前回ご紹介した『論集 蓮實重彦』の編者である工藤庸子さんは、当サイトで「人文学の遠めがね」を連載中です。その第11、12回、13回の3回に分けて「大江健三郎と女性」と題した論考を寄せてくださいました。
11. 大江健三郎と女性(1)──contemporaineであるということ 12. 大江健三郎と女性(2)── 政治少年のéjaculation 13. 大江健三郎と女性(3)──「全小説」とfictionとしての「小説家」」 第11回の冒頭を少し引用します。 フローベールを語らずしてフランス第二帝政を語れるか。プルーストやコレットぬきで第三共和政を描けるか。ウルフを視野に入れずに女性と文学という主題に接近できるのか。だとしたら? そう、大江健三郎を恭しく棚上げにしたまま、日本の戦後を展望できるはずはありません。昭和と平成を束にして生きぬいた作家の「全小説」の刊行が、この7月に始まり、元号の改まった年の秋に完結するとのこと(元号などは無意味な作為だと切って捨てられぬ精神風土や論争が、じっさい日本にはあるのだから、なおのこと)。『読売新聞』はじめ大手日刊紙が著名な作家や評論家のエッセイを掲載し、『群像』8月号には「筒井康隆×蓮實重彦対談」が組まれています。この対談で提示されたキーワード「同時代人」を手掛かりにしたいと思うのですけれど‥‥‥。 とはいえ「あなたは大江健三郎の同時代人ですか?」という問いが、わたしに向けて発されることは、およそ想像すらできません。大江健三郎と対談参加者、これら御三方はほぼ同年齢。それより10歳近く年下ではあるものの、ここで年齢差は理由ではなくて、そもそも「同時代」などという大仰なものについて女性が真剣に考え語ることは、絶対的に期待されない社会の片隅で、昔のわたしは生き始めたという自覚があるためでしょう。 「あなたは大江健三郎のcontemporaineですか?」という問いであれば、話は別、という気がします。わたしにとって外国語の語彙を習得することは、日本社会の厳めしさ、居心地の悪さからの脱出であり、解放の経験でもありました。contemporaineというのはプルースト『失われた時を求めて』からの借用です。(‥‥‥) 「大江健三郎と女性」というテーマで読み解く刺激的な大江論。つづきはぜひ連載ページをお読みください。また、冒頭取り上げられている『群像』8月号に掲載された「筒井康隆×蓮實重彦対談」は歴史的かつ貴重な対談です。こちらもぜひ! コメントの受け付けは終了しました。
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