くの場合)、人々にああしろ、こうしろ、ああするな、こうするなと具体的な指図をする。別の言い方をするなら、法律は人々に対して、どう行動すべきかを自分で判断するな、法律の指図する通りに行動しろと主張する。なぜかというと、自分で判断するのをやめて、すべての人が法律の指図する通りに行動することが、本来人のすべきことをより良くすることにつながるからである(と、少なくとも法律の側は主張する)。法律の指図通り、すべての人が道路の左側を通るようにすれば、スムーズにかつ安全に自動車を運行することができる。隣地からの流水をせき止めるようなことを誰もしなければ、水があふれてみんなが困るという事態が起こることもない。
 他方、基本権条項は、何か具体的な行動の仕方を指図しているわけではない。何をするべきか、何をしてはいけないのか、条文を読んだだけでは分からない。基本権条項の役割は(少なくとも)二つある。第一に、政府による表現活動の制約はない(ゼロ)というのが出発点であることを宣言している。もちろん、表現活動が制約されることはある。しかしその場合、なぜそうした制約をするのか、政府の側が人々の納得のいく説明をする必要がある。必要性と合理性の立証に成功した制約だけが認められる。具体的な制約の姿は法律や条例といった条文の形をとる。こういうことはしてはいけないと法律や条例は指図する。
 第二に、市民の側としては、政府の提供する説明に素直に納得することもあるだろう。それが「常識人」のとる行動である。しかし、納得できないという人もいるだろう。そのときは、法律や条例がしてはいけないと指図していることをやることになる。あるいは、法律や条例がこうしろと指図していることをやらないことになる。法律や条例の指図の効力を解除する効果が基本権条項にはあると、市民は主張することになる。ここでの基本権条項の役割は、違憲の疑いのある実定法に則って行動すべきかどうか、実践理性の地平に立ち戻って考え直すよう呼びかける点にある。
 問題は裁判所に持ち込まれる。裁判官は、自由な表現活動が民主政治を支える役割や個人が生き方や思想を自分で決める際に果たす役割等を勘案して、問題となった具体的な市民の行動を許すべきか否か、結論を出す必要がある。その際の裁判官の議論の進め方であるが、まずは問題となった具体的な行動をそもそも「憲法は保護しているのか」が問われる。他人の名誉の毀損、犯罪の扇動、プライバシーの侵害、わいせつ表現など、はるか昔から、そもそも自由に行ない得る表現として保護されていないとされてきた、いくつかの表現活動のカテゴリーがある。それに当たるか否かをまず判断することになる。
 次に、そうした限られたカテゴリーの「保護されない」表現活動に当たらないとなると、憲法によって保護されている表現活動を政府が制約しているわけであるから、政府の側がそうした制約の必要性と合理性を立証する必要がある。「正当化」の局面と言われる段階である。
 この正当化が成功しているかどうかをどのような枠組みに基づいて判断するかについて、大きく分けて二つの流儀がある。第一はアメリカ由来のもので、審査基準と言われるいくつかの合憲性の判定基準を用いる。その中でも支配的な考え方は、制約が表現の内容に基づくものか、内容に基づかない中立的なものかに二分した上で、前者については後者より厳格な審査基準をあてはめるというものである。
第二は、主にドイツから輸入されたもので、比例原則と言われる枠組みを用いる。政府の制約が、どれほどの正当な目的を持っているか、その目的を実現するためにその制約を加えることが必要と言えるか、必要だとして、制約によって得られる利益と失われる利益のバランスはとれているか、こうしたいろいろな論点に即して政府の正当化が成功しているか否かを裁判官が判断する。
 一見したところ、比例原則の方が、いろいろな論点をくまなく拾った上で具体的な事案に即して総合衡量していることになり、結構な判断の枠組みのようにも思われる。他方、アメリカ流の審査基準論は制約のカテゴリーごとにあてはまる基準が決まってしまい、具体の事案に即した柔軟な判断を難しくするのではないか。そう考える人も多い。
 そうなのかも知れないが、ここでは、審査基準論のような硬いアプローチをとることに何か利点はないか、それを考えてみよう。裁判官が憲法を解釈するときも、人一般の日常生活における判断と根本的に異なることがあるわけではない。いくつかの選択肢に直面することになる。それぞれの選択肢に、それを選ぶべき十分な理由があるという状況も少なからずあるであろう。
 日常的な生活の文脈で言えば、休日の朝起きて今日は何をしよう、美術館にポスト印象派の展覧会を見に行こうか、カープのデイ・ゲームを見に行こうか、近くの山にハイキングに行こうか、それとも一日家で音楽を聴きながらブラブラ過ごすか、選択肢はいろいろだということがあるだろう。それぞれに選ぶべき十分な理由があり、そうすべきでないという決定的な理由は見当たらない。しかも、選択肢は相互に比較不能であって、一つの物差しで比べてどれが一番と言うこともできない。そうした場合、人はどれか一つを自分の好みや趣味や普段の習慣に基づいて選択する。どれが一番か(最適か)という判断がつかない場合でも、どれか一つを選ぶことが非合理的な選択になるわけではない。そうして選ばれた選択肢もまた、十分な理由によって支えられており、そうすべきでないという決定的な理由はないからである。私は美術館でポスト印象派の絵を見るのが好きな人間だ。自分がどういう人間であるかを、人は日々の選択を通じて決めていく。
 裁判官も同じでいいのだろうか。いくつかの解釈の選択肢がある。どの選択肢にもそれを支える十分な理由がある。それを選ぶべきでないという決定的な理由も見当たらない。しかし、すべての選択肢を一つの物差しの上に並べて、いずれが最善かを判定することもできない。比較不能である。その場合、個々の裁判官の好みや裁判所全体の趣味や性向で結論を決めてよいのだろうか。そうすることで、裁判官は自分たちがどういう裁判官であるかを自分で選びとっている。あの裁判官は保守的だ、いや革新的だ、単にその時々の政府よりであるだけだ。それでよいのだろうか。
 そうはいかないように思われる。一般市民の日常生活での選択と異なり、裁判官による判決や決定は、社会全体のための決定であり、公的性格を帯びる。個人の選択と異なり、自律的に選択すること自体に意味があるとは考えられていない。なぜその選択をしたか、なぜほかの選択ではなかったのか、理由づけを迫られ、その理由づけは公開される。いったん公開された理由づけは先例となり、その後も踏襲されるべきものと世間一般に受け取られる。自分の好みや趣味や性向で決めたわけではないことを世間一般に示す必要がある。しかも、裁判官は中立公正であることが求められる。政党や新聞とは異なる。
 そういう意味で裁判官には、自分自身の趣味や性向や政治的立場と裁判の結論との間に、距離を置くことが要求される。そうした理由づけが示されないと、単に政府や議会に気を遣っただけではないか、裁判官自身の保守的な(あるいは革新的な)性向が反映しただけではないか等と勘繰られ、その恣意性を批判されることになりかねない。
 そうした適切な距離を置くため(置いていると世間一般に見てもらうため)には、判断の手順や方法を硬く方向づける基準や法理の方が、そうでない判断枠組みよりも、好ましい。判断すべき論点のみを示して、後は具体の諸事情に即した総合衡量をしましたという判断枠組みでは、やはり、政府や議会に気を遣っただけではないか、保守的な裁判所の性向を反映しているだけではないかと勘繰られることになる。裁判官自身の生の価値判断が剝き出しで表現されているだけだからである。それでは、外からの批判・攻撃に対する防御は弱まる。批判する側の議論も、十分な理由によって支えられているからである。
 以上のような分析の射程は限定されている。裁判官が複数の解釈の選択肢に直面し、どの選択肢にも十分な理由があり、それをとるべきでない決定的な理由もなく、相互に比較不能だという場面ではじめて働き始める分析である。そうした場合に、いつも裁判官が頼るべき比較的硬い法理や審査基準があるというわけでもないであろう。
しかし、複数の解釈の選択肢が相互に比較不能である場面は、憲法事件では決して稀ではない。一方の結論を支える理由が他の結論を支える理由を「明らかに」上回ることもあるだろうが、裁判所に持ち込まれる事件、とくに最高裁まで争われる事件で、そうしたことはそうは起こらない。複数の解釈の選択肢が相互に比較不能であるとき、先例となった硬い法理や基準は、裁判官が自身と結論との間に距離を置くことを可能とする。裁判官は、法理や基準の背後に身を隠し、批判・攻撃から身を守ることができる。
 一般的な正義の原則に他ならない比例原則では、そうはいかない。具体的な事情に即した裁判官の生の価値判断が、そのまま表面化するからである。自分の判断の客観性に自信のある裁判官ならそれでよいかも知れない。しかし、比較不能な選択肢の間の選択について、「客観的な」判断などあり得るものだろうか。それは根拠のない自信のように思われる。
 いやそうした議論は単純に過ぎるという反論があるかも知れない。比例原則にもとづく判断が裁判官の裸の価値判断を表現しているというのは単なる見せかけで、実は形式的な装飾として比例原則の定式が使われているだけだ。裁判官の防御壁になっている点では、変わるところはないという反論である。
 ​しかし、この反論は役に立たない。比例原則を用いる判断枠組みの利点は、それが具体的事案の多様な側面を衡量する裁判官の価値判断を率直に示している点にある。それがうわべの装飾にすぎないという反論は、この判断枠組み自体の信用を掘りくずす。表立っては言えない反論である。

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    Author

    長谷部恭男
    ​(はせべやすお)
    憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。

    *主要著書 
    『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年
    『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992
    年
    『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999
    年
    『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000
    年
    『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004
    年
    『憲法とは何か』岩波新書、2006
    年
    『Interactive 憲法』有斐閣、2006
    年
    『憲法の理性』東京大学出版会、2006
    年
    『憲法 第4版』新世社、2008
    年
    『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年
    『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年
    『憲法の円環』岩波書店、2013年
    共著編著多数

    羽鳥書店
    『憲法の境界』2009年
    『憲法入門』2010年
    『憲法のimagination』2010年

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