宮沢俊義が提唱した八月革命説は、日本国憲法の前文冒頭の言明である「日本国民は・・・・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と、憲法に先立つ天皇の上諭である「朕は・・・・・・枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」との間にある亀裂から出発する。 上諭は、新憲法が大日本帝国憲法の「改正」として成立したことを宣言している。その帝国憲法は天皇に主権があることを根本原理としていた。ところが、新憲法は、前文で主権が国民に存することを「宣言」している。憲法の根本原理を「改正」することができるものであろうか。また、上諭はあくまで天皇が旧憲法の手続に従って憲法を改正した結果を公布するとしているのに対し、前文は、国民が「この憲法を確定する」と述べている。憲法制定権力は、天皇と国民のいずれにあるのだろうか。 八月革命説は、こうした疑問を解消してくれる(と主張する)。実は、主権=憲法制定権力は、日本政府がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日に、天皇から国民へと移行した。こうした移行を法的に筋が通った形で説明することは不可能である。主権者たる天皇が「これからは国民主権だということにしよう」と決めたから、主権が国民に移ったのだとすると、天皇が考え直せば、主権はまた天皇に逆戻りすることになる。そんなことは、ありそうもない。つまりこの主権の移行は、法的な意味の革命である。憲法の根本原理が変動したのだ。 この時点で、大日本帝国憲法の内容も、劇的に変容した。国民主権原理と矛盾・抵触する部分は、その効力を失った。したがって、日本国憲法の上諭を述べている天皇は、もはや主権者としての天皇ではない。国民主権に立脚する憲法によって権限を与えられた、単なる国家機関としての天皇である。そして、劇的な変容を被った旧憲法と現憲法とは、法的に連続している。国民主権原理に基づく変容後の旧憲法の「改正」として、現憲法は成立している。そこに不思議はない。 目からうろこが落ちるような見事な論理である。たいていの人は(私もそうだったが)納得してしまう。その後は、この学説の身分は何か、それは認識なのか解釈論なのか。さらに、この学説の前提は何か、国際法優位説が前提なのか等々の議論が続いている。 とはいえ、八月革命説が隅から隅まで納得のいく議論かと言うと、そうでもないだろう。たとえば、そこで問題とされている「主権」とは何だろうか。 宮沢も含めて、彼以降の憲法の教科書では、主権には3種の意味があると説明されている。第1に、国家権力の最高性・独立性という意味。第2に、国家権力(統治権)という意味。第3に、国の政治のあり方を最終的に決定する権威または力、という意味で使われることがある。国民主権か君主主権かが問われるときは、第3の意味で主権ということばが使われているとされる(宮沢俊義『憲法』〔改訂5版〕(有斐閣、1980)7-8頁)。
こうした主権ということばの用法の説明は、美濃部達吉に遡ることができる。『憲法撮要』〔改訂5版〕(有斐閣、1932)41頁以下で美濃部は、「第一の意義に於ては主権は最高又は独立の意に用いらる」、「第二の意義に於ては主権は国家の意思力の意に用いらる」、「第三の意義に於ては主権は統治権の意に用いらる」、「第四の意義に於ては国家の最高機関意思の意に用いらる」とする(漢字・かなの旧字体を改めている)。 現在の憲法学で言われている主権の第3の意味は、美濃部の言う第4の「最高機関意思」に対応する(美濃部の言う第2の意義は、現在の憲法学界ではほとんど議論されることがない)。美濃部によると、「君主又は国民が主権を有すと曰ふは国家内に於て国家の意思を決定すべき最高の原動力が君主又は国民に発することを意味す」。そして、この最高の機関意思は、必ずしも単一の機関から発するとは限らない。「二以上の機関意思が相結合して始めて国家の最高意思を構成するものとするも、敢て国家意思の統一を妨ぐるものに非ず」(『憲法撮要』44頁)とされる。 さて、国民主権とか君主主権とかと言われるときの主権が、美濃部の言う最高機関意思なのであれば、その所在の変更は、必ずしも法的に説明のつかない変動、つまり法的革命を意味しない。美濃部が例として挙げる、複数の機関の結合によって最高意思が構成される場合を考えてみよう。現在の日本国憲法96条によると、憲法改正は、衆参両院と有権者団の意思が結合してなされる。この構成に変動があったとしよう。たとえば(考えにくいことではあるが)衆参それぞれの総議員の3分の2の賛成だけで憲法が改正されることになったとすれば、最高意思機関の構成は変動する。しかし、これは革命であろうか。また、フランス第5共和政憲法のように、上下両院の決議と両院合同会議の決議を通じて憲法改正がなされる場合と、上下両院の決議と国民投票とで憲法改正がなされる場合という、二つの改正手続を想定している憲法がある(同憲法89条)。この場合、いずれの手続がとられるかによって、最高意思機関の構成が変動することになるが、その度に革命が起こっているわけではないであろう。 こうした観察は、誤った前提に基づいているのだろうか。つまり、憲法改正機関は、国家の最高意思決定機関ではないのだろうか。最高法規である憲法の内容を変動させることのできる改正機関は、いかにも最高機関のように思えるのだが、今も見たように、その構成内容が変動したからといって、革命が発生したとは言いにくいようである。 とすると、八月革命説の言う「主権」とは、実は「最高機関意思」、つまり国政のあり方を最終的に決定する権威という意味のそれではないのだろうか。あるいは(言い方を変えるなら)「国政のあり方を最終的に決定する」と言われるとき、それは、美濃部憲法学の枠内における「国家内に於て国家の意思を決定すべき最高の原動力」とは、同じように見えながら質的に異なっているのだろうか。 美濃部は、主権ということばが「種々の意義に混用」され、そのために「多くの誤解の源」となってきたことに注意を促している(『憲法撮要』43頁)。その典型例は、「主権を以て君主の統治の権能の意に解し、君主が無制限なる統治の権能を有するもの」とする「甚しき誤謬」である(『憲法撮要』44頁)。そもそも、国家の統治権自体、さまざまな制限に服していて無制限ではない。しかも、君主に属するのはせいぜい国の最高機関として意思を表明する権限にすぎず、国家の統治権そのものではない。君主が無制限な統治の権能を有するという言明は、二重の意味で誤謬である。 ここで美濃部が誤謬だと言っているのは、実は大日本帝国憲法4条に示された天皇主権原理である。ヨーロッパで君主制原理(monarchisches Prinzip)と言われていたものを井上毅が憲法の条文に採り入れたものである(この点については、さしあたり拙著『憲法の論理』(有斐閣、2017)第14章参照)。全統治権は、本来的に君主(天皇)が掌握している。しかし、その統治権を君主が行使するにあたっては、君主自らが定めた憲法の条項に従うという考え方である。4条は「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ」とする。憲法典以前に、それに先立って、統治権を掌握する君主が存在する。その君主が定めたものであるから、明治憲法は日本の憲法典たり得る。憲法制定権力は本来的に天皇に帰属し、帰属し続ける。 この4条の条文およびその背後に控える君主制原理(天皇主権原理)を額面通りに受け取れば、天皇に属するのは統治権そのものであって、最高機関意思にはとどまらない。だとすると、美濃部の主張は誤りではないか。「或は曰く、我が憲法は大日本帝国は天皇之を統治すと定む、天皇が統治権を保有することは憲法の明に定むる所なり」(『憲法撮要』23頁)というわけである。しかし美濃部は怯まない。「法律学上の観念としては、国家は一の法人」(『憲法撮要』21頁)という国家法人理論なくしては、国家の法的把握はそもそも不可能だからである。「憲法の文字に依りて国家の本質に関する学問上の観念を求めんとするが如きは憲法の本義を解せざるものなり」(『憲法撮要』23頁)と断言して憚らない。 美濃部の立場からすれば、統治権を有するのは国家という団体(法人)である。天皇も議会と同様、団体の定款にあたる憲法によって与えられた権限のみを行使し得る機関にすぎない。せいぜいのところ、最高機関だというだけである。法主体たる国家とその機関の関係や機関相互の関係、つまり国家法人理論に還元して理解することのできない概念や条文は、それがたとえ憲法典に現れたとしても、「政治的」なものにすぎない(「政治的」ということばは「法学と関わりのない」という侮蔑的な意味合いで使われている)。 さて、国家法人理論は、戦後の憲法学界では、概して評判がよくない。それは、「君主主権か国民主権かという近代憲法が直面した本質的問題を回避しようとした。それは急激な民主化を好まない19世紀ドイツの立憲君主制に見合った理論であった」とされ(芦部信喜『憲法』〔第6版〕高橋和之補訂(岩波書店、2015)41頁)、今ではその歴史的使命を終えたかのように描かれる。 国家法人理論が、主権の帰属に関する本質的問題を回避しようとした過渡期におけるイデオロギーにすぎないという否定的評価は、美濃部の学説を日本の国体に反するとして攻撃した上杉愼吉も、これを共有していた。上杉によれば、国家法人説がドイツで発達した理由は、「国王の統治権者なることを否定するも、人民が主権者なりと断言することを得ざる種々の事情あり、憲法は尚ほ国王を統治権の負担者なり、国権を一身に集結すと云ひ、尚ほ之を主権者と称すること行はる」。「されは国家法人説は、積極的に国家なる法人ありとするよりも、寧ろ消極的に国王のもはや統治権者に非さることを説明せんとするの学説たるに過きす」というわけである(上杉愼吉『新稿憲法述義』〔増補改訂〕(有斐閣、1925)105-07頁)。 天皇から国民へと主権が革命的に移行したと言われるとき、そこでの主権は、憲法典以前の存在として憲法を制定する権力を保有する(つまり全統治権を本来的に掌握する)者が誰かが変動したということである。そうした変動が起こったからこその革命である。しかしそこで言われている主権は、美濃部の言う「最高機関意思」とは別ものである。国家内部の最高機関の構成や所在が変化したというわけではない。そして、美濃部に言わせれば、こうした「主権」概念の使い方は、法学的に言えば甚だしい誤謬であり、「政治的」意味合いのみを有する。近代ドイツ公法理論の祖であるゲルバーも、「君主主権、人民主権、国民主権といったことばは、多様な政治運動のスローガンにすぎない」と述べる(Carl Friedrich von Gerber, Grundzüge des deutschen Staatsrechts, 3rd ed. (Bernhard Tauchnitz, 1880), p. 22, note 5)。少なくとも、美濃部の言い回しに即して主権者の変動を描くことには、注意が必要だということになる。 他方で、宮沢は国家法人理論を放棄したわけではない。彼は国家法人理論が持つ意義を、法的なそれと政治的なそれに区分する。政治的な意義は、上杉も指摘し、現在の憲法学説が広く共有するかつてのイデオロギー的な意義である。それとは別に法的意義がある。とくに本質概念として法人格、「法規範の統一的複合体」としての法秩序を省略的に示す意味での法人格は、国家に「概念必然的に伴う」(『憲法』4頁)。いかにもケルゼニアン流の説明ではあるが、そこで述べられている限りでの議論の実質は、美濃部とも、そして美濃部に強い影響を与えたゲオルク・イェリネクの学説とも共通している(もっとも、イェリネクや美濃部と異なり、宮澤=ケルゼンの法人イメージでは、国家目的論がくり抜かれているが)。国家法人理論の視点からすれば、国家の誕生は法学的な問題ではない。歴史学か政治学かはともかく、法律学以外の学問が扱うべき問題である(この点については、さしあたり、前掲・拙著184-85頁参照)。 宮沢の提唱する八月革命説は法学理論なのか、それとも法学外の政治的意味合いを持つにとどまるものであろうか。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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