前回は多数決による社会の決定は、適切にして十分な理由に支えられていなければならないはずだという話をした。今回は、この世の中は集合的決定に関する限り、そう簡単にはできていないという話である。 個人であっても、適切にして十分な理由によって支えられる選択肢があるにもかかわらず、それと異なる不合理な選択をすることはないわけではない。しかし、それは不合理な選択である。他方、集団の場合、理由に関するメンバーの判断を集計した結果とメンバーの結論の集計結果とが整合しないことがある。それは必ずしもメンバーによる不合理な判断や不合理な選択の結果ではない。 集合的決定の結論が、それを支えているはずの理由付けの集計結果と不整合を起こす問題状況は、それを最初に定式化したフランスの数学者、シメオン-ドゥニ・ポワッソンの名前をとって、ポワッソンのパラドックスと呼ばれる。最近では、法理のパラドックス(doctrinal paradox)と呼ばれることもある。 早稲田大学中央図書館4階にある古書資料庫に収められたポワッソンの著作は、次のような陪審裁判の事例を伝える(Simeon-Deny Poisson, Recherches sur la probabilité des jugements en matière criminelle et en matière civile (Bachelier, 1837), p. 21 note)。 ピエールとポール、2人の被告人がある同一の窃盗事件で起訴された。12人の陪審員の結論は3つのグループに分かれた。ピエールについて、最初の4人は有罪、次の3人も有罪、残りの5人は無罪と判断した。ポールについて、最初の4人は有罪、次の3人は無罪、残りの5人は有罪と判断した。ピエールは7対5で有罪、ポールも9対3で有罪である。次に、2人は共犯かどうかが判断された。共犯であれば刑が加重される。2人がともに窃盗に関与したと考える陪審員は4人だけである。したがって、共犯ではない。2人とも有罪なのに。 理由に関する2つの判断からは、2人は共犯であるという結論が導かれるはずだが、結論について多数決をとると共犯ではないとの結論が出る。理由と結論とが不整合を起こす。 法理のパラドックスとも呼ばれるのは、次のような設例によって説明されることがしばしばあるからである。1人の被告人について、3人の裁判官が、次のような判断を下したとしよう。 犯罪を実行したか? 違法性は阻却されるか? 有罪か? 裁判官A Yes No Yes 裁判官B Yes Yes No 裁判官C No No No 個別の論点について多数決をとると、犯罪を実行したことになり、違法性は阻却されない。したがって、被告人は有罪となる。しかし、結論について多数決をとると、被告人は無罪となる。
理由について多数決をとり、その積み重ねで結論を導くべきか、それとも結論についてまず多数決をとるべきか、学説は分かれている。平野龍一はポワッソンのパラドックスの可能性を指摘した上で(「刑事裁判における評決」)、刑事の実体判決では訴因について有罪か無罪かの結論についてまず多数決をとるべきだとする(『刑事訴訟法』272頁)。これに対して、兼子一『裁判法』〔竹下守夫補訂〕は、民事も刑事も「判断過程の論理的順序を追って」理由について多数決をとるべきだとする(262頁)。最高裁判所事務総局総務局編の『裁判所法逐条解説(下)』は、「裁判が主文と理由から構成されていることから考えると、少なくとも、裁判に理由を付するのに必要な限度で、理由についても、評決の対象となると解すべきであろう」とする(87頁)。裁判員制度の立案にあたった司法制度改革推進本部裁判員制度・刑事検討会の審議においてもこの問題が検討され、理由ごとの評決によって運用されるべきだとの方向性が示されている(平成15年3月25日議事録)。 裁判に理由を付する必要がある以上は、判断過程の論理的順序に従った理由ごとの評決が必要だという議論は、なるほどという感じがしないでもないが、結局のところこれは、ポワッソンのパラドックスの可能性に目をつぶろうとしていることにならないであろうか。パラドックスの存在自体は、否定のしようがないのに。兼子一は、理由の積み重ねによって導かれる合議体の結論が各裁判官の個人的な結論の集計とは異なる場合が生じることを認めつつ、「合議体という機構による主観的人格的要素の捨象に基づくもので、奇とするに足りない」と述べるが(前掲書263頁)、パラドックスには目をつぶるという自分の立場をただ繰り返しているだけのようにも思える。理由に関する判断を積み重ねることで、少数派しか賛成していない結論を是認することは、多数派の賛成する結論から逆算して理由に関する判断に再考を加えるより、明らかにすぐれているといえるだろうか。 兼子一の主張と似ているが、ポワッソンのパラドックスの存在は、団体にメンバーとは独立した人格があることの証拠だとする議論もある(Christian List and Philip Pettit, Group Agency: The Possibility, Design, and Status of Corporate Agency (Oxford University Press, 2011), p. 58)。不思議な議論である。不合理な意思決定をする個人は、そのことで二重人格だということになるわけではないだろう。理由と結論に不整合があるからといって、団体に独立した人格があることになるだろうか。逆にいうと、理由と結論が整合していれば団体の人格は否定され、整合していないときだけ独立の人格が出現するのだろうか。人格の有無に関するこの議論は、パラドックスの存在を言い換えているだけのように思われる。 ポワッソンのパラドックスは裁判の場面でだけ発生するわけではない。ヤン・エルスターは、株式会社の取締役会で、ある投資案件に3人の取締役がどのような判断を下すかという設例を示す(Jon Elster, Securities Against Misrule: Juries, Assemblies, Elections (Cambridge University Press, 2013), p. 64)。投資が成功するか否かは、期待される収入を現在価値に割り引いた額(A)から投資額(B)を差し引いた利潤(C)がプラスかマイナスかで判断される。3人の取締役(結衣、真央、樹里)がそれぞれについて次のように判断しているとしよう。なお、取締役会としての結論は、取締役の判断の中央値(median)をとるものとする。 A B C 結衣 10 8 2 真央 10 11 -1 樹里 13 12 1 取締役会 10 11 1 ご覧の通りで、利潤の現在値(C)に関する取締役会としての結論(中央値)は1であり、投資すべきだということになるが、A、Bそれぞれの中央値は10と11であり、そこから導かれる利潤の現在値は-1となる。取締役会は決議に理由を付す必要はないかも知れないが、議事録は作成する必要がある(会社法369条3項)。各取締役の見解と決議との不整合を説明する責任を求められないだろうか。 エルスターは別の例(判断の多数決ではなく、選好の多数決の例)として、1789年のフランス国民議会(制憲議会)での一院制か二院制かの選択をとりあげる(op.cit., p. 65)。国民議会内部は大雑把に言って、ほぼ同数の3つのブロックに分かれていた。反動派、穏健派、急進派である。反動派は政治体制を不安定化させることで絶対王政を復活させようとしている。穏健派は立法府を抑制することで安定した立憲王政を確立しようとしている。急進派は立法府への抑制の少ない立憲王政を確立しようとしている。反動派と穏健派は、二院制は体制を安定させると考えるが、急進派は、二院制は両院の抗争をもたらし、体制を不安定化させると考える。各論点と結論に関する3派の選好は次の通りである。 基本的選好 二院制への見方 制度の選好 反動派 不安定化 二院制は体制を安定させる 一院制 穏健派 安定化 二院制は体制を安定させる 二院制 急進派 安定化 二院制は体制を不安定化させる 一院制 結果として、反動派と急進派とが一院制を選好し、二院制は否定された。ありそうもない話ではあるが、基本的選好と二院制への見方について多数決をとれば、制度の安定化と二院制は体制を安定させるという結論が得られ、そこから論理的に、二院制が採択されることとなったはずである。 ポワッソンのパラドックスは、集合的理性への信頼を揺るがす。その点では、選好の集積が多数派の循環をもたらすコンドルセのパラドックスより深刻である。しかもこのパラドックスは、容易に発生する。ワイマール共和国やフランス第4共和政のように、反体制派が結託する病理的状況においてのみ発生するわけではない。ポワッソンのパラドックスは、われわれの生きるこの世界の不可避の構成要素である。目をつぶれば存在しなくなるわけではない。 以上のような考察は、狭い意味での憲法学にとっても含意を有する。現在の判例・通説は、日本国憲法下の違憲審査は付随的違憲審査であり、裁判所は、具体的な事件の解決に必要な限りで違憲判断を下すものと考えられている。違憲判断は裁判の結論ではなく、前提問題である。 しかし、合議体の裁判では、法令が違憲だとする合議体の多数派と、事件の結論に関する多数派とが一致する保証はない。そのとき、必ずポワッソンのパラドックスが発生しているわけではない(発生しているかも知れないが)。しかし、違憲だとする多数派と結論に関する多数派とが食い違っているとき、結論から逆算して、合憲・違憲の判断が再考されてはいないだろうか。それがつねに不適切だというわけではないが、その可能性には注意すべきように思われる。 関連して裁判所法10条は、最高裁が「法律、命令、規則又は処分が憲法に適合」しないと認めるとき、つまり違憲判断を下すときは、大法廷で事件を取り扱う必要があるとする。違憲判断が下された数少ない従来の先例を見ると、いずれの裁判においても、主文で示される事件の最終的な処理(上告を棄却するか、事件を原審に差し戻すか等)に関する8人以上の多数派の意見の中で、違憲判断が示されている。 しかし、繰り返しになるが、ある国家行為が違憲か否かに関する多数派と主文の内容に関する多数派とが食い違いを起こす可能性は否定できない。とすると、事件の最終的な処理に関する結論について多数派が構成された場合にのみ、しかもその多数派の意見の中においてのみ、憲法判断が示されるべきだと考えるべき根拠はあるだろうか。事件について異なる結論をとる裁判官の間でも、ある法令が違憲だという点については、8人以上の多数派が形成されることもあるはずである。 実際、最高裁判所裁判事務取扱規則9条3項後段は、小法廷から大法廷に審理が移された際、問題となる国家行為が違憲か否かに関してのみ審理及び裁判をすることを妨げないとし、その場合、その他の点については(主文の内容を含めて)小法廷で審理及び裁判をすると定めている。こうした処理をすれば、大法廷内部における憲法問題と結論とでの多数派の食い違いの表面化を回避することはできる。それ(だけ)が目的の規定であるか否かは別として。 以上のような諸点を考慮すると、下級審の裁判所で新たな憲法問題が具体的事件解決の前提問題として浮上したとき、その論点についてのみ最高裁に移送して判断を仰ぐ制度を設営することも、十分に考慮に値するように思われる。具体的事件の結論に関する多数派と違憲判断に関する多数派とを必ずリンクさせなければならないわけではない。 具体的事件の解決に必要な限り、といわれる場合の「必要」性の内容と程度については、もう少し詰めて考える必要がありそうである。 *本稿の作成にあたっては、井上正仁、酒巻匡および長谷部由起子の3教授から甚大なるご教示を得た。ここに記して謝意を表する次第である。なお残るであろう誤りの責任は、誤りなく筆者にある。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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