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​​東日本大震災(2011年3月11日)の震源地に最も近かった宮城県の牡鹿(おしか)半島。その付け根に位置する女川町を中心に、半島一帯を取材してまわる記者の出会いの日々を綴ります。老親の帰りを待つ人がいます。幼子の帰りを待つ人がいます。ここに暮らす人々の思いに少しでも近づけますように。──小野智美

第44便 祐子さんの家族<8> バディ

4/11/2016

 

 めざめる前の私の夢に、祐子さんのご主人がよく登場します。
 2015年春はこんな活躍を見せてくれました。
 バルタン星人を抱きしめ、シュワッチと飛び立つ。
 地上で手をふる私は、ウルトラセブンを見送っているつもりです。
 この夢をお話ししましたら、ご主人いわく「58歳のウルトラセブンにバルタン星人はちょっと厳しいですね」。
 そのウルトラセブンはオレンジ色のキャップをかぶっていました。
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​ ご主人は13年秋からスキューバダイビングを習い始めたのです。
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 海へ潜る理由。
 それは、聞くまでもありませんでした。
 上の写真は、新調したてのドライスーツを着た日です。
 スーツを注文する時、胸元のロゴの色が選べました。
 迷わずピンクを頼みました。
 祐子さんの好きな色です。
 先に自分を見つけてね、と願いをこめて。
 写真奥に見えるのは土嚢です。震災で牡鹿半島一帯は1メートル前後地盤沈下し、岸壁も壊れました。ここは復旧の手がまだ及ばず、満潮時の海水を土嚢で防ぎます。
 この浜は女川湾北岸の東北部、竹浦です。あの日、祐子さんと最後まで職場で一緒だった健太さんは約半年後、この東北部の海で見つかりました。
 15キロのタンクを背負い、さらに6キロの重りをつけたご主人は「はあっ、へえっ、ふうっ」と荒く息を吐きながら浅瀬を歩いていきます。
 足にフィンをつけるのに、よろり。
 ご主人、大丈夫ですか……。
 入門先の先生からマンツーマンで指導を受けます。
 65歳の生徒を教えたこともある先生は、ご主人について「これから始めるのは年齢的に大変だなと思ったけど、気持ちで克服できますよ」と太鼓判を押してくれました。
 練習に水深5メートルの沖へ。私は岸辺で問題集をめくりながら待ちます。
 潜水士の資格試験の問題集です。ご主人の書き込みをご覧ください。
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 海中を捜索するには、潜水士の国家資格も必要です。
 約2週間後に試験がありました。
 受験の後、ご主人は「たぶん大丈夫」と手応えを語りますが、この試験に挑んだことのある先輩記者から「手も足も出なかったよ」と聞かされていた私は半信半疑です。
 結果は……。ありました、44番。
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 気持ちですね、ご主人。初挑戦で合格。さすがです。
 
 ただし、これは「ペーパードライバー」の状態。
 海中を自在に動くにはまだまだ練習が必要です。
 その間は、思いをくんだ先生が、仕事の合間に、ダイバー仲間と捜索に潜ります。
 ご主人はゴム手袋に長靴姿で岸壁から補佐します。
 写真は真冬の女川湾南東、塚浜です。あの日、祐子さんと最後まで一緒に職場にいた美智子さんが、約1カ月後にここで見つかりました。
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​ 気温3度の海上を風が駆け抜けます。
 私たちは岸壁で捜索隊を待ちました。
 波間に小さな鳥が1羽。ヒヨドリほどの小さな体がゆらゆらと波に乗るのをぼんやりと目に映していましたら、かたわらのご主人がぽつりと一言。
 「いやですね。思い出しますね」
 打ち寄せる波が、地盤沈下した岸壁に弧を描きます。
 重なるのです。あの日の光景に。
 大津波は地形によって姿を変えます。そそり立つ壁となって押し寄せることもあれば、まるで蛇口が全開になったかのようにどうどうと流れ込んでくることもあります。あの日、女川港では波紋を描きながら流れ込んできました。
 
 ご主人は、すぐにはダイビングに踏み切れませんでした。
 祐子さんが帰らない現実を受け入れなければなりません。
 5年経つ今も、ひょっこり帰ってくるような気がするのです。
 そのご主人の背中を押す2通のメールがあります。
 
 あの時。
 ご主人は祐子さんのお母さんの通院に付き添い、石巻市にいました。
 さあ、帰ろうと、お母さんを車に乗せて走り出した時の激震でした。
 「つかまって、ぎっちりつかまって」
 お母さんへ声をかけます。
 電線も大揺れし、電柱上の変圧器から火花が散っています。
 生きた心地がしません。
 おさまった時は思わず「あぁ、びっくりした。車、ひっくり返るかと思った」と声に出しました。
 それから家路を急ぎます。カーラジオが大津波警報を告げていました。
 午後3時10分すぎに帰り着きました。家は高台にあります。
 居間のスピーカーから流れる防災行政無線の放送も、警報を伝えています。
 そこへ祐子さんのメールが届きました。
 
 大丈夫?帰りたい。
 
 着信時刻は午後3時21分。
 勤務先の銀行支店は海岸のそば。徒歩約3分先に山があります。山の中腹にある病院へ避難したと思い込んでいましたから、そのメールを読み、避難者でごった返した院内をいやがっているなと解釈しました。
 警報発令中に海岸へ近づくのは危険だと思いました。あとで迎えに行こうと、家にとどまりました。
 支店は家から車で5分ほどでした。あれからずっと思っています。今も。家へ帰り着いた足でそのまま迎えに行っていたら――。自分も流されたかもしれないと思いながらも。
 
 祐子さんがメールを打った携帯電話は、後日、支店の駐車場で見つかりました。
 それを愛用の眼鏡と一緒にお墓へ納めました。
 2年後の13年春、お墓を修理する際、取り出しました。
 もしや、と思ったのです。
 携帯は防水機能つきでした。ちょうど1週間前に新しく購入したばかりでした。
 テレビニュースでも、津波で流された防水機能つきの携帯を、持ち主へ返すことができたと聞いていました。
 コードにつないだまま、電源を入れてみました。
 画面に光がともりました。
 真っ先に送信メールを開けました。
 自分あてのメールがありました。
 あの日、受け取れなかった最後のメールです。
 
 津波凄い
 
 句点のない4文字のメール。
 送信時刻は午後3時25分。
 
 ご主人はそれを私に示し、「どんな気持ちでこれを打ったのかと思うとね」。
 それきり言葉がつづきません。
 ピンク色の携帯を右手におさめ、左手の指で優しくさすっています。
 左手の甲にポタポタと大粒の涙が落ちました。
 
 祐子さんに代わって家事を担い、運転手の仕事をこなし、休日には海へ練習に。
 帰りたかった家へ連れて帰りたい。ベッドで寝かせてあげたい。その一念です。
 
 ほどなく、一緒に暮らす祐子さんのお母さんが、洗濯物にまじる練習着に気づきました。
 「ちょっと、おっ父」とご主人に問います。
 「これ何したんだべ」
 「実はさあ」
 ご主人は潜水士をめざしていることを話します。
 「あらあ……。本当にありがたくてや、何とも言えねえけっども」
 お母さんも、聞かずとも、潜る目的はわかります。
 「気持ちだけで十分だから、やめでえ。何かあったら、おら、お母さんさ申し訳ねえから」と、ご主人のお母さんのことも気遣います。「ありがたいけどさあ。若くねえっちゃあ。体さ心配だから言うんだよ。健康だって言ったって、年々、歳とっていくんだから」
 祐子さんのお父さんは、口をはさまずに聞いていましたが、心配する気持ちは同じです。
 ご主人は「大丈夫、大丈夫」と意に介しません。
 
 「潜水士の資格を取ろうとしているんだ」と2人の子にも打ち明けました。
 長男はびっくり仰天。その目的は、もちろん、すぐに理解しました。
 「おっかさん、捜してやっからな」と明るくつづけるご主人に合わせて、長男もおどけた口調で「よろしくお願いします」。
 長女も「えぇっ」と驚きながら、「そうなんだ……」。やはり、その目的を聞く必要はありませんでした。
 
 捜索する時は2人1組になります。
 組む相手を「バディ」と呼びます。
 こちらは、ご主人のバディです。
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 「おじいさんコンビです」とご主人は笑います。
 そんなぁ……。
 バディはご主人と同い年なのです。
 ご主人の後を追って入門し、潜水士の国家資格も得ました。
 バディの思いは、彼のドライスーツの腕にあります。
 3人の名前のイニシャルが並びます。
 左右は妻と自分、真ん中にはさむのは、ひとり娘のイニシャル「E」。
 第34便でご紹介した26歳の行員、絵美さんです。
 「絵美は私と女房の宝ですから。父と母が守らなければいけなかった。守れなかったおわびの気持ちをこめてプリントしました」とバディは語ります。
 
 祐子さんのご主人はダイビングを始めて間もなく、絵美さんのお父さんとお母さんに「絵美ちゃんも見つけるから」と告げました。それを聞き、お父さんの心は決まりました。
 仕事の合間を縫い、ご主人と一緒に練習を重ねます。
 練習に沖へ向かう船で、ダイビングを趣味にする人たちと乗り合わせることもあります。
 お父さんは言います。
 「同じ目的を持っている人がもう一人いるので、安心感がありますね」
 海の中では絵美さんのそばへ近づいている気持ちがわいてきます。
 
 4年後の15年春、ご主人は、絵美さんのご両親の家を訪ねました。
 ご両親が特注した絵美さんの肖像画が、居間に飾られています。
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 等身大で描かれた笑顔。
 
 新婚でした。
 新郎の姉が目を潤ませて、私にこう話してくれたことがあります。
 「絵美ちゃんは太陽のような子でした」
 
 肖像画の太陽のような笑顔を見つめるご主人の目から、涙があふれます。
 自分に言い聞かせるように繰り返しました。
 「見つけてあげたいな。見つけてあげたい」
 
 練習を重ね、光が届かない海底の暗さを目の当たりにしました。
 厚い砂地に埋もれた中から見つけ出す難しさも痛感しています。
 人任せにはしていられない。
 その思いがますます強まります。
 次の練習日を待ちわびます。
 海へ会いに行く。そんな気持ちもあります。
 「墓参りに行くような感じかな」とも言います。
 「お墓には眼鏡しか入っていないしね。むしろ、潜るほうが、少しは近づけるかな」
 その気持ちはバディと響き合います。
 この海のどこかにいる。早く見つけてやりたい。潜るたびにそう思います。
 
 5年後の16年春、バディとともに、水深25・8メートルまで潜りました。
 足元も見えないような暗がりの中を懐中電灯で照らします。
 泥におおわれた海の底で30分近く目を凝らしました。
 
 こちらは16年4月の女川港周囲です。
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 1年半前まで4階建てビルが残っていました。
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 緑の壁に見えるのは屋上です。押し波で倒れたのです。そのビルの前に祐子さんが勤めていた銀行の支店がありました。支店跡地にご主人たちは花壇を作りました。
 
 ビルの解体のため、一帯が立ち入り禁止になる日が近づきます。
 ご主人は、健太さんのご両親や美智子さんの妹たちと花壇の移転先を探し、町役場へ何度も足を運びました。
 跡地から徒歩約3分先、病院がある山の一角を無料で借りることができました。
 
 花壇の引っ越しを手伝いに、健太さんの同級生たちが軽トラックで来てくれました。
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 引っ越し作業には、絵美さんのお母さんも加わります。
 第25便でご覧いただいた健太さんのミットを彫り上げた彫刻家に、新しい石碑の制作を頼み、移転先に据えました。
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 男女の行員のレリーフです。
 
 男性像には、健太さんのご両親が青年像をリクエストしました。
 肩幅も、厚い胸板も、野球で鍛え上げた健太さんそのものです。
 ご両親は毎週末のように、この石碑に会いに来ます。
 「西日があたると、くちびるが光るのよ」
 健太さんのお母さんは嬉しそうに教えてくれました。
 
 女性像には特に注文をつけなかったのですが、面立ちは祐子さんにそっくり。
 くりっとした目も、頬の丸みも、端整な鼻筋も、口元も。
 ご主人も「似ていますねえ……」。
 
 長い髪は、美智子さんのようであり、絵美さんのようでもあります。
 美智子さんの妹たちは休日ごとに花壇の手入れに訪れます。
 手入れを終えると、女性像をなでてから、花壇を後にします。
 石碑は、青空の下であたたまり、手にぬくもりが伝わってきます。
 
 ご主人は毎夜、仕事帰りに、この石碑に手を合わせています。
 愛車にはつねにお線香の箱を積んでいます。
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 手向けるのはいつも12本。
 犠牲になった銀行員12人のために。
 ラベンダーの香りが立ちのぼります。
 祐子さんの好きな香りです。
 
 帰宅後は、ここ2年、毎晩、寝る前に聴く曲があります。
 フランスの若手作曲家・シルバンさんの『Yuko Takamatsu』です。
 
 シルバンさんは2年前、フランスのテレビニュースで、ご主人のことを知りました。
 ダイビングを始めたことは海外でも大きく報じられたのです。
 「耳を疑いました」
 シルバンさんは当時をふりかえります。
 ご主人の深い思いに胸を打たれました。
 「無関心ではいられなかった。私にも妻がいます。彼女のいない世界で生きていくことは私には考えられません。この勇敢な男性へ、ひとすじの小さな陽の光を届けたい。それが私の果たすべき務めだと思いました」
 シルバンさんは、日本の友人を通じて、ご主人へ作曲を申し出ました。
 
 シルバンさんは、中米のハイチの地震後も曲を作っています。東日本大震災の前年の大地震でした。22万人以上が犠牲になりました。悲しみにふるえる追悼の曲です。東日本大震災の直後は、東北の人々を力づけるための曲を作っています。
 
 ご主人は、それらの曲を聴き、申し出を受け入れました。
 シルバンさんへ祐子さんの写真を送り、書き添えました。
 「祐子は争い事が嫌いで温厚な性格です。また暖かい感じの、笑顔が素敵な女性でした」
 
 シルバンさんは丸1週間、ピアノにさわらず、音楽にも一切ふれず、曲想を練りました。
 それから2週間かけて書き上げました。
 4分半のピアノ独奏曲が完成しました。
 ニューエイジ風の曲です。喜びにあふれるものでもなく、悲しみにひたるものでもなく、祐子さんの穏やかで温かな人柄を表現しました。
 多くの人々に弾き継いでもらいたい。祐子さんの名前とともに。
 願いをこめて、楽譜はインターネット上で無料公開しています。
 
 この曲をパソコンで初めて聴いた時、ご主人は涙しました。
 祐子さんと過ごした22年間の思い出がよみがえります。
 あの日から、音楽も聴かずに過ごしてきました。
 ご主人はシルバンさんへメールを送りました。
 「この曲は私の宝です。これは毎日聴きます」
 ひとすじの光が、凍りついた心に届きました。
 
 今も季節がめぐるたび、シルバンさんからご主人にメールが届きます。
 シルバンさんには3人の子どもがいます。こう書き送ってきたこともあります。
 「僕らにとって、年をとる良さは、ただ一つ、子どもたちの成長が見られることだね」
 祐子さんがのこしてくれた楽しみを忘れないで。そんな思いがこもる温かなメールです。
 
 最近、ご主人は鼻歌をうたうことがあります。
 ♪ルルル、ル、ルルゥ
 『Yuko Takamatsu』のメロディーです。
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​ 今月10日朝、私は着信に気づきました。ご主人からメールが届いています。前日の女川町内の写真がついていました。仮設住宅団地の集会所前の桜です。休憩時間に撮ったそうです。あの日から花も見ることなく過ごしてきたご主人が……。やわらかな陽光の中、カメラを手に満開の樹を見上げている姿を思い浮かべ、私は花を一つひとつ数えるようにして写真に見入りました。

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    Author

    小野智美(おの さとみ)
    朝日新聞社員。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から2014年8月まで仙台総局。宮城県女川町などを担当。現在、東京本社世論調査室員。


    ​*著書

    小野智美『50とよばれたトキ──飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)
    小野智美編『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012年)
    『石巻だより』(合本)通巻1-12号(2016年)

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