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​​東日本大震災(2011年3月11日)の震源地に最も近かった宮城県の牡鹿(おしか)半島。その付け根に位置する女川町を中心に、半島一帯を取材してまわる記者の出会いの日々を綴ります。老親の帰りを待つ人がいます。幼子の帰りを待つ人がいます。ここに暮らす人々の思いに少しでも近づけますように。──小野智美

第43便 祐子さんの家族<7> 親類以上

3/10/2016

 

​ 季節がめぐり、5年を迎えます。
 今朝の東京は曇天。明日の天気が、気がかりです。あの時も灰色の雲が空を覆いました。
 明日は晴れてほしい。あの時とは似つかぬ、雲ひとつない青空であれば、と願います。
 
 でも、明日がどんな空模様であれ、ご主人は大丈夫。そんな予感もあります。
 
 2015年度は皆様にはどのような年でしたでしょう。私は仕事に追われました。一度、午前3時までの残業を嘆きましたら、ご主人からこんなメールが届きました。
 
 3時と言うと、俺が起きる1時間前まで仕事中ですね!(°_°)
 
 愉快な絵文字に仕事の疲れがすべて吹き飛びます。
 ご主人は航空自衛隊を定年退職し、女川町でバス運転手として再就職しました。今は女川原子力発電所で働く人たちの通勤バスを担当し、毎朝4時すぎに起床します。
 
 ご主人からのメールに初めて絵文字が加わったのは、12年夏のこの時です。
 
 やっとスタートラインに着いた感じです。今、一人で一杯やっているところです。いつか皆で一杯と思っています。
 
 「一杯」それぞれにビールジョッキの絵文字がついています。

 ご主人が「皆」と呼ぶのは、第1便からご紹介してきた健太さんの家族と、第9便からご紹介してきた美智子さんの家族のことです。
 
 健太さんも美智子さんも七十七銀行女川支店の行員でした。
 あの日、祐子さんと一緒に支店屋上で流されました。
 
 のこされた3家族。
 「私たちは親類以上です」と健太さんのお父さんは言います。
 一緒に食卓を囲みます。
 ある時は美智子さんの家で。
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 ある時は銀行の支店跡地で。
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 12年夏の「スタートライン」についてお話しする前に、あの時のことを記します。
 
 支店は、女川港の岸壁から直線距離にして約100メートルの所にありました。
 午後2時46分に地震発生。
 午後2時49分、気象庁は宮城県に大津波警報を発表します。
 午後2時50分、つづいて気象庁は津波の到達予想時刻と予想される高さを発表。
 宮城県への到達予想時刻は「午後3時」。
 予想される高さは「6メートル」でした。
 
 午後3時すぎ、職場の指示の下、祐子さんたち13人は支店屋上に集まりました。
 地上から屋上までの高さは約10メートルありました。
 午後3時21分すぎ、岸壁に津波が到達しました。
 10分ほど後に、それは屋上を越え、標高約20メートルまで達しました。
 
 支店から徒歩約3分先に町の指定避難場所の山がありました。
 山の中腹には4階建ての町立病院が立ち、その2階以上は浸水を免れました。
 
 当時。祐子さんのお父さんが家で留守番をしていました。
 家は支店から約2・5キロ先、山際の高台にあります。
 激震はおさまるかに思えた後、また激しく揺れ出します。
 長い揺れだった記憶があります。
 居間のスピーカーから大音量で放送が始まりました。
 防災行政無線の放送です。スピーカーは町内すべての住宅や事業所に置かれていました。女川原子力発電所の万一の事故に備えたものです。
 お父さんは「火の始末を」と聞いた覚えがあります。
 大病の直後でまっすぐに歩けなかったのですが、無我夢中で台所へ行きます。
 そこへ、祐子さんのお母さんとご主人が戻り、ほっとしました。
 
 家族は皆、祐子さんは、病院がある山へ逃げたとばかり思っていました。
 夕方。ご主人は病院へ向かいました。
 中心街はがれきに埋もれています。
 夕闇の中、遠くに明かりがぽつんと見えました。
 自家発電で灯った病院内の明かりです。
 あす迎えに行こうと、ご主人は引き返しました。
 
 翌朝、ご主人はふたたび病院へ向かいます。
 特段、急ぎませんでした。
 街の被災状況を知るため、あちこち立ち寄ってから、病院に着きました。
 そこで初めて事態を知らされます。
 
 一瞬、目の前が真っ暗になり、崩れるように座り込みました。
 
 紙コップの水が差し出されました。
 気持ちを立て直し、避難所を見て歩きましたが、祐子さんはいません。
 ご両親にどう話したものか。ご主人は切り出せませんでした。
 
 祐子さんのお父さんが、帰宅後のご主人の様子を私に語ってくれました。
 「涙こぼしてたから。ああ、だめだったのかなあと思っていたの。俺、外さもあんまり出られねえしさ。だから、娘のことを思うと、まず……」
 お父さんもこみあげます。声を発することができず、10秒間、虚空をにらみます。
 「俺が病院さ入った時も、一生懸命、看病してもらったしさ。帰ってくる時だって、満足に歩かれねえから、手ひかれて……。あとから思うんだな。『俺、具合悪いから、午後から休んでけろや』って言えばよかったって。俺が代わってやりたかったなあって……」
 途切れ途切れに言葉を継ぎます。
 「信じられねえの。あそこは海を埋め立てた所だからね。なして、あのくれえの揺れで、そこにとどまっていたかなって。そいつが悔やむのさ」
 
 ご主人が言い出せずにいる間に、ご両親は親類から知らされたのでした。
 
 銀行側は、屋上を越す津波は予見できなかったと説明します。
 あの日、屋上を選んだ判断も問題なかった、と説きます。
 
 当初、銀行で事前に決めていた避難場所は、1カ所でした。
 徒歩約3分先の、4階建ての病院が中腹に立つ山でした。その山の頂上付近、標高約50メートルの所には神社があり、尾根伝いには長さ2キロほどの遊歩道もありました。
 
 宮城県では今後30年以内に99%の確率で「宮城県沖地震」が発生すると言われ、「宮城県防災会議地震対策等専門部会」は2004年3月、「宮城県地震被害想定調査に関する報告書」をまとめました。
 その報告書によると、女川町の「津波の最高水位」は「5・9メートル」でした。
 鉄筋コンクリート建ての支店の屋上は、地上からの高さが「約10メートル」です。
 両者を比べても十分な高さがあるとして、09年、銀行はマニュアルの避難場所に屋上を追加しました。山か、屋上か、災害時にどちらを選ぶかは、現場の判断に委ねました。
 
 あの日の後、ご主人は、当日の判断の根拠を銀行側に尋ねたことがあります。
 「予想される津波の高さ『6メートル』と聞いて、地形によって3倍くらいになるという知識はなかったんですかね。女川は湾の奥だし、両側が谷なんですよ」
 当日の気象庁の発表文も「なお、場所によっては津波の高さが『予想される津波の高さ』より高くなる可能性があります」と記してありました。
 
 津波の知識をどれだけ備えていたのか――。
 ご主人は、航空自衛隊勤務の経験も踏まえ、航空機事故同様に詳細な検証を望みました。健太さんと美智子さんの家族も同じ思いでした。が、その望みはかないませんでした。
 
 12年春、3家族は解体直前の支店に集まりました。
 病院のある山まで往復し、所要時間を確認します。
 写真左奥、擁壁の上に立つのが病院です。
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 支店解体の日。ご主人は、口を真一文字に結んでカメラを向けていました。
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 その2日後。
 祐子さんのお誕生日です。
 きょうこそ、町役場へ届け出よう。
 ご主人は決心しました。
 でも、行けませんでした。
 帰ってくるかもしれない。
 今もそんな気がするのに。
 いつものようにケーキを買って帰りました。
 1週間後。
 昼休みに意を決し、役場へ向かいました。
 仮庁舎の前に立ちました。
 玄関の自動ドアへ踏み出せません。
 前をしばらく行き来しました。
 ようやくドアを通り抜けます。
 1階のカウンターに向かいました。
 祐子さんの最後の届け出です。
 こらえきれず、涙が落ちました。
 
 12年夏。3家族は仙台市の弁護士を訪ねました。
 ひとまわり年下の弁護士は、話を聞き終えると、一言、こう返したそうです。
 「本当によく頑張ってこられましたね」
 その弁護士の力を借りることを決めました。
 これがご主人たちの「スタートライン」です。
 あの日から550日後の12年9月11日、3家族は、徒歩約3分先の山への避難を指示するべきだったとして、銀行に対して損害賠償を求める訴えを提起しました。
 検証を法廷に託しました。
 
 祐子さんのご両親は、新聞報道で提訴を知りました。
 驚きました。
 裁判なんて難しいことを。
 事前に相談があれば、反対したでしょう。
 
 ご主人は、子どもたちには事前に、原告に名を連ねてほしいと頼みました。
 それ以上のことは求めませんでした。
 裁判資料も見せていません。
 子どもたちも読みたいとは言いません。
 読むことは、祐子さんの帰らぬ現実を突き詰めることです。
 ご主人は言います。
 「この思いは俺だけで十分」
 
 ただ、一度だけ、子どもたちに負担をかけました。
 13年秋、原告として「意見陳述書」の執筆を頼みました。
 子どもたちの胸の内を思うと、切り出しにくいことでした。
 長女は「わかった、わかった」と短く応じました。
 内心は複雑でした。
 書くには、わざわざ思い出さなければならない。思い出すのはいやだけど。いやというか、ずっともやもやしちゃう。でも、裁判も進んでいて、いやと言っても始まらないだろう――。
 
 その時、一気に書き上げたのが、前回の第42便でご紹介した文章です。
 前回は「意見陳述書」の前半をご紹介しました。
 後半をここに記します。
 
■あれから2年半が経ちましたが、いまだに見つからないとは、どういうことだとつねづね思います。このまま見つからなかったらどうしよう。どこに行ってしまったんだろうか。
 私も周りのみんなと同じように女同士、一緒に出かけたり、話したりしたかった。家族みんなで普通にいる夢を見ることもよくあって、目がさめて、何が何だかわからなくなります。
 何を思って屋上なんかにいたのだろうか。波が来た時、どんなに怖かっただろうか。どんなに苦しかっただろうか。少し考えただけで本当につらいです。寂しい、悲しい、つらい、もうなんか通り越して腹立つ。今はどうにもならないことはわかってはいるが、腹立つ。あんなに大きな揺れだったのに、海のすぐそばなのに、なぜ逃げなかった? 町立病院があんなに近いのに、なぜ行かなかった? なぜ屋上に行くことにした?
 埋め立てだから、弱くても、すごく揺れると前から言っていました。そんな場所でのあの揺れは相当なものだったと思います。あのような判断をしたなんて理解に苦しみます。
 でも、やっぱり寂しい。いなくなってほしくなかった。代わりの人なんていない。会いたい。実際、見つかっても、ちゃんと対面できる自信はないけど、今は一刻も早く見つかってほしい。ただ、それだけです。
 
 ご主人は、長女の思いの限りを初めて目にしました。泣きました。
 長女自身も、今も涙なしにこの文章に目を通すことはできません。
 
 ご主人たちの訴えは、一審でも二審でも退けられました。
 3家族は最高裁に上告しました。
 最後の審理に託すその心模様は一人ひとり違いました。
 長女の心の内を占めたのは、ご主人への思いです。
 「最高裁でまた望まない結果だったら。またもやもやして……。そのあとはどうするんだろう……」
 涙をぬぐい、ぽつりぽつりと話してくれました。私はこう応えました。
 たぶんね、どんな結果でも大丈夫ですよ。親類以上の仲間がいるのですから。
 
 16年2月。結果が出ました。上告棄却の決定でした。
 もやもやしていますでしょうか。夜、ご主人へメールを送りますと、返信は――。
 
 ごめん今日は寝ます。m(_ _)m
 
 絵文字にほっとしました。あとで聞くと、ふだんは深夜に就寝するご主人が、この夜は9時にベッドへ。「ふて寝です」と笑って話してくれました。もっとも、早くに横にはなったものの、まんじりともできずに過ごしたそうです。
 
 翌朝。健太さんのお母さんは、祐子さんのご主人たちへメールを送りました。
 
 まだまだこれからだ~(^^)
 
 祐子さんのご主人は「女は強い」と返します。苦笑いの絵文字をつけて。
 
 その週末、ご主人たちは仙台市で記者会見を開きました。
 会見の直前、「めげてはいられませんよ」と気丈な笑顔を見せる健太さんのお母さんのかたわらで、祐子さんのご主人は「めげっぱなし」と苦笑します。
 カメラの放列の前へ。最高裁の決定について思いを語ります。
 
 健太さんのお母さんは、時折、声をふるわせながらも訴えました。
 「ここで終わりだとは思っていません。これからも、この震災の教訓を語り継ぐ活動はつづけていきたいと思います。このように悲しむ家族をもうつくってほしくありません」
 つづく祐子さんのご主人は「このままだと、また同じことが繰り返されるんじゃないかと、そっちのほうが心配になります」と吐露します。
 次に美智子さんの妹、礼子さんが、一語一語かみしめるように、言葉を足しました。
 「指示の中、行動し、尊い12名の命がなくなったことは、まぎれもない事実です。この事実を教訓とし、反省し、各自の意識を高め、職場の防災教育を徹底しなければ、悲劇が繰り返されてしまいます。それを広く知ってほしい。職場で見直してほしいという思いでやってきました。そうすることが、12名の命が無駄にならないことだと思っております」
 
 祐子さんのご両親は、新聞報道で最高裁の決定を知りました。
 ご両親は安堵なさったそうです。仕事と家事と裁判所の往復に追われていたご主人が、いつか体をこわすのではないかと心配していたので。
 
 5回目の3月を迎えました。
 3日、桃の節句。東京は晴天。やわらかな南風に包まれます。
 その晩、仕事を終えたご主人からメールが届きました。
 
 遅くなったけど雛人形出しました。いつものように防虫剤の入れ替えだったけど、おばあさんが、私が仕事に行ってる間にちゃんと並べ替えてちらし寿司とお菓子を供えてくれました。「もっと早ぐ出せばいがったのに」だとさ……来年は飾れるかも
 
 ご主人のユーモラスな文体に、私も心なごみます。
 「おばあさん」とは、祐子さんのお母さんのことです。
 お母さんは今も、帰らぬ娘を思い、悲しみを抱きしめています。
 その悲しみは、心の中でずっと吹き荒れていました。
 それが、今、ゆっくりと心の底へ降り始めたようです。

 メールには写真がついていました。
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    Author

    小野智美(おの さとみ)
    朝日新聞社員。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から2014年8月まで仙台総局。宮城県女川町などを担当。現在、東京本社世論調査室員。


    ​*著書

    小野智美『50とよばれたトキ──飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)
    小野智美編『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012年)
    『石巻だより』(合本)通巻1-12号(2016年)

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