スタール夫人のテクストで巧みに使われる雷と電位差のメタファーがきっかけで「パリのアメリカ人」のことを考えはじめたのだった。革命前のフランスのサロンには、フランクリン・ブームと呼べるものがあったにちがいない。
1776年7月4日、アメリカ13州の独立宣言が採択された。一方的に「国家」を名乗った若々しい政治勢力を代表し、ベンジャミン・フランクリンがフランスに向けて発ったのは、その年の暮れ。イギリス軍と植民地軍との武力衝突は容易に決着が着きそうにない情勢下、3名の使節団に託された喫緊の課題は、独立軍に対する物資や資金の援助をとりつけ、旗幟を鮮明にした軍人や義勇兵の個人的な参戦を促すことだった。フランスにしてみれば、7年戦争に敗退して植民地を奪われたばかりの英国に荷担するのは非現実的な選択だったけれど、ただでさえ逼迫した国庫に負担をかけてまで他国の争いに介入する必要はないし、そもそも君主制の国家が共和制をめざす反乱軍の味方になれば自国の不安定化を招く、という主張は正論だった。ただし、かりに英国が勝利して北アメリカを傘下に収めれば、目前に世界帝国という脅威が出現することになる。 正攻法で国家間の交渉を提案する正統性をもたぬフランクリンは、アメリカの「革命」に共鳴する「世論」を形成し、搦め手からも外交に働きかけようと考える。手品のような早業でサロンの寵児になることは、短期決戦の戦略的要請でもあった。赫々たる成果は年譜で確認できる。1778年、米仏同盟条約に調印。1779年、駐仏全権公使となり、1781年、対英講和会議代表、1783年、米英の戦争終結にかかわるパリ講和条約締結。宗主国イギリスをはじめ、ヨーロッパ諸国との折衝においても、フランクリンの外交的手腕と人格的な信望は圧倒的なものだった。アメリカに帰国して5年後の1790年、訃報が伝わるとフランスの国民議会は3日間の喪に服した。 それにしたってサロンの寵児などというものは、なろうと思ってなれるものではない。ここで参照するのは、マルク・フュマロリの『ヨーロッパがフランス語を話していたころ(*1)』という著作。タイトルを見ただけで、所詮はグローバル言語幻想だろうと敬遠したくなるけれど、やはり碩学は信頼できる。フランクリンは到着後ただちにルイ16世の外務大臣ヴェルジェンヌ、マルゼルブなどの開明的な貴族、その他、要所要所の重鎮に面会を求め、気むずかしいデファン夫人のサロンを表敬訪問し、フリーメイソンの人脈をつてにパリの郊外だったパシーに居を構え、科学アカデミーを定期的に訪れては議論や実験に参加して、わかりやすいフランクリン・ブームの熱気をかき立てた。 アメリカが国家として承認される以前に「アメリカ人」なるものは存在しないはずなのだが、フランクリンはいわば先取りの「国民性」を造形してみせた。明朗、誠実、謙遜、勤勉、知的好奇心・・・・・・、旧大陸の疲弊した国民が、若き新大陸の国民に期待する美徳やイメージを、さりげなく、完璧に演じてスタール夫人のいう「ソシエテ」を魅了したのだとわたしは思う。服装などもアメリカ式を押しとおした。国交樹立と同盟条約調印を機に、ルイ16世から謁見を賜るという一生の晴れ舞台にも、あの禿頭のまま、鬘なしでヴェルサイユ宮殿にあらわれた。「フランクリンさまは、おつむが大きすぎてフランス製の鬘に入らない」という噂は、いかにもサロン向き、恰好の話題になった。そして、女心をくすぐるエピソードの極めつきは、エルヴェシウス未亡人へのプロポーズ。 啓蒙思想家エルヴェシウスは冨と名声、美しい妻、世紀最高の知的人脈にめぐまれながら1771年に他界した。しかしサロンを主宰する女性にとって夫は必需品とはかぎらない。機転が利いて財力があれば威光は陰らないのである。フランクリンは目ざとく状況を見てとって、文明の都パリで進歩思想の温床とみなされる一流サロンの常連となり、その女主人に恋を仕掛けたのだった。問題の恋文、というより正確にはプロポーズを断られた直後の手紙だが、さすがに全文を律儀に翻訳するいとまはない。おおよそのところは、こんな感じである。 |
Author工藤庸子 Archives
12月 2018
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