――これをもってブログは最終回とさせていただきます。 15回の連載記事に書下ろしエッセイを添え、2019年の春に出版予定です。 *本連載は、工藤庸子『女たちの声』として書籍になりました(2019年6月)。 昨年の夏、羽鳥書店から〈淫靡さ〉をめぐる小さな共著(*1) を出版しましたが、その書物と全く無縁ではないものの、このブログの流れからすれば、見出しは「続・女のエクリチュール」としてもよい。前回に述べたように山田登世子さんは、日本で初めて〈批評〉の領域に斬りこんだ稀有な女性でした。同時代を生きた自分の人生をふり返りながら、そのことをあらためて考えているところです。『メディア都市パリ』は、著者の言葉によるなら「戯れのエクリチュール」によって「ファロスの王国」に挑戦したものであり、世に言う「再評価」とは異なる文脈で、そう、ここはいささか大上段に構えることをお許し願うとして、戦後日本の〈批評〉における女性的な言説の希少なプレゼンス――正確には、ほぼ全面的な不在――という歴史的な事実をふまえ、今現在の文脈で、その華麗な演技を読み解いてほしいと願っています。
「続・女のエクリチュール」は、その〈批評〉と対になる〈小説〉について。こちらは現代日本にとらわれず、コレットとウルフ。主題はテクストの「決定的な細部」としてのゼラニウム、その微かに淫靡な匂い。じつはこの話、以前にちょっとふれたことがあり、そこではフローベールとプルースト、いずれも両性具有的な傾向のある男性作家がちらりと姿を見せています。本題への導入として、まずはコレットのアカシアを。 代表作『シェリ』(1920年)の極めつきの場面。ご存じのように、ヒロインのレアは引退したココット(「高級娼婦」とか「粋筋の女」とか訳される)。息子ほど歳のちがう美青年と恋に落ち、何年か生活をともにしたのち、その美青年に結婚話がもちあがるというのが幕開けの状況です。その冒頭から時計をまきもどして馴れ初めの季節。夜の庭園からさっと吹きこんだアカシアの香りに誘われて、初めての口づけが交わされるというだけの場面なのですが――その香りがあまりに能動的(si active)だったので、吹きつけた香りの歩みを目で追うかのように(comme pour la voir marcher)ふたりはそろってふりむいた。「薔薇色の房のアカシアだわ」と女はつぶやき、青年はこれに応じて「しかも今夜はオレンジの花の香りをたっぷり吸いこんでいる」とひと言。あまりに繊細な感覚に、ふと胸を突かれた女が青年の顔を見つめると、恍惚とした生贄(いけにえ)のような表情が浮かんでいる。青年がレアの名を呼び、レアが近づき、そして長い接吻の陶酔が過ぎたとき、睫毛のあいだにキラキラ光る二粒の涙を浮かべているのは青年の方。 男が女の唇を奪うのではありません。レアの仲間のココットの私生児であるシェリは、美形という意味では絶品といえますが、じつは甘やかされた悪ガキで、早くも放蕩に疲れている。一方のレアは「三十年のあいだ輝くばかりの若者と傷つきやすい思春期のためにつくして」きた自分に「清潔感と誇り」をおぼえている聡明な女。思えばハリウッドの恋愛映画もヨーロッパの近代小説も、ひたすら男に唇を奪われ所有される女たち、お決まりのように恋人に去られて深く傷つく女たちを、それこそ無数に生産してきたのだから、やはりコレットは革命的に新しい(ついでに強調しておきたいのは、偉大なジョルジュ・サンドをふくめ女性作家たちの大方は、男性の期待に応える「告白小説」というスタイルを捨てきれずにいたという事実です)。愛と別れの物語でありながら、レアとシェリの関係は所有欲とも心理的な必然性とも無縁な出来事として推移するように見えるのです。ふたりがこうなってしまったのは、ただ単に、さっと室内に吹きこんだ生々しいアカシアの香りのせいだといわんばかり。 蜜蜂をおびきよせるアカシアの甘くかぐわしい匂いは、そうしたわけで、この小説の「決定的な細部」であると断定できそうです。しかも豪奢な「薔薇色」の品種。ここではアカシアの一般的な色は白という了解が暗黙の前提となる。acacia à grappes roséesという原文は、言葉の響きからしてもワインの「ロゼ」のような色合いを思わせるのでしょう。でも女が独り言のように小声でつぶやく台詞なのだから、訳者としては説明的な言葉で〈声〉のリズムを損ないたくはない。「ロゼのような淡い薔薇色の房のアカシア」とか「薔薇色がかった白の房のアカシア」とか、さんざん考えた挙句、いさぎよくあきらめることが、翻訳の宿命であるように思います。 さて、その対極にある、もうひとつの「決定的な細部」は「薔薇色のゼラニウム」。こちらはgéraniums- rosats――見慣れぬ言葉だなあと思って大きな辞書を引くと、この表現がそのまま引かれて用例に載っている。それほどにコレットは語彙が豊富、微妙なニュアンスのお手本として参照される作家なのですが、ちなみにrosatという単語の定義は「薔薇色の」de couleur roseというだけで、これだから辞書は役に立たないという見本のようなケース。おそらくは、よくある濃いめのピンク。「ロザ」という音の切れ味ゆえに選ばれたのでしょうか。つづいてゼラニウムの匂い、ということになれば、コレットを語るまえに、ひと言プルーストに言及しないわけにはゆきません。 Y――お久しぶり。このところあなた、フェミニズムの矛先が鈍っているのじゃない?
K――いえ、怒るネタはいくらでもありますよ。女子や浪人の受験者を一律減点していた(!)という医大の不正入試。LGBTの「非生産性」(!)なるものをめぐる与党女性議員の問題発言とその後のメディア論争の顛末。最近のきわめつきは、新内閣の女性閣僚が1名だけ(!)という強烈な差別。今年6月に発足したスペインの新内閣では17人中11人が女性(!)だというのに‥‥‥。 Y――そりゃ、意気阻喪するわよね。しかも首相の弁明のお粗末さ。わが国における「女性活躍」はまだ始まったばかりだから‥‥‥、1人でも2人分、3人分の活躍をしてもらおう‥‥‥。 K――それって、女は育児と仕事と介護で3人分の活躍をしろというのと、なんか似てません? そもそも「始まったばかり」というのは長年首相の座にあった者の発言ではない。宿題をさぼった子供の言い逃れですよ。本人が「代表制」を「代表」する立場でしょ、いったい何を謂わんとしているわけ? 昔なら夫婦喧嘩で負けそうになった亭主が相手の正論を「女の浅知恵」とか決めつけて逃げる、みたいな感じかな? Y――ん?? 「3人分」という「屁理屈」が「女の浅知恵」というなら、わかるけど。でも、それじゃ女に失礼ですよ。それより、メニュー。 K――お、ポルチーニがある。秋ですねえ。 Y――わたしも大好き。日本のマツタケより美味しいと思わない? 豪勢に、オリーヴ・オイルで焼いて軽くニンニクの香りをつけただけのやつを、丸ごと食べたい‥‥‥。 というわけで今回は、東京駅前、新丸ビルの高層階にあるらしいイタリアンでのおしゃべりから始まりました。Yは山田登世子さん。回想された場面というより、このブログではお馴染みのスタイル、つまり冥府との対話です。一昨年の夏、登世子さんが急逝されてから、いろいろと思い返す機会があり、文章を書くのも今回で3度目になる。まずは追悼のために編まれた『月の別れ――回想の山田登世子』(*注1) のエッセイ、そして再刊される『メディア都市パリ』(*注2) の「解説」を書き、まだ何か書き足りない、さらに大きな同時代性みたいなものがあるはず、という強い思いに促され、考えつづけているところです。 以前のエッセイでも述べたように「批評言語に男女が平等に参画しているか、という点に関して、日本は絶望的に後進国」(12回参照)なのですが、その日本の戦後社会において、山田登世子は初めて〈批評〉とは何かを真剣に考えたひとであり、さらには初めて〈女のエクリチュール〉を実践したひとだった、とのっけから、いささか無謀に断言しておきましょう(文学の創作という領域は別枠として)。 面識もないままに本を送り合うようになったのは、かなり昔のことですが、名古屋にお住まいの登世子さんが上京するときに声をかけてくださり、新幹線に飛び乗る時間まで、新丸ビルのレストランで語り合うようになったのは、たぶん10年ほど前からです。おたがい個人的な事情もありますから、数えるほどしかご一緒したことはないけれど、やはり特別のひとだった。「連帯感」solidaritéというのでしょうか、「書くひと」としての山田登世子を語ってみたいのです。 でも、その前に「語るひと」について、ごく簡単に。女どうしのヒソヒソ声での打ち明け話は大嫌い、というところは似ていたと思う。登世子さんの自己紹介は、筑豊炭田のボタ山から始まりました。父上が弁護士で、荒っぽい労働者の傷害事件などを引き受けることが多く、それこそヤクザまがいの男たちに可愛がられて自分は育った、と。気風がよくて洒脱なひとであり、「婀娜っぽいヤクザのお姉様」と題した短文をわたしが追悼集に寄せたのは、新丸ビルのレストランで美味しいものを食べながら、日本のオトコ社会を斬って斬りまくり、言いたい放題を言い合った二人の出遭いを記念するためでもありました。 ところで「ヤクザっぽいエクリチュール」というものが、あるでしょうか。そんなことを考えてしまったのは、1991年に、山田登世子は蓮實重彦に「喧嘩を売って」いるからです。『メディア都市パリ』の「ほんとうの後書き」という不思議なタイトルをつけた「後書き」の締めくくりにある話。ここは一呼吸して、しっかり想像していただきたい。数少ない女性研究者は男性研究者の語彙と論法を習得して作法どおりの論文を書き、少数の立派な「女性作家」はいたけれど「批評家」として認知された女性は同時代にも過去をふり返っても皆無、まさに前例がない、という時代だったのです。 『メディア都市パリ』のほんとうの目標は「霊感」の解体であったと著者は「ほんとうの後書き」で述べている――「バルザックやユゴーは霊感によって書いたなどという紋切り型を放置しておいてはならない。ましてや、小説は、霊感によって書きえなくなった者の失望の体験から始まるといった物語がまことしやかに流通するのを放置しておいてはならない‥‥‥」と。「近代小説はフロベールから始まると断定するその本」が『物語批判序説』(*注3) であることは言うまでもないとして、「バルザックやユゴーは霊感によって書いた」という「不用意な断言」については、「紋切り型を回避し、凡庸を指弾するに周到な言説を用意する蓮實節にはあまりにそぐわぬ凡庸な断言」であると断定する。「喧嘩を売って」いるのか、「因縁をつけて」いるのか。そこまで言ってしまった山田登世子はいかなる仕掛けと戦略をもって論争に臨むのか‥‥‥。 「個人全集」は何のために編まれ、刊行されるのか、考えてみたことはありますか? それは「特別なできごと」であって「その作家の大御所としての地位を出版市場を通じて改めて確認するだけでなく、文学研究にとっては、出版社の入念な編集作業を経たその作家の仕事の全容を見渡す、新たな立脚点が得られることを意味する」というのは、『大江健三郎全小説』の初回配本、第3巻の巻末に収録された論考(*1) の冒頭にある言葉。筆者はドイツ人の日本文学研究者であり、大江文学は「世界文学」として読まれてほしいと願う者として、異論はありません。
たとえば「丸山眞男全集」など、大学の学問を背景とした「全集」を、比較の例としてみましょう。著者が生前にみずからの業績を整理・選別して刊行することもあり、死後に弟子たちが編纂にかかわることもありますが、とりわけ後者のケースでは、学知の継承という抽象的な行為が、さながらブルジョワ社会の遺産相続にも似た波紋を呼び起こすこともないではない。選ばれた「弟子」と「大御所」とのあいだには「父と嫡出子」のような認知の関係があるのではないか、それが「学問の制度化」を招くのではないか、といった屈折した論評は、しばしば聞かれるところです。 文学の個人全集には、そういうことはない? でも「漱石全集」なら日本文学や比較文学の領域に膨大な「漱石学」の蓄積がありますから、大学の学問的権威を体現する編集企画を立てること自体は、他分野と同じく可能でしょう。一方、出版社が主導して、文壇で活躍する作家たち、評論家たちの解説とともに、主要作品を刊行することもできる。いずれにせよ「全集」の刊行に寄与する編者や解説者と作家との組み合わせ自体に、研究者間の知的血縁関係の開示のようなドラマを見てとる人はいないと思われます。 つぎに存命中の作家の特徴ある一例を。チェコとフランスで人生の前半と後半を過ごしたミラン・クンデラが、2011年にガリマール社のプレイアード叢書に入りました。長い伝統に逆らった破格の編集なのですが、ノーベル賞か、アカデミー・フランセーズか、それともプレイアードか、と昔は冗談にいわれたほど「権威」ある叢書ですから、この企画がすんなり通ったとは思われない。叢書の標準的な形式を破壊しているのです。著者の選択した小説や評論の決定版の総体が、著者自身が最終的に認知した「作品」(単数形のŒuvre)としてヴォリュームのほとんどを占め、注釈や草稿や改稿のたぐい、「年譜」や「評伝」などの情報は全て潔くカット。遠いカナダ在住の比較文学者によるBiographie de l’œuvre(「作品の作られた事情と方法」という感じか)と題した控えめな「作品解説」が巻末についている。 この簡素な造りに秘められた強い意志とは何か? カフカの遺稿をめぐる批判的なエッセイ『裏切られた遺言』をお読みになった方は、言われるまでもない、とお考えでしょう。遺言によって破棄されたはずの草稿を根拠に「作品」が他人の手で改竄されること、死後に本人が与り知らぬ恣意的な解釈に曝されることは、断じて拒絶・回避するという宣言。「全体主義」の時代のチェコで、「検閲」と親密圏への権力の介入を体験しつつ作家になった人の「防衛」の仕草のようにも見える。しかし、ここまで徹底した「作品」の囲い込みに違和感を覚え、こんなふうに、みずからの「遺言」の「執行人」までやってしまうとは ?! と妙な切なさを感じる人もいるようです。若き友人の言によるなら、プレイアード叢書はどことなく「柩」に似ている‥‥‥。 「おそらく最後の小説」であると大江自身が言う『晩年様式集』の最後に近いページで、「三人の女」の一人によって、暗示的な言葉が発されます。「人生のしめくくり(原典は下線ではなく傍点)」をクンデラの「作品」(「ウーヴル」とルビ)に達成する――引用だけではわかりにくいかもしれないけれど、「作品」の決定と開示・刊行が、しめくくりの営みとなるはず、ということでしょう。 『大江健三郎全小説』(講談社)の記念すべき第一回配本の一冊である第3巻は、その巻頭に、二部構成の「セヴンティーン」と「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を収めています。後者は1961年『文學界』に発表されてから再録されることはなく、今ようやく「封印を解かれ」たものという。「モデル」とされる右翼の少年は、わたしより一歳年上、同じ都会の風景を眺め、同じ時代の空気を吸っていたことになりますが、なにゆえ作品は半世紀以上にわたる禁忌と抑圧の対象となったのか?
巻末の周到な「解説」で尾崎真理子さん(面識はないけれど、やはり「さん」付けで)が語っておられることを参照し、メモ風に時代背景を復習するならば――60年安保闘争が首都を席捲し、市民や労働者や学生を動員した時代。街頭では赤尾敏率いる大日本愛国党が大音響の宣伝カーを走らせ、戦後知識人たちの支持を得た日本社会党や日本共産党が大規模集会を開いていた。存在感を誇示する左翼と右翼の正面衝突で、「天皇」は政治的であると同時に象徴的な争点ともみなされた。そもそも敗戦後の日本には「天皇」をめぐる思想書からフィクションまで多くの刊行物あり、とりわけこの時期、現実の殺傷事件と文学作品が奇怪な様相を呈して交錯した。1960年10月12日、日本愛国党の元党員である17歳の少年が、社会党の浅沼稲次郎委員長を立会演説会の壇上で殺害し、逮捕後、独房で首吊り自殺を遂げた。一方11月に『中央公論』に発表された深沢七郎の「風流夢譚」は夢の話という設定で、「左翼」ならぬ「左慾」が皇居に乱入して天皇一家を惨殺するという、過激きわまる滑稽小説だった。年が明けた1961年2月1日、中央公論社の嶋中社長宅に、同じ日本愛国党の元党員である17歳の少年が押し入り、家政婦を刺殺、社長夫人は重傷を負った。一連の事件の合間をぬうようにして、大江の「セヴンティーン」は1960年12月発行の『文學界』に、そして「政治少年死す」は翌年1月の同誌に掲載される。出版社が報復を恐れて単行本化を自粛したのは、嶋中事件の余波とみなされている。 さて「セヴンティーン」は、ひ弱で鬱屈した高校生である「おれ」が、小遣い稼ぎにサクラで参加した極右組織の集会で「皇道派」の大物に魅せられ、凶暴な「右翼少年」に変貌するまでを語る。後半の「政治少年死す」では、右翼団体の活動メンバーとなった「おれ」が広島の平和大会になぐりこみをかけ、帰途の車中で「天皇の精髄」をめぐる「啓示」を受ける。そして党を離れて農場で修練の日々を送ったのち、暗殺を決行して自殺。テクスト上にゴシックの太文字で記された「確信・行動・自刃」という信条に、政治少年は殉じたのである。独房で首を吊った少年の「死亡広告」と題された8行ほどの断章で幕。 全体として浅沼委員長を暗殺した山口二矢(おとや)を生々しく想起させる作品であることは事実だけれど、『全小説』の「解説」には貴重な証言が記されている(尾崎さんは、長年にわたりインタビュアとして大江文学の生成に寄り添ってきた)。右翼少年の誕生を語る「セヴンティーン」の場合、原稿(110枚超)の締切りは11月後半だったはず、10月半ばの暗殺事件に触発されて、その後に物語が構想されたとは考えにくい、という指摘を受けて、作者自身が「経過だけ読むとモデル小説」のように見えるかもしれないが、じつは「右翼的な宣伝、テロみたいなことを考えたり、書いたりしていた時に、そういう事件が起こってしまった」と答えを返している。文学は現実の出来事の反映・反芻なのか? そうでないとしたら? という問いにかかわる重要なポイントです。 「セヴンティーン」二部作は、過激に「政治的」であると同時に過剰に「性的」な作品です。なにしろ「おれ」が17歳の誕生日に風呂場で自瀆に耽る長い記述に始まって、「絞死体をひきずりおろした中年の警官は精液の匂いをかいだという……」で終わるのだから。そこでナイーヴな疑問を呈してみたい。あられもなく露出した「性」を、そして「性」と「政治」との不可分であるらしい関係を、男女の読者、とりわけ女性読者は、どう読むか? それというのも「解説」担当は女性、これにつづく論考は日本文学を専攻するドイツ人女性研究者によるものであり、初回配本における女性のプレゼンスは、たまたま、ということのようには思われない。前回のエッセイで示したように「三人の女たち」の言語的反乱という趣もある『晩年様式集』を書き終えた作家による全集編纂の、いわば作為的配慮でもあろうかと推測するからです(全集の『全小説』という枠組みについては、次回に)。正直なところ、解説や評論や参考文献や雑誌などの関連企画をふくめ、大江文学の周辺が男性の言説で埋め尽くされていたならば――相変わらずホモソーシャルな言語環境に恐れをなして――わたしは日本への回帰など考えてもみなかったはず。 そうしたわけで、わたし流の文学的妄想によれば、半世紀昔の剣呑な右翼少年が、二人の知的な女性にエスコートされて甦ったようでもあり……、それはともかく、お二人の「セヴンティーン」論への応答として、本論を書き始めたいと思います。 フローベールを語らずしてフランス第二帝政を語れるか。プルーストやコレットぬきで第三共和政を描けるか。ウルフを視野に入れずに女性と文学という主題に接近できるのか。だとしたら? そう、大江健三郎を恭しく棚上げにしたまま、日本の戦後を展望できるはずはありません。昭和と平成を束にして生きぬいた作家の「全小説」の刊行が、この7月に始まり、元号の改まった年の秋に完結するとのこと(元号などは無意味な作為だと切って捨てられぬ精神風土や論争が、じっさい日本にはあるのだから、なおのこと)。『読売新聞』はじめ大手日刊紙が著名な作家や評論家のエッセイを掲載し、『群像』8月号には「筒井康隆×蓮實重彦対談」が組まれています。この対談で提示されたキーワード「同時代人」を手掛かりにしたいと思うのですけれど‥‥‥。
とはいえ「あなたは大江健三郎の同時代人ですか?」という問いが、わたしに向けて発されることは、およそ想像すらできません。大江健三郎と対談参加者、これら御三方はほぼ同年齢。それより10歳近く年下ではあるものの、ここで年齢差は理由ではなくて、そもそも「同時代」などという大仰なものについて女性が真剣に考え語ることは、絶対的に期待されない社会の片隅で、昔のわたしは生き始めたという自覚があるためでしょう。 「あなたは大江健三郎のcontemporaineですか?」という問いであれば、話は別、という気がします。わたしにとって外国語の語彙を習得することは、日本社会の厳めしさ、居心地の悪さからの脱出であり、解放の経験でもありました。contemporaineというのはプルースト『失われた時を求めて』からの借用です。社交界の花形ゲルマント公爵夫人(その頃の名はレ・ローム大公夫人)が、ある席で初々しい女性のごく自然な仕草が不意に男たちの好感を呼びさましたのを見て、あの方、わたくしのcontemporaineじゃないわね、と言う。本物の社交界で訓練された身体ではない、深読みすれば「生き方のスタイル」を分かち合えないというぐらいの、ちょっと意地悪な台詞です。ちなみに年齢差への仄めかしと見えるのは、ややコケティッシュな言葉の運用に過ぎなくて、ゲルマント公爵夫人は自分のほうが年寄りだと言うつもりは毛頭ない。だいいち人類の歴史から見れば、10年か20年前であろうと2世紀まえであろうと、時の長短などは決定的な差異ではないはずです。つまり、ナポレオンと闘うスタール夫人をわたしがcontemporaineであると感じても、一向にさしつかえない。それゆえ年齢差とは別種の問いとして、あらためて「わたしは大江健三郎のcontemporaineであると感じるか」と自問してみます。ひとまず率直に答えるとすれば、かつてはNon! であった、今ならOui! ということになりそうです。この先はやや具体的な回想を。 1960年代半ばに東大の仏文に在籍する者が、大江健三郎の愛読者でないということはありえませんでした。本郷キャンパスの医学部から弥生門にかけて、通行人もまばらな辺りでは、しかるべき時刻に犬の吠え声が陰気に響くはずであり、夕暮れ時の病院施設では人目もはばかるアルコール漬けの遺体の移動作業が……なんて夢想に浸されることなく文学部に進学した者はいないでしょう。「奇妙な仕事」「死者の奢り」などの短篇や『芽むしり仔撃ち』『性的人間』そして『個人的な体験』までが60年代の前半に出揃っている。強烈な熱風のようなものを肌で感じて刺戟を受けとめたという記憶もあるけれど、それにしてもジェイン・オースティンやブロンテ姉妹に育てられたフツウの文学少女が、読んだふりをして読み飛ばしたページは少なくなかったにちがいない。つまり20代のわたしは、断じてこの小説家を「身近」な存在と感じてはいなかった。もし、あの頃に「セヴンティーン」を読んだとしたら‥‥‥、大江健三郎を嫌いになっていたかもしれない、とすら今は思うのですが、この話題は次回にゆっくりと。 その後、わたしは横文字の世界に脱出し、かぎられた時間をどこに投入するかという切羽詰まった暮らしでしたから、日本語の小説や評論にじっくり親しむことはありませんでした。したがって、自分が大江文学のよい読者だと思ったことはなく、読んだはずの作品も、未消化のまま記憶があいまいになっている。ところが、いつ頃からか、多少は生活にもゆとりができて、いわば大江文学の再発見のような体験をすることになりました。それが、今ならOui!と答えるだろうという意味であり、とりわけ2013年の『晩年様式集』(イン・レイト・スタイル)は――「おそらく最後の小説」と帯の冒頭に記されたものですが――ほとんど戸惑いに似た、言いようのない「親(ちかし)さ」の感情を覚えて読みおえました。 ところで、いただいた御本に肉筆のお礼状を書くためにパソコンで下書きをするという恥ずかしい習慣は、ペンを握るのが身体的につらくなった時期から身についたものですが、おかげで読みおえた時点での率直な印象を正確に思い出すことができる。『晩年様式集』の作者に宛てた手紙から、小説の感想のような文章を、ほぼそのまま引用してみます。 「いや要するに、マダム、貴女方は何も不平をおっしゃるには及ばないのですよ」と彼は意味ありげに微笑しながら言葉をつづけた。「魂はお持ちだと認めてさしあげたのだから。ご存じのように、決定しがたいという哲学者もおりますよ。平等だとおっしゃりたい? それは狂気の沙汰ですな。女というのはわれわれの所有物(propriété)であるが、われわれは女の所有物ではない。女はわれわれの子供を作ってくれるが、男が女の子供を作ることはない。それゆえ、実のなる木がその木を育てる庭師のものであるように、女は男の所有物である。男が妻を裏切って浮気をしたら、正直に白状して、後悔すればよい、それできれいさっぱり跡形も残らない。女房は怒るかもしれないし、赦すかもしれないし、あるいは適当に折り合いをつけるかもしれない、それで得をすることだって、たまにはあるだろう。ところで妻の浮気となると、そうはゆかない。白状して、後悔しても、なんの意味もない、きれいさっぱり跡形も残らないなんて、誰が保証できますか? なされた悪は修復できない。それゆえ女は身に覚えがないと言い張るべきであって、ほかにやりようはない。そうしたわけで、マダム、お認めいただけるでしょうが、よほど判断力がないか、俗っぽい考えに囚われているか、教養が不足しているか、というのでないかぎり、妻が自分の夫とあらゆる点において同等であるなどと考えるようになろうはずはないのです。だいいち、相違があるからって不名誉なわけではありませんよ。それぞれに特性と義務というものがある。貴女方の特性は何かといえば、マダム、それは美であり優雅であり魅惑である。貴女方の義務は何かといえば、それは従属と従順である」
「語られる言葉」の肉声を思い浮かべながら、こんな感じかなあ、と日本語に移し替えているだけで、じわじわと、かなり、腹が立ってきました。19世紀フランスの「姦通小説」のロジックがここに凝縮されており、今日的な「セクシュアル・ハラスメント」の原点もここにある。出典はラス・カーズの『セント=ヘレナ覚書』(1823年)――でも、録音機器もなかった時代に、これが退位した皇帝の台詞をそのまま「書かれた言葉」に移し替えたものだという保証がどこにある? 著者のラス・カーズが巧みに造形したフィクションかもしれないでしょ? という抗議の声が聞こえてきそう。じつは2017年の末に、この『覚書』の元原稿とみなされるラス・カーズの『日記』が初めて書物のかたちで公開されました(*1)。これは近年のナポレオン学の興味深いトピックなのですけれど、その話は後回しにして‥‥‥。女性蔑視の見本のような長い台詞のキーワードはpropriétéであるという観点から分析したいと思います。 ご存じのように近代法の基本原則とされる「私的所有権」private property / propriété privéeを体系化したのが、ナポレオンの名を冠した1804年の民法典なわけですが、ある歴史家の言によれば、フランス革命の精神――「法の前の平等」「所有権の不可侵」「経済活動の自由」等――を見事に制度化した法典にも「時代遅れ」な部分はあった、なぜなら女性は法的な主体と認められず「妻の地位」が低くなったから、とのこと。この記述を読んで、わたしは唖然としました。まるで、その「時代遅れな一面」をちょいと手直しすれば――痛む虫歯を1本抜くみたいに――問題は解決するといわんばかり。民法典は社会の「秩序」を支える構造体なのだから、たとえば「妻が夫の所有物」であるような家族像と、これを包摂する「ジェンダー秩序」を解体し、全体を再構築しなければダメなのです。ヨーロッパは2世紀をかけてそれをやってきた‥‥‥。なんてこと、その歴史家は、考えもしないのでしょうね。上記ナポレオンの台詞も、たしかに「時代遅れ」だけど、こういうことをヌケヌケと言えた昔の男は気楽だよね、という顔をして――それこそ「意味ありげに微笑しながら」――読み飛ばすかもしれない。そういう男性、皆さんの身の回りにはいないと断言できますか? 女もひとりの人間であるのなら、男のpropriétéにはなりえない。そう断言したのは、スタール夫人です。ナポレオンに国外追放され、レマン湖の畔コペの城館で軟禁状態にあったとき書き始めた『自殺論』(1812年)のなかで展開される議論です。おりしもベルリン在住の著名な劇作家クライストが人妻と心中するという事件が起きて、これがロマン主義的な愛の崇高なる成就であるかのような論調が世論を支配した。スタール夫人は賛美の風潮を批判して、男が女をピストルで撃ち、ただちに自殺したというけれど、たとえ女の合意があったとしても、人間の意志などは一過性のものだから、これは正真正銘の殺人であり、他人の生に対する「残忍な所有」féroce propriétéにほかならないと指摘したのです。自立した個人とは何か、という問いかけでしょう。人は人を所有できない。人は他人の生を神聖なものとみなし、独りで死んでゆく人間の孤独を引き受けなければならない――スタール夫人の主張は普遍的に、つまり男にとっても女にとっても正しいのではありませんか? そしてこれはまた、徹底した「反ナポレオン」の哲学ともいえる。もちろん、ご紹介したナポレオンの台詞が本人の本音であると仮定しての話ですが。 刺戟的な言葉が並んでいるからといって、期待しないでください。
一部の日本人男性の幼児性について語りたいのですが、基調となるのは、我が腹心の友Nさんとの対話です。 N――お久しぶり。本日の話題は世間を賑わせているセクシュアル・ハラスメント、でしょ? これまでの経緯からして、このブログで見過ごすわけにはゆかないと思っていましたよ。 K――さすが、ご明察、というより、当然そういうこと。もちろん「女たちの声」にかかわる問題なんです。家族や男女の居場所である「親密圏」でも、人と人が交わり活動する「社会」でも、そして「公共圏」の見本であるべき政治の場でも、皆さん、現場でしっかり声を上げてください、と応援すれば、それだけで済むなよう気もするのだけれど、今日は具体的な話をしたい。それは「言葉」‥‥‥。 N――「言葉」? たとえば、どんな? K――不愉快だから横文字で書くけどOppaiとか。 N――わかった! わたしは「チュー」という言葉が嫌い。ネズミじゃあるまいし。つづく動詞は、「‥‥‥触っていい?」「‥‥‥していい?」でしょ。絶望的に幼稚だよね。 K――まさに、幼児語。それも原初的な幼児語です。母親が疲労困憊していようと爆睡中であろうと、赤ん坊が大声で泣けばOppaiを口にふくませてくれて、それから頬っぺたにチューして、優しく寝つかせてくれる。 N――もちろん男女が合意のうえで言葉遊びをするのは、いいと思いますよ。わたしの趣味ではないけど、そういう口説き方もあるんでしょう。でも堂々たる社会人で、しかも職業人として行動している赤の他人に対して、それはないよね。つまり「社会的マナー」を知らぬ高級官僚の「他者理解」が、生まれたばかりの赤ん坊ていどであることに、憤っておられるわけね、あなたは。 K――はい。で、一つ思い出話、していい? N――どうぞ‥‥‥。 K――学生の頃、ある職業団体主催の国際大会で通訳をしたの。スケジュールが終了して、さあ、打ち上げということで、六本木だったか赤坂だったか、日仏の事務局の幹部が高級キャバレーに繰り出そうということになった。通訳の若い女性たちは皆、逃げちゃったから、場違いなメンバーは、わたし一人だけ。笑わないで、想像してみてよ――超豪華な空間の真紅の円型ソファで日本の業界理事長とフランス側代表に挟まれてわたしが座り、周囲には肌も露わな豊満系美女がずらり。昔ですから、片言の英語も使えない。すべて通訳するわけ――「Oppai触っていい、と彼(フランス側代表)に言ってよ」とかね。 N――今回の話題との繋がりは、よくわかりました。それ、通訳したの? K――うん、「彼(業界理事長)はこう伝えるように言っています」と、ワンクッション入れたけど。ちょっと説明させてもらうとね、フランス側代表が素敵な男性だったのよ。秘書みたいな役割だったから、意気投合しちゃって、数日の大会が無事終了した瞬間には、皆の見ているところで抱き合ってビーズというぐらいの仲(ちなみに「ビーズ」は相手の頬への軽い接吻。そもそも「ハグしてチュー」なんて日本語で、然るべき男女の仕草が想像できますか?)。ハンサムで、スポーツマンで、自分は職人として生きてきたことに満足しているけれど、娘は医学部だよ、とか自慢して、要するに品性を信頼できる人物だった。フランス人の参加者たちも、わたしが学生であることを知っており、ナイトのようにお行儀よく接してくれていたから、深刻に不愉快な思いはしないだろうという自信があって、それで、社会見学のつもりで、キャバレーに行ったわけ。 N――ふーん、そうか。で、通訳の話にもどると、「彼はあなたに『Oppai触っていい』と言っています」という間接話法のフレーズに、声の抑揚一つで「日本人の男って、この程度」ってニュアンスを添わせること、出来るものね。あちらさんは、なんと答えた? K――「彼に『ありがとうございます』と伝えるように」って(笑)。 N――つづきの解説はわたしがやってあげる。キャバレーでの一連の出来事は「社会的なマナー」から外れることなく進行した。Oppaiの持ち主も、通訳のあなたも、それぞれ職業人としての尊厳は傷つけられていない。つまりセクシュアル・ハラスメントはなかった、と。 K――同じ語彙、同じ文章だから、思い出してしまったのでしょうね。この比較論においては、ガラの悪い業界理事長よりも出世した高級官僚のほうが、はるかに「たち」が悪い、権力が絡んでいるだけに「悪質」なわけですよ。ちなみにその業界理事長、政界に打って出ようとしていたらしいけど‥‥‥。 N――ところで、今回の話題のメインは「性愛」なんでしょ? K――そう、これも「言葉」をめぐる問題なの。「言葉と権力」といったほうが正確なのだけれど、文学のことを考えつづけてきた人間としては、皆さん、声を上げてください、という応援のひと言だけで、議論を終わらせちゃいけないという気持がある。わたしのなかでは「性愛」問題とOppai問題は確かに繋がっており、いずれは「秩序としての言語環境に潜むジェンダー・バイアス」というところまで論じたいと思っています。メモ程度のことを、とりあえず書いておきますね。 若き友人でもあるところの女性編集者と差し向かいで御馳走を食べながら編集会議を兼ねたよもやま話をやっていたときのこと。先回のブログを読んでくれたその人が、働く女性は声が低くなるって、統計的にも証明されていること、ご存じでした? と切り出しました。
あ、それそれ、教えて頂戴。わたし、以前からそう思っていたの。身に覚えがあるんですから。女子大から男ばかりの大学に移って、わたし、確実に声が低くなった。このブログでもどこかに書いたと思うけど(4 性差のゆらぎ)、男性ばかりの会議で初めて女性が無意味ではないことを発言しようとすれば、目に見えぬ小さな衝撃が走る。もちろん居合わせた男たちは、空気が凝固する一瞬の感覚なんか、覚えていませんよ。でも、わたしは、男ばかりの大学に着任してから何年か、いつでも男ばかりの会議に出席していたのだから、発言のコンテンツが無意味な注目を浴びぬようするためには、高い声で逆撫でしないのがいちばん、と思ったのでしょうね、無意識のうちに意識的に、としかいいようがないのだけれど、いつのまにか低い声で話すようになりました。 と、一気にしゃべったところ、その人は自分も声の高さにふと違和感を覚えたことがあると述懐し、要点を以下のように説明してくれました。要するに、日本の女性は「世界一声が高い」のですって! そしてドイツの女性は「声が低くなった」とのこと。周波数でいうと世界標準の男性の声の平均は110Hz、女性は220Hz(その差はほぼ1オクターヴ)だそうですが、ドイツの女性は平均165Hzであると。もっとも低いのは北欧だそうで、おわかりのように厳正な事実として、女性の社会進出と声の低さは連動することが統計的に証明されたことになる。情報源は久保田由希さん(ベルリン在住のフリーライター)のブログ。調査結果が発表されたのは、2018年1月18日の「ターゲス・シュピーゲル」。 それにしても、上記の3つの数字は示唆的です。ドイツ女性の平均は、奇しくも世界の男女の平均になっている‥‥‥。ヨーロッパの安定と世界の平和に貢献する責任があると自覚する女性がEU諸国には多数おり、若々しい中間層がこれを支えていることが、この数字からも実感されるではありませんか。だって、メルケル首相が銀の鈴のような乙女チックな声で、アメリカやロシアの大統領に電話したら、やっぱり笑ってしまうでしょう? 声の周波数を決定する要因がなんであるのか、体型とか、ホルモンとか、諸説あるらしいけれど、わたしとしては――よっぽど時間があれば――性差をめぐる環境の変化と女性の声の関係を本気で歴史的に考察したいところです。 ちなみに、こんな個人的な思い出も――以前に同窓会で昔々おたがいに憎からず思っていた人に何十年ぶりかに会ったところ、その男性は、わたしの声が低くなったと失望の色を露わにした‥‥‥。でもね、あなたの凍結された乙女幻想に応える気は全然ないの、とわたしはすげなく内心でつぶやきました。人生の時は移り、時代も流れ、性差の規範も変化する。女は女らしく、男は男らしく、と説得あるいは強要しながら、性的な差異を極限にまで拡大させ、制度化したのは19世紀ヨーロッパのブルジョワ社会です。公共圏と親密圏での男女の棲み分けが奨励され、男と女の服装や髪形や帽子が徹底的に差異化され、そして男性は100Hz、女性は250Hzでしゃべっていた‥‥‥。 むろん数値は空想だけれど、ありそうな話じゃありません? 最大化された性差を縮小させたという意味で、ドイツ女性の声は立派だと思う。ちなみに、これを「女性の男性化」と捉える向きもあるでしょうけれど、それこそ自分の立ち位置を普遍的な基準とみなす男性中心主義の典型でありましょう。 さて歴史的な考察ということで、ちょうど半世紀前、1968年の前後を後半の話題にしてみます。この時期に「性差をめぐる環境の変化」が世界的なスケールで起きたことはまちがいないのですけれど、随想のきっかけとなったのは、たまたま届けられたボーヴォワールの新刊書、そしていつものように机上にあるアーレント。 これは、わたしの生涯の研究テーマ。といっても出遭ったのはそう昔のことではなくて、「近代ヨーロッパ批判」三部作(*1)の第二作の終章に「女たちの声」というタイトルをつけてみたのが、新しい自覚の始まりでした。学生のころから親しんできた『ボヴァリー夫人』の周辺にさまざまの「姦通小説」を配し、政治と宗教、人の掟(民法)と神の掟(教会)という対立軸によって構成された社会秩序の内部で読み解くことが、著作の意図だったのですけれど、書いているうちに、しだいに欲求不満になってきた。どうしてわたしはこれほど忠実に、男の視点、男の立ち位置、男の世界観をなぞるような作業ばかりやっているの? とだんだん腹が立ってきて、これぞ女の視点、女の立ち位置、女の世界観、よくぞ言ってくれました、と応答できるような女性作家はいないものか、という探求の意欲がムラムラとわいたのですが、ついに発見したという確信が得られたのは、第三作を書き終えたときでした(「読むこと」はしばしば知識の「習得」でしかないけれど「書くこと」はときに真の「体験」となる)。
つまり「女たちの声」と今のわたしがいうとき、それはとりわけ「スタール夫人の声」であり、こめられた意図は何よりも「政治的」なもの――なにしろスタール夫人はフランス革命勃発時の大臣ネッケルの娘なのであり、フランスのみならず英国・ドイツ語圏・イタリアなど、ヨーロッパの諸国民にかかわるフィクションや評論を書くときには、その地で「女たちの声」を「公的な領域」に届ける仕掛けが機能しているかどうかに必ず言及する。これは「世論」と「代表」をめぐる問題を、女性が自ら関与する政治的課題として語った初めての例であると思われます(誰もが知るように「声」voixは選挙の票や投票権も指す)。 というわけで日々のBSのニュースを観ても、真っ先に気にかかるのは、公的な領域における女性の身体的なプレゼンスです。3月14日、ドイツ連邦議会でメルケル首相が再選されて、ようやく新政権が誕生しそうですけれど、閣僚の女性比率はどうなることか。ご存じのように、フランスのマクロン政権は、数字のうえでは完全な「男女同数(パリテ)」を達成している。ただし女性閣僚の大半が「女性の権利省」など女性に特化した分野を担当する現状は、アリバイ工作が透けて見える、という批判もあるらしい。もしかしたらドイツのほうがプレゼンスは実質的なのかもしれません(日本の現状を思うとほとんど絶句するけれど、でも、絶句している場合ではない)。 圧倒的な存在感を見せるのは、与党ドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)副党首のウルズラ・フォン・デア・ライエンで、国防相の続投が確実視される人物(59歳、洗練された凛々しい女性)。メルケル首相の後継者として俄かに注目されるようになったもう一人の女性は、アンネグレート・クランプ=カレンバウアー(55歳、信頼できる友人であるというメルケル首相と同じタイプの好感のもてる安定型)。たしか2月の半ば、記者団のまえで党の新幹事長候補として紹介する場面だったか、メルケル首相が、もしこの人が幹事長になれば女性で初めて、と言った瞬間の反応が面白かった。えっ? という感じで一瞬その場が固まり、首相はキョトンとして、何かドジやった? という表情を見せてから、照れくさそうに破顔一笑。じつは初代の女性党幹事長はメルケル自身でありました。昨年9月の総選挙後5カ月にわたる紆余曲折の末、3月4日の党員投票の結果を受けてようやく大連立を組むことになったドイツ社会民主党(SPD)は、新体制の党役員6名はまだ発表できないが、男女同数3名ずつになるだろうと発言。ニュース報道ですらない、こういう普通の光景も――集団の社会的なバックグラウンドが一瞬露呈するという感じで――切実に羨ましいですよね。 さて「女たちの声」という主題には、とりあえず3つのアプローチが想定されており、「政治的」なものにつづく第二の切り口は「メディア論的」そして第三は「唯物論的」な考察です。「声vs.文字」「話される言葉vs.書かれた言葉」「パロールvs.エクリチュール」といった具合に対立的に分類された言語の様態に関し、男性と女性は歴史的に同じかかわり方をしてきたか? 同じでないとしたら、いかなる差異があるのだろう? 考えてみたこと、おありでしょうか? ジャンヌ・モロー主演、ルイス・ブニュエル監督『小間使いの日記』の一場面。女物のブーツをフェティッシュとして愛玩する富豪の老人が、雇い入れたばかりの美しい娘に「セレスティーヌか、素敵な名前だ‥‥‥ところでマリーと呼んでもかまわないかね‥‥‥」としつこく迫る。当のセレスティーヌは、雇い主の連中はなぜか決して使用人を本名で呼ばないという妙な癖をもっている、あたしなんか、ありとあらゆる聖女さまの名前で呼ばれてきたんだからね、とむかっ腹を立てる――原作のオクダーヴ・ミルボーの小説にしかない内面の台詞だけれど、ジャンヌ・モローの顔にちゃんとそう書いてある。伝統的な社会において、使用人は適当に、勝手な思いつきのファーストネームを押しつけられ、姓はもたぬかのように扱われたのであり、セレスティーヌ・R嬢がつかいそうな語彙ではないけれど、これは個人の「尊厳」にかかわる問題です。
ところでブルジョワ階級の既婚女性の姓と名の関係はきわめて複雑であり、ヨーロッパ近代小説を読んできた者としては一冊の本が書けるぐらいのネタはありますが、皮切りの話題は、既婚男性の姓と名の関係から――と言っただけで、多くの方が思い当たるはず。ひと月ほど前(2017年1月9日)のことですが、日本人同士の結婚で、夫婦別姓を選択できないことは憲法違反だとして、国に1人あたり55万円の損害賠償を求め、東京地裁に訴状が提出されました。大きな反響を呼んでいる理由の一つは、原告が男性であったから。つまり、この不意打ちの意外性が図らずも、不利益を被るのは女性であるという大方の人が黙認する了解そのものを改めて露呈させたから。もう一つ興味深いのは、夫婦同姓は「女性差別ではない」(?!)とした2015年12月の最高裁判決を覆すという勝算の少ない闘いはやらぬという原告側の戦略です。日本人と外国人が結婚する場合には別姓にすることができるのだから、日本人同士の結婚について同じことが許されないのは、法の下の平等に違反するという主張。「民法750条」は憲法で保障された権利・自由を侵害するという前回の主張と異なり、「戸籍法」の矛盾を突くというわけ。なるほど、法廷闘争というのは、そんなふうにやるものなのですね。ご健闘を祈ります。 じっさい姓名の問題は、原初において「戸籍」の問題でありました。フランスでいえばカトリック教会が洗礼の台帳によって人の生死や婚姻を管理していたアンシャン・レジームが革命によって崩壊し、世俗化された国家に国民生活の管理権が託されたとき、近代の「市民社会」が「戸籍」とともに誕生した。ひとまずこの大ざっぱな見取り図を提示したうえで、既婚女性の姓と名の関係に話は戻ります。 「エンマ・ボヴァリー」という女性は『ボヴァリー夫人』のなかに存在しない、という驚くべき事実を初めて指摘したのは、あの蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房、2014年)でありますが、なるほど作品中には「ボヴァリー夫人」と呼ばれる女性がシャルル・ボヴァリーの母親と初婚・再婚の妻と3人もいる。一方でヒロインは親族からは「エンマ」と呼ばれ、一歩家の外に出れば「ボヴァリー夫人」であって、ただの一度もテクスト上で「エンマ・ボヴァリー」と名指されることはありません。そのような言葉の存在あるいは不在を凝視すべき分析の水準を「テクスト的な現実」と名づけて『「ボヴァリー夫人」論』の議論は展開されてゆく。ただし、わたしの話はここで脱線し―― |
Author工藤庸子 Archives
12月 2018
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