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12  大江健三郎と女性(2)── 政治少年のéjaculation

9/7/2018

 
 『大江健三郎全小説』(講談社)の記念すべき第一回配本の一冊である第3巻は、その巻頭に、二部構成の「セヴンティーン」と「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を収めています。後者は1961年『文學界』に発表されてから再録されることはなく、今ようやく「封印を解かれ」たものという。「モデル」とされる右翼の少年は、わたしより一歳年上、同じ都会の風景を眺め、同じ時代の空気を吸っていたことになりますが、なにゆえ作品は半世紀以上にわたる禁忌と抑圧の対象となったのか?
 巻末の周到な「解説」で尾崎真理子さん(面識はないけれど、やはり「さん」付けで)が語っておられることを参照し、メモ風に時代背景を復習するならば――60年安保闘争が首都を席捲し、市民や労働者や学生を動員した時代。街頭では赤尾敏率いる大日本愛国党が大音響の宣伝カーを走らせ、戦後知識人たちの支持を得た日本社会党や日本共産党が大規模集会を開いていた。存在感を誇示する左翼と右翼の正面衝突で、「天皇」は政治的であると同時に象徴的な争点ともみなされた。そもそも敗戦後の日本には「天皇」をめぐる思想書からフィクションまで多くの刊行物あり、とりわけこの時期、現実の殺傷事件と文学作品が奇怪な様相を呈して交錯した。1960年10月12日、日本愛国党の元党員である17歳の少年が、社会党の浅沼稲次郎委員長を立会演説会の壇上で殺害し、逮捕後、独房で首吊り自殺を遂げた。一方11月に『中央公論』に発表された深沢七郎の「風流夢譚」は夢の話という設定で、「左翼」ならぬ「左慾」が皇居に乱入して天皇一家を惨殺するという、過激きわまる滑稽小説だった。年が明けた1961年2月1日、中央公論社の嶋中社長宅に、同じ日本愛国党の元党員である17歳の少年が押し入り、家政婦を刺殺、社長夫人は重傷を負った。一連の事件の合間をぬうようにして、大江の「セヴンティーン」は1960年12月発行の『文學界』に、そして「政治少年死す」は翌年1月の同誌に掲載される。出版社が報復を恐れて単行本化を自粛したのは、嶋中事件の余波とみなされている。
 さて「セヴンティーン」は、ひ弱で鬱屈した高校生である「おれ」が、小遣い稼ぎにサクラで参加した極右組織の集会で「皇道派」の大物に魅せられ、凶暴な「右翼少年」に変貌するまでを語る。後半の「政治少年死す」では、右翼団体の活動メンバーとなった「おれ」が広島の平和大会になぐりこみをかけ、帰途の車中で「天皇の精髄」をめぐる「啓示」を受ける。そして党を離れて農場で修練の日々を送ったのち、暗殺を決行して自殺。テクスト上にゴシックの太文字で記された「確信・行動・自刃」という信条に、政治少年は殉じたのである。独房で首を吊った少年の「死亡広告」と題された8行ほどの断章で幕。
 全体として浅沼委員長を暗殺した山口二矢(おとや)を生々しく想起させる作品であることは事実だけれど、『全小説』の「解説」には貴重な証言が記されている(尾崎さんは、長年にわたりインタビュアとして大江文学の生成に寄り添ってきた)。右翼少年の誕生を語る「セヴンティーン」の場合、原稿(110枚超)の締切りは11月後半だったはず、10月半ばの暗殺事件に触発されて、その後に物語が構想されたとは考えにくい、という指摘を受けて、作者自身が「経過だけ読むとモデル小説」のように見えるかもしれないが、じつは「右翼的な宣伝、テロみたいなことを考えたり、書いたりしていた時に、そういう事件が起こってしまった」と答えを返している。文学は現実の出来事の反映・反芻なのか? そうでないとしたら? という問いにかかわる重要なポイントです。
 「セヴンティーン」二部作は、過激に「政治的」であると同時に過剰に「性的」な作品です。なにしろ「おれ」が17歳の誕生日に風呂場で自瀆に耽る長い記述に始まって、「絞死体をひきずりおろした中年の警官は精液の匂いをかいだという……」で終わるのだから。そこでナイーヴな疑問を呈してみたい。あられもなく露出した「性」を、そして「性」と「政治」との不可分であるらしい関係を、男女の読者、とりわけ女性読者は、どう読むか? 
 それというのも「解説」担当は女性、これにつづく論考は日本文学を専攻するドイツ人女性研究者によるものであり、初回配本における女性のプレゼンスは、たまたま、ということのようには思われない。前回のエッセイで示したように「三人の女たち」の言語的反乱という趣もある『晩年様式集』を書き終えた作家による全集編纂の、いわば作為的配慮でもあろうかと推測するからです(全集の『全小説』という枠組みについては、次回に)。正直なところ、解説や評論や参考文献や雑誌などの関連企画をふくめ、大江文学の周辺が男性の言説で埋め尽くされていたならば――相変わらずホモソーシャルな言語環境に恐れをなして――わたしは日本への回帰など考えてもみなかったはず。
 ​そうしたわけで、わたし流の文学的妄想によれば、半世紀昔の剣呑な右翼少年が、二人の知的な女性にエスコートされて甦ったようでもあり……、それはともかく、お二人の「セヴンティーン」論への応答として、本論を書き始めたいと思います。
 ​「封印は解かれ、ここから新たに始まる」と題された「解説」は、冒頭の段落でまず、男性読者の世代を超える大江文学への「思い入れ」にふれる。そして「年配の女性の多くはこの作家を危険人物として避けてきた気配がある」と述べ、さらに「後期大江作品のコアな読者は、この作家に現代の良識を見出そうとする、比較的若い女性たちではないか」と指摘します。現代社会で発言を求められている「比較的若い女性たち」の視点を解説者が代行し、そのことにより――大江文学を本格的に論じた女性は、これまで日本にはいないと思うので――「新たに始まる」はずの豊かな読解が期待されましょう。
 ​「解説」の中心を占める「セヴンティーン」論は、すでに参照した時代状況の記述に始まり、江藤淳や三島由紀夫などと関連づけて発表当時の文壇風景を一瞥し、大江の初期作品のなかでは1959年に発表された『われらの時代』を参照しつつ、若者の鬱屈した精神を「政治的理想と個人的な性向の落差、ずれ‥‥‥」という観点から読み解いてゆく。そして「アメリカの9・11同時多発テロから幕を開けた二十一世紀。神に命を捧げるイスラムの若者らに、大江はもう一度、自分の描いた十七歳の少年の姿を見続けていただろう」と指摘して、「政治少年死す」は「政治少年」の「正体を描き切った」ことにより、今こそ「世界中で有効」であろうという結論に至る。
 ​わたしは若い頃に大江健三郎という「危険人物」に出遭い、じつは永遠に「危険人物」の「小説家」であっていただきたいと願っている者です。当然、異なる視点に立つことになる。真の文学作品は、複数の読解を許容する、むしろ世代を超えて誘発しつづけるものであるはずです。そこでISのテロとの関連は脇に措き、半世紀昔に「右翼的な宣伝、テロみたいなことを考えたり、書いたりしていた」という小説家の言語的体験とはいかなるものか、想像してみたい。本格的に論じる用意はありませんが、「ホモソーシャル」な政治集団に固有の言語には「時代性」の結晶のようなものが詰まっている。この半世紀、大江の小説言語が着々と変化して、大筋としては文語的なもの(男性的なもの)から口語的なもの(女性的でもありうるもの)に開かれてきたのは、たんに技法上の単調さを避けるためではない。言語のなかに凝縮された「時代性」に敏感に反応して書き始める「小説家」なのだろうと推察しています。
 ​ところでドイツとフランスでは、すでに2015年から「セヴンティーン」全編が翻訳公開されているのだそうですね。『全小説 第3巻』の掉尾を飾る日地谷=キルシュネライト・イルメラの論考は、「世界文学」としての大江文学の、海外における読解の水準を強く印象づけるもの。大学での講義と詳細なテクスト分析を土台にした「「政治少年死す」若き大江健三郎の「厳粛な綱渡り」ある文学的時代精神の “考古学”」は、アカデミズムと一般読者の両方に向けられた、堂々たる論文です。読了して、著者が女性であることを強調する必要はもはやない、と感じました。欧米の大学では、女性比率が半分に近づいているところもあり、フローベール研究など、わたしが大学院にいた頃から10歳ぐらい年上の女性たちが最前線で活躍していましたもの。上記論考の「性的なもの、政治的なもの」という短い項目に目を通しただけで、自由で豊かな議論が交わされる教室風景が目に浮かびます。
 
 ​大江文学にかぎらず、「性的なもの、政治的なもの」は文学研究が避けてとおれぬ問題であり、ほとんどオーソドックスな論述の課題だとも思うのですが、フランス語に親しむことで解放された者としては、一つのフローベール的単語を手がかかりに、2018年における「セヴンティーン」との遭遇という体験を、やや異なる角度から文章化しておくことに致します(第9回のブログでも触れたように「性愛」という言葉を本の帯で使えない時代に学び始めたのだから、論文にわたしが「シャセイ」という言葉を漢字で書くことは、ありえなかった)。
 ​例文はフローベールの書簡集より。じつはéjaculationという名詞よりéjaculerという動詞のほうが気に入っています。なにしろ50代の大作家になっても「恨みを発散させ、憎悪を吐き出し、悪意を唾みたい吐き散らし、憤怒をシャセイする」(exhaler mon ressentiment, vomir ma haine, expectorer mon fiel, éjaculer ma colère)なんて手紙に書く人ですから。『ボヴァリー夫人』を書いていた若い頃に愛人に宛てた手紙には――「こんなふうに、文章をシャセイするために、ひっきりなしに(頭を)自瀆するのは止めにして、貴女の胸で頭を休めたい」(reposer ma tête entre tes seins au lieu de me la masturber sans cesse, pour en faire éjaculer des phrases)。奇蹟的に訪れる陶酔の瞬間を、直截に「魂のシャセイ」(éjaculation de l’âme)と呼んだりもする。
 ​何を言いたいかというと、書く営みにおいて「性的なもの」は原初的かつ根源的な体験として、つねに参照されるというだけのこと。江藤淳が文芸時評で「セヴンティーン」を論じ、「大義名分に殉ずることがそのままエロスの頂点をきわめることになり、逆にエロスの頂点に至福をあたえるという行為が「大義」への献身に通じるというような、人間の根源にひそむ二つの衝動の相互交渉の秘儀」として「エロティシズムと政治の関係」を定義したのは正当であり、ここに古典的な定式化を認めることができそうです(引用は尾崎さんの「解説」より)。
 ​ただし、「小説家」は「政治少年」その人ではなく「政治少年」を書く人です。わたしにとって大切なのは、山口二矢の「行動」をいかに解釈するかではなく、テクストをいかに読むか、それはいかに書かれているか、という話。視点をずらし、むしろ「エロスと言葉」「エロスとエクリチュール」との「相互交渉の秘儀」に目を向けたい。じっさい、この作品で「政治」のプレゼンスは控えめであり、天皇制や右翼の政治理念が整然と語られることはない。「行動」としての暗殺は、ページの空白に隠されており、前後の日常の出来事しか書かれない。それでいて少年は、格調高い右翼的文語体の精髄を、またたくまに習得し、その語彙と文体によって思考し始める。まるで自分は作家並みに「言葉の人」だといわんばかりに‥‥‥。
 ​「セヴンティーン」にかぎらず、とりわけ初期の大江文学は、フローベールに負けぬほど「性的」ではないか、そう考えたとき、一つの単語が浮上したというわけです。かりにフローベールが大江を読んだとしたら、これらの言葉は「よい感じでボッキしている」と評したと思う(たしか先輩格のゴーティエについて「感じの悪いボッキ」érection de mauvaise natureと酷評している)。張りつめたテクストを平然と読み、主題論的に鑑賞するとしたら‥‥‥、たとえば物置で、少年が猫に唾液を舐めさせて嗜虐的に戯れるでしょ、同じことを17歳の誕生日と「行動」の直前にやる、しかも、唾液を吐き飛ばすのが、この少年の特徴的な仕草、ダエキとセイエキのアナロジー?――断言しておきますが、かりにフランス語の論文としてこれが書かれれば、まったく挑発的ではありません。
「 ​エロスとエクリチュール」の議論は、フランス文学を専攻し、サドやフローベールやバルトやバタイユを丁寧に読めば、自然に理解されるもの。じっさい並みのフランス人より精緻なフランス語を身につけた日本の若手研究者をわたしは何人も知っており、あの人たちが日仏の狭いアカデミズムの外に船出して、鋭利な批評的意識をもって「世界文学」としての大江文学を論じるようになれば‥‥‥、と夢想せずにはいられません。
 ​ところで批評言語に男女が平等に参画しているか、という点に関して、日本は絶望的に後進国。最大の要因は、大学のポストとか、文壇やメディアでの発言権や既得権とか、つまり制度的なものであると思います。話題を性的な主題に絞るなら、漢字をつかった日本語は、アルファベットの言語より、イメージの喚起力が強いから、たとえば「男根的」よりも「ファリック」と片仮名で書いたほうが、大人しくて、エレガントかな、というぐらいのことはあるかもしれない(そう思いません?)。言語そのものの内包する性差の力学が、弱者にさらなる抵抗感を植えつけているという説明は出来ますが、その反証といえそうな逞しい例に、たまたま出遭ったところです。ソルボンヌ大学に提出したフランス語の博士論文を全面的に――「あとがき」によれば「詩的に」――日本語で書き直し、日本語の性的語彙をめぐる禁忌や抑圧などどこ吹く風と、サド侯爵の暴力的エクリチュールを涼しい顔で論じきった書物(*1)。外国語を徹底的に学び、その内部に身を置いてみることで、貴女はこのように解放されたのですね、と著者に語りかけたくなりました。
 ​最後にひと言。世界的に認知された「エロスとエクリチュール」のメタファーが、一方的に男性の性にもとづくという、やや押しつけがましくも感じられる批評言語の特性について、違和感を表明することもできましょう。それはそれとして、ヴァージニア・ウルフならきっと、「そんなイヤらしいこと考えなくても、面白い小説は書けますよ」と言ってのけるにちがいない。ウルフさまのおっしゃることは、いつも正しい、とわたしは考えます。
 
*1 鈴木球子『サドのエクリチュールと哲学、そして身体』水声社、2016年

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    Author

    工藤庸子
    ​(くどうようこ)
    ​フランス文学、ヨーロッパ地域文化研究。東京大学名誉教授。1944年生まれ。

    *主要著書・訳書
    『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』(1998年)
    『ヨーロッパ文明批判序説――植民地・共和国・オリエンタリズム』(2003年)
    『近代ヨーロッパ宗教文化論――姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』(2013年)
    『評伝 スタール夫人と近代ヨーロッパ――フランス革命とナポレオン独裁を生きぬいた自由主義の母』(いずれも東京大学出版会、2016年)
    マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』(河出書房新社、2014年)

    羽鳥書店
    『いま読むペロー「昔話」』訳・解説(2013年)
    『論集 蓮實重彦』編著(2016年)
    『〈淫靡さ〉について』蓮實重彦との共著(2017年)

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