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4 性差のゆらぎ

12/19/2017

 
 ​若い女性編集者と仕事をするのは楽しいもの。打ち解けたところで、かならず質問するのは――「ところで男性と女性に能力差はないと思っている?」――「もちろんです!」と大抵は明るい微笑が返される。つづいて「わたしはねぇ、東大出版会からヨーロッパ批判三部作の2冊目を刊行して、初めて能力差という呪縛への疑念を抱き、スタール夫人に出逢って、初めて解放された」と述懐すれば「ふーん、そうなんですかぁ」という顔。たしかに今なら、男女の能力差など絶対にありません、むしろのびやかで創造的な女性こそ将来が楽しみ、と断言できるような気もするのです。これは二十代の若者たちを見て痛感することであり、同じような感想をもらす年長の人間は、男女を問わず少なからずいるわけです。
 それにしても「呪縛」の源にある隠然たる「序列的性差」の力学が、わたしの個人的な妄想であろうはずはない。などと考えていたところで「日弁連、副会長に女性2人以上 「クオータ制」導入へ」「最高裁判事で初の旧姓使用へ 来月就任の宮崎氏『当然』」という並んだ見出しが目に留まりました(朝日新聞12月9日朝刊)。女性副会長については、何人中2人かというと、男女同数を前提とする「4人中」でもなく、指導的地位の女性比率達成目標30%を想定した「6人中」でもなく、なんと「15人中」であり、しかも、この「クオータ制」による女性枠確保のために新たに2人の増員を定めてのこと。ちなみに現在、弁護士の女性比率は18.4%だそうです。この現状を「クオータ制」と名づけることが許されるわけ? と批判的に見ている若い世代の弁護士は、男女を問わず少なからずいるのだろうと想像します。新任の最高裁女性判事が戸籍名と旧姓の併記ではなく「旧姓での報道を強く求め」、旧姓使用を「当然だと思っています」と述べたという話は、まさに「当然です」と強く賛同しておきましょう。それにしても、このケースが「初の旧姓使用」だとは・・・・・・。両性の平等を謳った憲法のもとで、男女の能力差は「自然的」には全く存在しないという一般的な承認と、これだけ歴然たる「社会的」な格差とを、平然と共存させている日本とは、いったい如何なる国なのか。将来の世代のことを考えれば、ここで沈黙するわけにはゆかないのであります。
 「序列的性差」とわたしが呼ぶのは、先回に紹介した人類学者フランソワーズ・エリチエによる「二本のネクタイ」の言い換えです。男性と女性は対等な選択肢として並置されているように見えるかもしれないが、じつはあらゆる二項対立的思考を貫く「序列化」の力学が作動して、女性は常に負の側に位置づけられるというのが、その要点(「3. 二本のネクタイあるいは男女格差について」)。エリチエによれば、これは特定の社会というより人類全体に当てはまる一般法則であるとのこと。この指摘に寄り添うかたちで、みずからの実感にもとづく「性差のゆらぎ」という概念を素描してみたいと思います。
 ​まずは昔話から。わたしは1990年に東京大学教養学部にフランス語の教師として着任したのですが、女性教官(その頃は「教員」とはいわなかった)が初めて二桁になったのだから(300人超の中の10人目です)、何か企画しようよ、という話がもちあがり、英独仏語の3名の助教授が「リレー講義」のようなものを立ち上げました。これを「性差文化論」と名づけたのは、まだ「ジェンダー」という言葉が定着していない時代だったから、そして「女性学」や「男性学」は「性」を分離して相互に「排除」するものとして捉える傾向があるからというのが理由です。当初は「えっ、セイサって何?」という感じでしたから、語彙の使用としても先駆的、と多少は自慢をさせていただいて。実績をもつフェミニストの方々も講師としてお招きしましたが、動物行動学、心理学、社会学、人類学、歴史学、体育といった具合に駒場キャンパスの研究室を探訪してあるき、男性教官たちに相談してアイデアをいただきながら担当を依頼。迷惑そうな顔をされたことは一度もありません(なぜ自分に頼まない、とむくれた方はおられたけれど)。
 領域横断的なリレー講義を束ねる発想は、男女の「性差」を固定的なものとみなさないという一点のみ。たぶん3年目あたりに「性差のゆらぎ」というタイトルを掲げました。「排除」するのではなく相互に「浸透」するもの、無限に「変化」しうるものとして人類や自然界の性を考えようという意図です。階段教室の通路に座り込む者もおり、立ち見も出るほどの人気授業でしたが、この学期には、特別の雰囲気が漂っていた。社会的な問題については、まだ専門的な発言が得られる時代ではなかったのですけれど、今日の用語でいうならLGBTの自覚をもつ人、あるいはその傾向を感じている人たちがカミングアウトした。レポートなどで明確に話題にした人は少数でしたが、教室で並んで席に着いている男女が友人なのか、恋人なのか、同性カップルなのか、それなりに見分けがつくという新発見もありました。
 そう、こんな懐かしい思い出もございます。個人研究室に突然あらわれた履修者に「先生もそうなんですかぁ?」と見つめられ、どきどきしながら――これがプルーストのVous en êtes? というシチュエーションだと妙に納得し――「いえ、わたしは男の人が好きですよ」と懸命に受け流したことがある。とびきりお洒落で美しい女子学生でした。わたしも四十代だったから、からかわれたのだろうと今では思っています。それはそれとして、あの頃から「性差のゆらぎ」は着実に、さまざまの場面で起きていたように思われます。わたしが組織の年長者になり始めたころに、パパになったばかりの若手教員が、今日はママが風邪を引いたから、ぼくが子供をお風呂に入れる、だから早く帰る、と宣言しました。それが言える環境になったということ、そしてここでは男性が臨時に「母性」を代行していることに注目したいと思います。つまり「母性」と「女性」を等号で結びつけるという慣習はゆらいでいないのです。しかるにわたしは人類学者エリチエと同様に、「母性」の大方は慣習にもとづく「社会的なもの」の範疇に属し、これが「社会的なもの」である以上、話し合いを重ねたうえで契約によって変更できると考えています。わかりやすくいえば、「自然的なもの」である出産と母乳を除けば、男も女も子育てはできる、育児の苦手な人や上手な人は男にも女にもいる、というだけの話ですが。ところで「母性に目覚めた青年たち」とわたしが呼んでいる幸福な新世代は、たんに優しいパパ、開かれた「父性」ではなくて、とても好ましいやり方で「母性」の領域を侵犯しているのではないでしょうか。そんなことを、かつての男子学生にメールで書き送ったら、こんな返事が返ってきました――幼稚園にくるパパたちをみて、ときどき、母性的だなあと思っていました。おおげさにいえば、パパも(社会的)母性を行使する権利はある、と(笑)。
 こんなほのぼのとした「性差のゆらぎ」がじわじわと社会に浸透してくれることを望んではおりますが、それにしても個別のエピソードが特効薬になるほど現実は甘くない。そもそもマイノリティーはその定義からしても、ほんの小さな場所を占めているだけなのに、なぜかマジョリティーの場所を侵犯しているとみなされます。民族であれ、宗教であれ、性の問題であれ、これは共通する現象です。そこでふたたび過去をふり返り、マイノリティーという自意識にかかわる個人的な体験をご報告。女性が男性の領域を侵犯したという鮮烈な印象を覚えた小さな出来事です。わたしが着任したころの教授会は、内職や雑談はご自由に、という感じで、いつもざわついていたのですが、ある日、人事提案のためにわたしがマイクを握ったとき、不意にしんと静まり返った。一瞬のことで、誰も気づきもしなかったかもしれないけれど、それなりに重要な案件について女性の声が何かを告げているという事態に、ひとつの組織がたじろいだ――そのように、わたしは理解し、記憶しております。
 ちなみにこれは「女たちの声」をめぐるわたしの考察の根源に潜む体験でもあるのです。フランス革命期からナポレオン帝政の成立にかけて、スタール夫人は政治化したサロンを舞台に「声」による参加をめざした。「語られる言葉」と「世論」によって女性も政治に参画できると信じて闘った。現代日本の企業や大学の組織と比べてみると、2世紀以上も昔にサロンを主宰した女性たちが主体的に行使していた自由、その「声」の存在感は、途方もなく大きなものに思われてしまうのです。具体的な風景を描出してみたいとわたしが考えるのは当然ではありませんか。
 さて「リレー講義」のように盛りだくさんになりましたが、しめくくりに弁護士と裁判官の話題に戻ります。ここは譲れぬという一線を固定して、例外を認めぬかたちで権利を保障するのが「法」の仕事であるとするなら、これに対する変革の機運は「政治」が担うべきものといえるでしょう。それゆえ法曹界の女性と若き男女には、これからも地道な努力をつづけていただくとして、一方で「変化」をもたらすべき肝心の政治がねぇ、日本ではなんとも…(絶句)。そこでまたもや話は変わりますが、アメリカ大統領の妄動で勢いづいたイスラエルの首相がEUを訪れて、エルサレムに大使館を移すよう働きかけたとき、これを迎えて「要求を一蹴した」のはフェデリカ・モゲリーニ(スペインTVE 12月12日)。その日のどの国のBSニュースだったか、一つの場面にわたしは強く惹きつけられました。イスラエル側の席は黒ずくめ、EU側では複数の女性が中央に陣取って、交渉の机を挟んで対峙した。それだけの、一瞬の映像です。イラン核合意をはじめ、世界戦争の危機にかかわる重大な「交渉事」(声と身体のプレゼンスが問われる場)でモゲリーニがEU外相として実績を積んできたことは、自信にみちたふるまいと明晰な言語とたまにしか見せぬチャーミングな微笑にもあらわれている。洗練された44歳の「政治家」は、わたしのミーハー的チェックによれば「旧姓使用」、父親は映画監督で、軍人の子息と結婚し、二児の母であるとのこと。はるかなるヨーロッパでは「女たちの声」などという問題提起は昔話ということか、とわたしは羨ましそうに溜息をつき、「当然のことだと思っています!」という架空の励ましを耳にします。

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    Author

    工藤庸子
    ​(くどうようこ)
    ​フランス文学、ヨーロッパ地域文化研究。東京大学名誉教授。1944年生まれ。

    *主要著書・訳書
    『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』(1998年)
    『ヨーロッパ文明批判序説――植民地・共和国・オリエンタリズム』(2003年)
    『近代ヨーロッパ宗教文化論――姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』(2013年)
    『評伝 スタール夫人と近代ヨーロッパ――フランス革命とナポレオン独裁を生きぬいた自由主義の母』(いずれも東京大学出版会、2016年)
    マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』(河出書房新社、2014年)

    羽鳥書店
    『いま読むペロー「昔話」』訳・解説(2013年)
    『論集 蓮實重彦』編著(2016年)
    『〈淫靡さ〉について』蓮實重彦との共著(2017年)

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