日本国憲法9条2項は、政府が「陸海空軍その他の戦力」を保持することを禁じている。この条文に照らして、自衛隊は憲法違反であると主張する人がいる。最初にお断りしておくと、いわゆる安保法制が可能とした集団的自衛権の部分的行使が憲法違反であるか否かと、この問題は別である。9条2項に照らして自衛隊は憲法違反だと主張する人は、自衛隊による武力の行使が個別的自衛権──日本が直接に攻撃されたとき、それに対処するため必要最小限で武力を行使する権利──に限られているとしても、なお憲法違反だと主張する人である。
ここには、二つのレベルの異なる論点がある。言語哲学のジャーゴンでいうと、意味論上の論点と語用論上の論点である。 意味論上の論点は、「戦力」という概念は当然に、あるいは少なくともその核心的な意味において、自衛隊を含むのか、という論点である。他方、語用論上の論点は、かりに自衛隊が「戦力」という概念に含まれるとしても、結論として自衛隊の保持は憲法違反といえるのか、という論点である。 戦力ということばは、いろいろに理解できることばである。歴代の政府は、このことばを「戦争遂行能力」として理解してきた。war potential という条文の英訳(総司令部の用意した草案でも同じ)に対応する理解である。9条1項は、明示的に「戦争」と「武力の行使」を区別している。「戦争遂行能力」は「戦争」を遂行する能力であり、「武力の行使」を行う能力のすべてをおおうわけではない。そして、自衛隊に戦争を遂行する能力はない。あるのは、日本が直接に攻撃されたとき、必要最小限の範囲内でそれに対処するため、武力を行使する能力だけで、それは「戦力」ではない、というわけである。 これに対しては、「戦争」もいろいろだという異論があり得る。二度の世界大戦は明らかに「戦争」である。しかし、より当事者も地域も限られたフォークランド紛争や六日戦争も「戦争」と呼ばれることがある。「交通戦争」や「ブタ戦争」のような明らかに比喩的な意味のみで用いられている事象を除いたとしても、武器をもって複数当事者が戦う紛争であれば、小規模なものであっても「戦争」と呼ぶのはおかしいとまではいいにくい。そうなると、ピストルで武装する警察組織も「戦力」なのであろうか。警察は違うとして、沿岸警備にあたる海上保安庁は違うのか。海上保安庁が沿岸警備のために必要だとして、小型の艦対艦ミサイルや艦対空ミサイルを備えたらどうなるのか。 ここにあるのは、いわゆる「山のパラドックス paradox of the heap」である。落ち葉が何枚集まると「山」になるだろうか。一枚の落ち葉では山ではない。二枚でもそうではないだろう。N枚のとき、まだ山ではないとすると、N+1枚になったとき、途端に山になるとは考えにくい。となると、いつまでたっても山にはならないのか。そんなはずはないのだが、しかし、どこで山になったかを見分けることは、そう簡単ではない。自衛隊が「戦力」であるか否かを見分けることも同様である。歴代の政府の理解が、あり得ないおかしな理解だというわけではない。 自衛隊が9条2項にいう「戦力」に当然にあたるという結論は、当然の結論ではない。 日本国憲法は議院内閣制を採用しているが、議院内閣制の下では必ず、行政権に自由な議会解散権があるわけではない。ドイツ基本法に典型的に見られるように、20世紀後半に進展した「議院内閣制の合理化」の一環として、憲法典によって解散権の行使を厳しく制約する国も多い。ドイツ基本法68条によれば、連邦宰相の在任中に連邦議会が解散されるのは、連邦宰相を信任する動議が連邦議会議員の過半数の同意を得られないときに限られ、しかも連邦議会議員の過半数で新たな連邦宰相が選挙されたときは、この解散権は消滅する。戦後のドイツでは、連邦議会の解散は3度しか行われていない。
また、議院内閣制の母国であり、その典型例とされるイギリスでは、2011年9月15日成立した立法期固定法(The Fixed-term Parliaments Act 2011)により、次の選挙の期日を2015年5月7日と定めるとともに、その後の総選挙は、直近の総選挙から5年目の5月の最初の木曜日に施行することとした(同法1条)。ただし、庶民院が総議員の3分の2以上の多数で総選挙が行われるべきことを議決したとき、および、庶民院が政府不信任案を可決し、その後14日以内に新たな政府に対する信任案が可決されなかったときも総選挙が施行される(2条)。 もともと議会の解散が稀なフランスでは、政府与党が自らにとって最も有利な時期に総選挙を施行する、党利に基づく解散権の行使は、「イギリス流の解散 dissolution anglaise」と否定的に語られる。シラク大統領が1997年に行った解散がフランスではじめての「イギリス流の解散」とされるが、シラク大統領の与党はご都合主義だとの批判の逆風にあおられて総選挙で敗北し、ジョスパン氏の率いる社会党との保革共存を余儀なくされた。 さらに、ノルウェーのように、議院内閣制の国であると目されながら、そもそも議会の解散制度が存在しない国さえある。 議院内閣制である以上は、内閣あるいは首相が自由に議会を解散できるという主張は、ますます説得力を失いつつある。そうした主張が堂々と臆面もなくなされ、疑われることもない日本は、主要先進国の中ではむしろ例外的な存在である。 宮沢俊義が提唱した八月革命説は、日本国憲法の前文冒頭の言明である「日本国民は・・・・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と、憲法に先立つ天皇の上諭である「朕は・・・・・・枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」との間にある亀裂から出発する。
上諭は、新憲法が大日本帝国憲法の「改正」として成立したことを宣言している。その帝国憲法は天皇に主権があることを根本原理としていた。ところが、新憲法は、前文で主権が国民に存することを「宣言」している。憲法の根本原理を「改正」することができるものであろうか。また、上諭はあくまで天皇が旧憲法の手続に従って憲法を改正した結果を公布するとしているのに対し、前文は、国民が「この憲法を確定する」と述べている。憲法制定権力は、天皇と国民のいずれにあるのだろうか。 八月革命説は、こうした疑問を解消してくれる(と主張する)。実は、主権=憲法制定権力は、日本政府がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日に、天皇から国民へと移行した。こうした移行を法的に筋が通った形で説明することは不可能である。主権者たる天皇が「これからは国民主権だということにしよう」と決めたから、主権が国民に移ったのだとすると、天皇が考え直せば、主権はまた天皇に逆戻りすることになる。そんなことは、ありそうもない。つまりこの主権の移行は、法的な意味の革命である。憲法の根本原理が変動したのだ。 この時点で、大日本帝国憲法の内容も、劇的に変容した。国民主権原理と矛盾・抵触する部分は、その効力を失った。したがって、日本国憲法の上諭を述べている天皇は、もはや主権者としての天皇ではない。国民主権に立脚する憲法によって権限を与えられた、単なる国家機関としての天皇である。そして、劇的な変容を被った旧憲法と現憲法とは、法的に連続している。国民主権原理に基づく変容後の旧憲法の「改正」として、現憲法は成立している。そこに不思議はない。 目からうろこが落ちるような見事な論理である。たいていの人は(私もそうだったが)納得してしまう。その後は、この学説の身分は何か、それは認識なのか解釈論なのか。さらに、この学説の前提は何か、国際法優位説が前提なのか等々の議論が続いている。 とはいえ、八月革命説が隅から隅まで納得のいく議論かと言うと、そうでもないだろう。たとえば、そこで問題とされている「主権」とは何だろうか。 藤田宙靖教授は、最近、「自衛隊76条1項2号の法意──いわゆる「集団的自衛権行使の限定的容認」とは何か」という論稿を著され(自治研究93巻6号(2017年6月号)、以下「法意」と略す。)、その中で、拙著『憲法の理性〔増補新装版〕』(東京大学出版会、2016)補論Ⅱで筆者が行った主張に対する応答をしておられる。筆者の主張は、藤田教授が以前に公表された論稿「覚え書き──集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」(自治研究92巻2号(2016年2月号)、以下「覚え書き」と略す。)への疑問を提示するものであった。
筆者が日頃から尊敬してやまない藤田教授から、拙論に対する応答をいただいたことは大変にありがたいことであり、また、藤田教授と筆者との間の対立点が奈辺にあるかを明らかにする上でも、大変に意義深いものであると筆者は理解している。結論を簡単に述べると、当初から懸念されたことではあるのだが、藤田教授には、実定法とその解釈に関する筆者の議論の意味内容が十分には伝わっていない。裏返して言うならば、藤田教授が理解するような法規範とその解釈との関係は、少なくとも実定法とその有権解釈との関係にかかわる限りでは、現代日本の法律家共同体の共通了解としては、およそ成り立ち得ないものであると、筆者は考えている。 藤田教授による法規範とその解釈に関する考え方の核心は、次のようなものである(法意14頁)。 「法律家共同体」の世界における法解釈論は、ある法律(ここでは憲法典をも含む)の規定が制定されることによって何らかの規範が生じたということを前提とし、その規範の内容はどのようなものか(何を定めているのか)あるいは、何が定められていると考えるのが最も妥当であるか、という問題を巡って、各論者がそれぞれに自分の考えを主張し競い合う、という思考枠組み・理論枠組み(法解釈論上の作法)の中で展開される。 この理論的な競い合いにおいては、「論者の平等が保たれている」。したがって、解釈を行う主体がたとえ内閣法制局であっても、「それ自体の性質はなお一つの「解釈」である」(法意15頁)。そうである以上、そうしたさまざまな解釈については、いずれかが「客観的に正しい唯一の解釈」であるということはあり得ない(法意11頁)。競い合う諸解釈は、あくまで「内容」の「適否」について同等の立場で競い合っている(法意15頁)。 こうしたスケッチから明らかになるのは、藤田教授は、現代日本の実定法は、あくまで制定法規であると考えているらしいことである。その解釈は実定法ではない。そして、実定法の諸解釈は、あくまで解釈であるという点ではすべて平等の地位にあり、いずれかが特権的地位に立つということはない。一学者の解釈論も、内閣法制局の解釈論も、そしておそらくは最高裁判所の解釈論も、すべては平等である。こうした理解からすれば、新たな解釈の方が「正しいと信ずる解釈」だというのであれば、「従前の解釈を変更することはいつでも許される」という立場を内閣法制局の「有権解釈」についてとることも、もちろん許されるのであって、それがなぜ筆者が主張するように「極めて不適切」であるのかは、「私 [藤田教授] には到底理解できない」(法意12頁)こととなるのも当然である。有権解釈とされる解釈と、学者の行う非有権解釈との間に差異はない。「通説・判例」にも何ら特別の地位が認められることはない(法意15頁)。 それにしても藤田教授は、単なる一法学者がその私的見解を改めるのと同様のことを2015年7月に内閣法制局は行ったに過ぎないと、そして、それにもかかわらずその結果として、安保法案に対するあれほどの広汎な国民の反対運動が起こり、数多くの著名な法律家が安保法案は違憲であるとの論陣を張ったのだと、本気で信じているのであろうか。また、その程度の見解の変更に過ぎないものの前提として行われた内閣法制局長官の人事が、あれほどの論議と批判を巻き起こしたことも、単なる一法学者の私的見解の変更と同等の帰結をもたらした、そのきっかけに過ぎないと、本気で信じているのであろうか。 さらにまた、藤田教授の覚え書きが公表されたとき、藁をも掴む思いでそれにすがりついた人々が手にしたのは、結局のところ、単なる一法学者が私的見解を改めるのと同等のことを内閣法制局が行っただけのことだから、あまり気に病むほどのことはないというアドバイスに過ぎないことになる。何より、すべての解釈論が同等なのだとすると、安保法案は違憲だと考える学者が口を揃えて違憲だと唱えたとしても、そのこと自体を非難したり疑問視したりする理由は藤田教授にはないということになるはずである。 デレク・パーフィットによると、われわれが日常的に想起し、従おうと心がける義務の多くは、自分と特別な関係にある人々に対する義務、つまり家族や友人、恩人や同志、同僚などに対する義務である。こうした濃密な人間関係における義務は、希薄な関係しかない人一般に対する義務に優越する(Derek Parfit, Reasons and Persons (OUP 1984), p. 95)。
10年以上前になるが、筆者は基本権保障に関する内国人・外国人の区別は、濃密か希薄かという違いで説明できるかという問題を検討したことがある(拙著『憲法の理性』(東京大学出版会、2006)第8章)。結論はこの違いでは説明できないというものであった。各国政府が自国民の基本権保護を第一義的に任務とするのは、それが地球全体として人権保障をはかるための効果的手段だからである。あくまで人一般を対象とする希薄な義務を実現しようとしている。 濃密か希薄かというこの問題をもう少し考えてみよう。議論を単純化するために、濃密な人間関係で当てはまる義務を倫理(ethics)、希薄な人間関係で当てはまる義務を道徳(morality)と呼ぶことにする。つまり、倫理は道徳に優先する(Avishai Margalit, On Betrayal (Harvard University Press, 2017)の言葉遣いを借用しています)。 日本の民事訴訟法・刑事訴訟法は、証人尋問において、近親者が刑事訴追を受け、または有罪判決を受けるおそれのある証言を拒むことができるとする(民訴196条、刑訴147条)。人一般としては証言すべき義務がある。しかし、近親者が罪に問われるおそれがあるときは別である。 教科書類では、こうした場合でも証言を強制するのは情において忍びないし、強制しても真実を語る保証がないからという説明がされている。つまり、本当は人一般の義務に従って真実を語るべきなのだが、こうした特殊な事情の下では、非合理的な「情」に支配されるために、人としての本来の義務を果たすことができないから、というのが根拠だということになっている。法の観点から見れば、そうなのかも知れない。しかし、親兄弟が罪を問われることになっても、必ず真実を述べることが人としての本来のあり方と言えるのだろうか。 緊急事態に備えるべく、憲法を改正しておくべきだという議論がある。実際には、現行法制上も、災害対策基本法や各種の有事立法、さらには警察法第6章の「緊急事態の特別措置」等、緊急事態への対処を目的とする立法は数が多い。それなのに、憲法を改正してまで、さらに緊急事態に備えるべきだという議論は──まっとうな議論として受け止めればだが──次のような理屈なのであろう。
今でも緊急事態に備えた立法がいろいろと揃っていることは分かるが、実際に現在の法制度で十分に対処できるかどうかは、その場になってみないと分からない。その時になって法律を急拵えで作るとしても、国会の召集とか、衆参両院の審議をするとか、いろいろと時間もかかるだろう。内閣だけで制定できる政令で、法律と同等の効力をもって対処できるようにしておく方がよいのではないか。 それなりに筋は通っているようだが、本当にこれでよいのだろうか。未来のことはたしかに分からない。何が起こるか分からないのだから、いくら整っているとはいえ、現在の法制度で対処できない事態が発生する可能性も、小さいとはいえ起こらないとは限らない。理屈としてはたしかにそうであろう。しかし、何が起こるか分からないから、何にでも対処できるようにしておこうとすると、とてつもなく広い権限──ここでは法律と同等の効力を持つ、つまり既存の法律も改廃することもできる効力を有する政令を発する権限を政府に与えなければならないことになる。 緊急事態に対処するための政府の権限は濫用されるものである。権限が広ければ広いほど、濫用されるリスクは高まる。悪くすると、ワイマール共和国での緊急事態権限がそうであったように、既存の政治体制を守るための権限が、既存の政治体制を根幹から覆す手段として使われかねない。何が起こるか分からないことのすべてに対して、予め備えておこうとすること自体に、とてつもないリスクが含まれている。 ではどうするのか、何の備えもなくてよいのか。 前述したように、それなりの備えは現在でもある。しかし、それでは対処できない事態が発生するリスクは、たしかにある。さて、そのとき、政府はどのような行動に出るであろうか。法律が我々に与えている権限はここまでだ、それ以上のことをすると法律に違反することになる。緊急事態に対処するためには必要なことなのだが、法治国家の政府として、法律違反の措置はとれない。やはりやめておこう──それが政府のとるべき態度だろうか。 ダイシーの『憲法序説 An Introduction to the Study of the Law of the Constitution』第10版は、「法の支配the rule of law」に関する第2篇の末尾で、政府はときに、法の支配に反して行動すべき場合があると言う(pp. 412-13)。 暴動や侵略により、法治体制を守るためにも、法に違背せざるを得ない場合はある。政府がとるべき行動は明白である。内閣は法に違背した上で、議会が事後的に免責法(Act of Indemnity)を制定することを期待すべきである。この種の法の制定は、議会主権の究極にして最高の行使である。免責法は違法行為を合法化する。それは、いかにして法と議会の権威の維持と危機の際に政府が行使すべき権限とを組み合わせるかという・・・実践的問題を解決する。 カール・シュミット著『政治的ロマン主義Politische Romantik』*は、初版が第一次大戦直後の1919年に刊行された。同年6月にはヴェルサイユ条約が調印され、8月にはワイマール共和国憲法が制定されている。シュミットは、18年11月のストラスブール大学閉校のため、同大私講師の地位を失い、19年9月にミュンヘン商科大学講師の職を得た。その間、彼はミュンヘンで行われたマックス・ウェーバーの講演「職業としての政治」に出席している。
ロマン主義という概念の使用法は恐るべき混乱に陥っており、両立し難い多種多様な意味が込められているというのが、シュミットの診断である。彼によると、ロマン主義を特徴づけるのは、カスパー・ダーフィト・フリードリヒに代表される山岳風景や廃墟の描写でもなく、神秘主義や異国情緒や恋歌でも、ましてや革命思想でもなければカトリシズムに連なる保守主義でもない。合理主義でも古典主義でもないものをロマン主義とまとめて呼んだところで、意味のある理解にはつながらない。ロマン主義を特徴づけるのは、その形而上学的前提であり、そこから流出する個人観と世界に向き合う姿勢である。 ロマン主義の形而上学的前提はOkkasionalismus (英語で言うoccasionalism。シュミットはOccasionalismusと綴る)である。日本語では偶因論とか機会原因論等と訳されているようであるが、何のことだか今一つピンと来ない。occasio, occasionには、たしかに偶然事(Zufall, contingency)という意味も含まれるが、ここではあり得る批判を恐れずにあえて「事象主義」と訳すことにしよう。シュミットは事象主義の代表的論者として、マルブランシュの名をしばしば挙げる。 ことの起こりは、デカルトが始めた心身二元論にある。人は心と身体からなる。この2つはどのように相互作用するのか。それともしないのか。心が身体を支配しているのか、それとも心は幻ですべては身体の働きなのか。どちらでもないのか。 この疑問への回答(の1つ)が事象主義である。心に浮かぶ想念、身体の動き、それらはすべて何の原因でもなく何ももたらさない。つまり、心身は相互作用を起こすことはない。すべての原因は神であり、心や身体の動きはその単なる現れ(事象)に過ぎず、本質的な意義を持たない。特定の身体の動きという事象に対応して、神は適切な心理状態をもたらす。特定の心の動きという事象に対応して、神は適切な身体の動きをもたらす。それだけである。 そうなると、ことは心身の相互作用にはとどまらない。この世界で起こっている(かのように見える)すべては、唯一の真の原因である神の力の現れであり、それ自体は何の原因でもない。それらの間には何の一貫性も整合性も因果関係もない。バラバラの事象群に過ぎない。 時は近代に至り、神は退場した(多くの人々にとっては)。しかし代替物はある。歴史を突き動かす理性、生産力の発展段階、共同体の理念と命運等々である。いろいろな候補があり得るものの、ロマン主義者に共通するのは、この世の出来事、自身の経験のすべては、本質的な意義の欠けたかりそめの事象に過ぎないという姿勢である。本質的な原因は、諸事象の背後にあるすべてを支配する真の実在、別次元の高度な力に求められる。 この根本的な形而上学から──論理必然というわけではないのだが──この世界に対するさらなる態度と思考様式が導かれる。まず、この世のすべてはかりそめの事象に過ぎない以上、それに対する適切な態度は、美的な観点からの受け入れであり、鑑賞/ 感傷である。つまり受け身の姿勢である。この世の事象に積極的に関与する意味はない。しかし、審美的鑑賞/ 感傷の主体はあくまで「私1人」であり、そこから奇妙にも主観の絶対化が帰結する。こうして生まれた絶対的主観はこの世のすべてに対し、恋人であるはずの対象に対してさえ無責任でアイロニカルな態度をとる。崇拝の対象となるべき恋人の気高さは、ドン・キホーテにとってのドルネシア姫と同様、実は自身の美的インスピレーションの反映であり、恋人そのものは偶然の事象(Anlaß)に過ぎない。 しかし、こうしたアイロニーは絶対化された自身には妥当しない。そこに立ち現れるのは、自己に対する客観視を欠いた、つまりユーモアのセンスを欠いた大まじめでpatheticなアイロニーである。道徳も倫理もその意義を否定され、すべては個々人の情動と霊感へと解消される。つまり、ロマン主義とは、極端に主観化され、私化された事象主義である。 日本国憲法73条1号は、内閣の職務として「法律を誠実に執行し、国務を総理すること」を挙げている。「国務を総理すること」が何を意味するかについて、近年では、それがいわゆる「統治」ないし「執政」を含むか否かについて論争がある。
ここで取り上げるのは、およそ論争が起こりそうもない「法律を誠実に執行し」の方である。行政権をつかさどる内閣が、法律を誠実に執行すべきことは、疑う余地のない明白なことのように思われる。しかし、そうであろうか。 教科書や注釈書の類で議論されているのは、内閣が違憲だと考える法律の執行を拒否できるかである。日本国憲法は、議院内閣制の仕組みを採用しており、法律として可決・成立する法案の大部分は、内閣提出法案(いわゆる「閣法」)である。また、議員提出の法案であっても、少なくとも衆議院の多数派を支配しているはずの政権・与党が違憲だと考える法案の成立を阻止することは、容易である。現実には、なかなか起こりそうもない設定ではあるが(政権交代が起こったときであろうか)、学説の多くは、内閣はたとえ違憲だと考える法律であっても、その法律の執行を拒否し得ないとする。 とすると、内閣は現に存在する(妥当している)法律は、すべて100パーセント執行する義務を負うのであろうか。少し考えてみれば分かるように、そんなことは不可能である。グリコ・森永事件を引き合いに出すまでもなく、明々白々たる犯罪であっても、その犯人を必ず検挙できるわけではない。また、犯罪を実行した容疑で逮捕されたとしても、必ず起訴されるわけでもない。さらに、軽犯罪法で明確に犯罪とされている行為であっても、日常的に放置されている行為も少なくない。 刑事法の領域でさらに話を進めると、内閣には恩赦を与える権限も認められている(憲法73条7号)。裁判による刑の言い渡しの効果を変更(減軽)し、特定の罪について公訴権を消滅させることができる。この罰条については、執行しませんと明示的に宣言することさえできるわけである。 となると、内閣を頂点とする行政は、違憲だとは考えない法律(とその適用結果である判決)であっても、行政独自の判断で、100パーセントの執行はしないことが、憲法上も許容されていることになりそうである。法の支配や権力分立原理は、一体どうなってしまうのだろうか。 一つの答え方は、利用可能な人的・物的資源の範囲内で可能な限り「誠実に法律を執行」することが求められているのであって、それ以上のおよそ実現不可能なことは求められていない。したがって、たとえ行政が法律の要求を100パーセント実現し得ないとしても、そこに故意・過失があるとは言えず、少なくとも国家賠償責任を問われることはない、というものであろう。また、恩赦は憲法自体が明示的に認める例外であり、例外にとどまり続けている限りは、さほど気にするにも及ばない(あなただって、そんなに気にしていなかったでしょう)。起訴便宜主義も、刑事訴訟法が明文で認めている話である(248条)。 Q: 定期試験前の駆け込み質問で申し訳ありません。憲法21条の表現の自由に関する質問なんですが。
A: ああいいですよ。なんですか。 Q: 憲法21条では「一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されていますが、わいせつ表現や名誉毀損表現、犯罪の煽動などは刑罰の対象とされています。実際には「一切の表現の自由」が保障されているわけではないことは、誰もが知っていることです。この事態を説明するためには、憲法12条や13条を援用する必要があるのでしょうか。 つまり、憲法の保障する権利は、国民は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(憲法12条)という条項や、国民の権利は、「公共の福祉に反しない限り」において「最大の尊重を必要とする」(憲法13条)という条項を援用しない限り、わいせつ表現や名誉毀損表現が制約されていることは、正当化できないのではないか、ということですが。 A: 憲法の定期試験で不可をとりたくないのなら、そんなことは答案に書かない方がいいでしょう。あなた自身の身のためになりません。 Q: なぜですか? 筋は一応通っていると思うのですが。 日本の最高裁は、法令を違憲と判断することが稀であることで世界的にも知られている。数少ない法令違憲判断の中に、1987年に下された森林法違憲判決がある。
この判決では、持分価額が2分の1以下の森林の共有者は、共有林の分割を請求することができないとする森林法の規定が問題となった。共有者は、いつでも共有物の分割を請求することができるとする民法256条に対する特則となっている。たとえば、ある森林を2人で半分ずつ共有している場合、いずれの共有者も、持分価額は2分の1なので、分割請求ができないことになる。 最高裁の大法廷は、この森林法の規定には、森林経営の安定を図るという立法目的に照らして、必要性もなければ合理性もないことが明らかだとして、財産権を保障する憲法29条に違反するとした。この場合、本則にもどって民法256条の規定する通り、森林法の共有者は持分価額が2分の1以下でも、分割請求ができることになる。分割すれば、それまでの2分の1ずつを2人がそれぞれ単独所有することになる。 この判決で興味深いのは、物の所有のあり方は、単独所有が原則だと最高裁が明言していることである。なぜかというと、「共有の場合にあっては、持分権が共有の性質上互いに制約し合う関係に立つため、単独所有の場合に比し、物の利用又は改善等において十分配慮されない状態におかれることがあり、また、共有者間に共有物の管理、変更等をめぐって、意見の対立、紛争が生じやすく、いったんかかる意見の対立、紛争が生じたときは、共有物の管理、変更等に障害を来し、物の経済的価値が十分に実現されなくなる」からである。そして、「共有物分割請求権は、各共有者に近代市民社会における原則的所有形態である単独所有への移行を可能ならしめ、[物の経済的効用を十分に発揮させるという]公益的目的をも果たすものとして発展した権利」である(下線筆者)。 単独所有が原則であるからこそ、共有物の分割請求権を制限すると、憲法の保障する財産権を制約していることになるし、必要性と合理性において十分に正当化されない限り、そうした憲法上の権利の制約は違憲となる。違憲とされれば、実定法の状態は単独所有が原則とされる民法256条の規定通りの状態に回帰することになる。いわゆるベースラインへの回帰である。 |
Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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