季節がめぐり、5年を迎えます。 今朝の東京は曇天。明日の天気が、気がかりです。あの時も灰色の雲が空を覆いました。 明日は晴れてほしい。あの時とは似つかぬ、雲ひとつない青空であれば、と願います。 でも、明日がどんな空模様であれ、ご主人は大丈夫。そんな予感もあります。 2015年度は皆様にはどのような年でしたでしょう。私は仕事に追われました。一度、午前3時までの残業を嘆きましたら、ご主人からこんなメールが届きました。 3時と言うと、俺が起きる1時間前まで仕事中ですね!(°_°) 愉快な絵文字に仕事の疲れがすべて吹き飛びます。 ご主人は航空自衛隊を定年退職し、女川町でバス運転手として再就職しました。今は女川原子力発電所で働く人たちの通勤バスを担当し、毎朝4時すぎに起床します。 ご主人からのメールに初めて絵文字が加わったのは、12年夏のこの時です。 やっとスタートラインに着いた感じです。今、一人で一杯やっているところです。いつか皆で一杯と思っています。 「一杯」それぞれにビールジョッキの絵文字がついています。 2015年12月の夕方、仙台駅前を急ぎます。 白い息を吐く私の額からは玉のような汗。待ち合わせ場所に着くと、開口一番に「更年期でね、汗かいちゃうの」と説明します。待ち合わせた相手は「大変ですよねえ」とうなずいてくれました。ありがとう。同い年の友のようだわ。いえいえ、相手は28歳下の大学4年生。祐子さんの長女です。 あの日は、石巻高校の2年生。授業中でした。 長女が大学2年生の時に記した文章から当時をたどります。 小春日和の昼下がり。 訪ねてきた私を見るなり、祐子さんのお母さんは明るい声を上げました。 「あらぁ、裸みだいな格好して」 え、裸? この言葉を初めて耳にした時はあわてました。 女川や石巻でよく使われる、薄着をたしなめる表現です。 「私は、ほらぁ」 ご自分の首元に手をあてます。 重ね着した襟を一つずつ引き出しながら「さまざまなものを着ているのよ」。 語り口はユーモアたっぷり。 お母さんは難病を患うため伏せがちですが、小康を保つ日は笑顔で迎えてくださいます。 男兄弟の中で育ちました。 同じく女川町で生まれ育ったお父さんと1962年に結婚。 サケマス漁に携わるお父さんは、米国アラスカ沖まで出漁し、3カ月は留守にします。 お父さんの留守中も、お母さんは町内の水産加工場で働きます。 その間、おばあさんが孫娘の面倒を見ます。お母さんの母親です。一緒に暮らしていました。息子より娘が一番と、おばあさんはお母さんを手放しませんでした。 床屋さんが入居した公営住宅で、新しい行政区をつくることになりました。 2014年7月、行政区の初総会が開かれました。 約100人が公営住宅の敷地内にある集会所へ集まります。新築です。仮設の集会所ではありません。窓枠の厚みも床の木目も頼もしく、喜びをかみしめます。でも、それは住民ではない私の感慨。牡鹿半島に点在する浜辺の集落の人々が一堂に会するのです。初対面同士、緊張や不安もあったでしょう。 その空気を和ませたのが役員たちでした。一人ひとり、皆の前で自己紹介します。「私は8号棟の」と切り出すと、周囲から「4号、4号」と訂正が入ります。3年近く暮らした仮設住宅では8号棟だったため、言い間違えたのです。次の人も間違えて、なんと、おっ父までも。どっと沸きました。 おっ父も、役員に加わりました。 2015年3月最後の土曜日。待ち望んだ日が来ました。 始発列車で出かけます。車窓の外は日の出を迎え、空も、雲も、高層ビルも、桜色に染まっていきます。 東北新幹線「やまびこ」で東京駅を出発。古川駅で在来線に乗り換え、小牛田(こごた)駅で下車。降りたホームの反対側に待機していた列車は、一ノ関行きでした。駅員さんに尋ねました。「女川へ行きたいのですが」 「4番線です」 即答です。迷うことなく返ってくる答え。嬉しくなります。 4番線ホームで見上げた電光掲示板には『女川』の2文字。 「ブブブ……」。パソコンの傍らで携帯がふるえ、メール到着を告げます。 天気情報です。件名は「降りはじメール」。 本文は「石巻市 降水予測14:50頃から」。宮城県石巻市の天候が変わるたびに届くメールです。 窓へ目を向ければ、オフィスの外には雲ひとつない青空。眼下には日本最大の魚市場、築地市場を映しながら、まぶたの奥に浮かぶのは、雨に煙る浜、大きな黒い土嚢を積んだ岸壁、ひときわ濃くなる潮のにおい――。 私は2014年9月、牡鹿半島駐在に終止符を打ち、東京都中央区の築地市場前にある東京本社へ戻りました。 転勤を機に、このブログは第48便で結ぶことを考えながら、本社での新しい仕事と、仕事の合間に作る「石巻だより」で手一杯になり、今日に至りました。これから、時計の針を巻き戻しながら、お話ししたいと思います。 2013年10月15日の朝。女川湾の北、尾浦(おうら)の浜で、カキむきの作業が始まりました。被災した共同処理場を建て直し、震災後初めてのカキむきです。 水揚げ後、半日殺菌したカキを手に、「むき子」と呼ばれる人たちが小刀を使って次々に殻をむき、真っ白な身を取り出します。その手元へ処理場の窓から朝の光がふりそそぎます。むき子たちが交わす声。殻が重なる音。小さな浜が活気づきます。 水揚げされたカキを見に行きました。 牡鹿半島のあちこちの浜で同じ言葉を刻んだ古い石碑を見つけます。 女川町の離島、出島(いずしま)の港のそばにもあり、町中心部の鷲神浜(わしのかみはま)にもあります。写真は、町の南、野々浜(ののはま)で見つけた碑です。 2014年2月9日の朝7時。女川町へ行くため、東松島市の自宅を出ました。通常は1時間かからずに着きますが、大雪の翌朝でしたので、2時間を見込んだ出発です。 1時間後。マイカーは自宅からわずか300メートル前進したのみ。私は額の汗をぬぐいながら、前方のトラックのタイヤ下の雪かきに参加していました。 この日、隣接の石巻市では最大積雪量38センチを観測しました。1923年に43センチを観測して以来、91年ぶりの大雪でした。 |
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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