イギリスの首相ウィンストン・チャーチルの有名な警句として、「民主主義は最悪の政治体制だと言われてきた。今まで試されたことのある他の政治体制を除けばの話だが」というものがある。 チャーチルがそう語ったのは、1947年11月のことである。その時点で「今まで試されたことのある他の政治体制」として念頭に置かれていたのは、ファシズムか共産主義であった。共産主義と言ってもスターリン体制である。その二つに比べれば、たしかに民主主義はまだましであろう。早朝にドアをノックする者が秘密警察ではなく、牛乳配達夫にすぎない政治体制である。 それからほぼ半世紀を経過した今、今までに試されたことのある政治体制として、新たな種類のものが現れた。中国の現体制である。どう見ても共産主義体制ではない。中国の憲法第1条は、中国が「人民民主独裁の社会主義国家である」と宣言している。独裁国家であることは確かだが、果たして社会主義国家であろうか。 ケンブリッジ大学の政治学者、デイヴィッド・ランシマンの近著『民主主義はいかに終焉するか』(David Runciman, How Democracy Ends (Profile Books, 2018)) は、中国の政治体制を欧米の民主国家との対比で、次のように分析する。 民主主義体制の特徴は、第一にすべての国民を個人として尊重すること、第二に社会全体におよぶ長期的な便益を供与することである。個人としての尊重は、典型的には国政参加権の平等な付与としてあらわれる。社会全体におよぶ長期的な便益は、さまざまな公共財の提供──治安の維持、経済的繁栄、社会的基盤整備、対外的平和等──としてあらわれる。個人として尊重された国民は、こうした公共財を背景としてそれぞれ自由に活動し、その結果を個人として享受する。 民主主義体制、とくに欧米の古くからの民主主義体制は年老いた。若い、エネルギーにあふれた民主国家は、高い経済成長率を誇り、選挙権を拡大していくことで、個人としての尊重についても、社会全体におよぶ長期的な便益の供与についても、目覚ましい結果を誇ることができた。今は違う。選挙権拡大の余地はもはや乏しく、経済成長も大きく期待はできない。社会全体に広く薄く便益がおよぶ公共財は、それが公共財であるだけに、個々の国民にとっては便益を直ちには実感できない。 他方、現在の中国はすべての国民を個人として尊重しようとはしていない。形式的にはすべての国民に参政権はあるのであろう。しかし、それはほとんど意味のない参政権である。モンテスキューが喝破したように、共和政国家でも専制国家でも、国民はみな平等である。前者では国民がすべてであり、後者では国民が無である点で(『法の精神』第6篇第2章)。しかも、チベットやウイグルの人たちの地位は、無以下のマイナスである。それでも、社会全体としては尊重と尊厳が付与されている。ナショナリズムを通じて、国威発揚を通じて、中国人民の威厳は回復されている(と中国政府は主張する)。 しかも、個々の国民は経済発展の便益を感じることができる。民主主義的な現在のインドと権威主義的な現在の中国との違いである。中国政府の方がはるかに効率的である。党組織が腐敗や汚職にまみれているとしても。つまり、中国の現体制は、民主主義体制を逆立ちさせている。民主主義の提供する個人の尊重と社会全体への長期的便益供与の代わりに、社会全体の尊厳と個人への短期的便益供与の組み合わせで、現在の中国の政治体制は成り立っている。 この組み合わせは巧妙である。人は社会全体におよぶ長期的利益よりは個々人にとっての短期的利益に目を奪われがちである。しかも、自分の現在の信念が正しいと過剰な自信を抱きがちである。現在の信念を補強するような情報は集めたがるが、それと衝突・矛盾する情報からは目をそむけようとする。今自分が生きているこの体制が善いに決まっていると信じたがるものである。いったん成立した権威主義的政治体制は、個々人に短期的便益を供与し続けることができる限り、自身を補強する無限のループに入り込む。
中国が脅威だと感じる人は多い。脅威の一端は、われわれが当然のように考えていたリベラル・デモクラシーに代わる、しかもそれよりすぐれている政治体制を示しているのではないか、そうした不安を感じさせる点にある。 中国の真似をしようとしているかに見える、表面上は民主主義体制の国があらわれ始めている。ハンガリー、ポーランド、そしてトルコもそうであろう。年老いた民主国家は、中国の真似をすることができるだろうか。トランプ政権を見ると、まさにそうした真似をしようとしているように見える。「アメリカを再び偉大にする」。国全体の尊厳の回復である。「鉄鋼の輸入に高い関税をかける。アメリカの労働者たちに雇用を取り戻す」。個別の短期的利益の供与である。今のところはいずれも、ことばの上だけであるが。 日本の政治家の言動を見ても、中国の真似をしたいのだろうと思えてならないものがある。憲法13条の「個人の尊重」という規定を廃止したいという人たちや、自衛隊の軍備を増強して世界各地で武力を行使したり、武力による威嚇をしたりしたいという人たちは、そうなのであろう。しかし、ナショナリズムに訴えることはともかく、個々の国民に短期的便宜を供与する余地は果たしてあるだろうか。せいぜい消費税の税率アップを先送りする程度のことしか残されていない。それも、短期的利益の供与というよりは、短期的利益の剝奪を先送りするだけである。福祉の長期的財政基盤は損なわれるのだが。 民主主義社会では異なる意見がぶつかり合い、その中から何が正しいかを主権者たる国民が選び取るのだと言われる。しかし、いったん自分の政治的立場を決定してしまった人たちは、自分の信念に合致する情報にのみ目を向けようとする。既存の信念を補強するサイクルが働く。SNSによる仲間同士のネットワークのつながりは、この傾向を助長する。「仲間」として発見されるのは簡単だ。ネットの探索を通じてあなたは自分のプライバシーを拡散し続けている。そして、選挙をしても何も変わらない。選挙の結果次第で、経済成長をするようになるわけでもない。自分の意見は正しいと信じ込んだ人たちがぶつかり合う一方で、棄権する人々が増えていくばかりである。自分自身の短期的便益に選挙結果が直結するわけでもないから。民主主義国家が自信喪失に陥るのも無理はない。果たして民主主義がうまく機能しているのかどうか、確かめようもない。同じ状況で、他の政治体制の方がうまくいくものか、試してみるわけにもいかない。 ただ、日本が中国の真似をしようとしても、今さら無理であろう。「個人の尊重」に関する憲法規定を改変するくらいのことは、ひょっとしてできるかも知れない。しかし、国民から参政権その他の基本権を取り上げることができるだろうか。人は現時点での確実な便益の喪失を、将来の不確実な利得との比較で大きく評価しがちである。中国のようになりましょうと本心を正直に語っても、人々は聞いてはくれないだろう。本心を語らないで憲法を変えても、あとで猛烈なしっぺ返しを被るだけである。 ナショナリズムに訴えかけるとしても、限界がある。軍備の増強といっても、人口が減少しつつある日本の国力相応のものでしかあり得ない。個々人に短期的便宜が供与されそうもないことも、はなからみなが承知していることである。個人消費が上向かないのもそのためである。消費税率もいずれは上げざるを得ない。高齢化が進む日本社会で、福祉の切り下げも総額ベースで大幅にはできない相談である。 中国の現体制の驚くべき「成功」は、中進国が先進国へと発展する、それほど長くは続かない経済成長軌道に寄り掛かったものである。いつまでも続くわけではない。統計上の数字はある程度、操作可能であろう。しかし、経済成長の終焉が誰の目にも明らかとなったとき、「成功」は「成功」のままであり続けるだろうか。日本が本当に備えなければならないのは、中国がその局面に立ち至ったときのカタストロフィックなリスクである。民主主義体制であれば今までの政策がうまく行かないとわかったとき、為政者をすげ替えたり、他の政策を試したりすることができる。権威主義体制ではそうは行かない。とくに最高指導部の任期制限が憲法上、取り払われたときは。 老境にさしかかり、自分がいつまでも生きているわけではないことに気づいたとき、人生の危機が訪れる。若さを無理やり取り戻そうとして、みっともない派手な大型バイクをローンを組んで購入して数回乗り回し、そのまま車庫で眠らせる。あるいは廃棄処分にする。ランシマンによれば、トランプはアメリカの民主主義にとって、そうした大型バイクである。数年間乗り回したあとは、廃棄処分にされる。 民主主義自体も、いつまでも続くわけではないのであろう。せいぜい19世紀後半から世界にひろがった政治体制に過ぎない。教科書で描かれた理想通りに機能するとは限らない。新たな代替案があらわれるかも知れない。民主主義の終わりは人類の終わりではない。いずれにしても政治体制に関しては、われわれは長い目で物事を見る必要がある。 日本はどうすればよいのだろうか。ランシマンに解決策はない(日本についてだけではないが)。しかし、そんなに悩むほどのことであろうか。SF的な想定だが、人がいつの時代、どこの国に生まれるかを決めることのできるくじ引きがあるとしよう。21世紀はじめの日本を引き当てた。どう考えても一等賞なみの大当たりだとランシマンは言う。たしかに政治も経済も停滞している。少子化と高齢化も進んでいる。しかし、他の時代、他の国に生まれて暮らすくらいなら、21世紀はじめの日本で生きることに、それほど不平不満があるのか。そう考える人は、世界中に数限りなくいるだろう。 それともこれも、現時点の信念を揺るがされたくないという人一般の傾向のあらわれに過ぎないのだろうか。 コメントの受け付けは終了しました。
|
Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
Categories |
Copyright © 羽鳥書店. All Rights Reserved.