フローベールを語らずしてフランス第二帝政を語れるか。プルーストやコレットぬきで第三共和政を描けるか。ウルフを視野に入れずに女性と文学という主題に接近できるのか。だとしたら? そう、大江健三郎を恭しく棚上げにしたまま、日本の戦後を展望できるはずはありません。昭和と平成を束にして生きぬいた作家の「全小説」の刊行が、この7月に始まり、元号の改まった年の秋に完結するとのこと(元号などは無意味な作為だと切って捨てられぬ精神風土や論争が、じっさい日本にはあるのだから、なおのこと)。『読売新聞』はじめ大手日刊紙が著名な作家や評論家のエッセイを掲載し、『群像』8月号には「筒井康隆×蓮實重彦対談」が組まれています。この対談で提示されたキーワード「同時代人」を手掛かりにしたいと思うのですけれど‥‥‥。 とはいえ「あなたは大江健三郎の同時代人ですか?」という問いが、わたしに向けて発されることは、およそ想像すらできません。大江健三郎と対談参加者、これら御三方はほぼ同年齢。それより10歳近く年下ではあるものの、ここで年齢差は理由ではなくて、そもそも「同時代」などという大仰なものについて女性が真剣に考え語ることは、絶対的に期待されない社会の片隅で、昔のわたしは生き始めたという自覚があるためでしょう。 「あなたは大江健三郎のcontemporaineですか?」という問いであれば、話は別、という気がします。わたしにとって外国語の語彙を習得することは、日本社会の厳めしさ、居心地の悪さからの脱出であり、解放の経験でもありました。contemporaineというのはプルースト『失われた時を求めて』からの借用です。社交界の花形ゲルマント公爵夫人(その頃の名はレ・ローム大公夫人)が、ある席で初々しい女性のごく自然な仕草が不意に男たちの好感を呼びさましたのを見て、あの方、わたくしのcontemporaineじゃないわね、と言う。本物の社交界で訓練された身体ではない、深読みすれば「生き方のスタイル」を分かち合えないというぐらいの、ちょっと意地悪な台詞です。ちなみに年齢差への仄めかしと見えるのは、ややコケティッシュな言葉の運用に過ぎなくて、ゲルマント公爵夫人は自分のほうが年寄りだと言うつもりは毛頭ない。だいいち人類の歴史から見れば、10年か20年前であろうと2世紀まえであろうと、時の長短などは決定的な差異ではないはずです。つまり、ナポレオンと闘うスタール夫人をわたしがcontemporaineであると感じても、一向にさしつかえない。それゆえ年齢差とは別種の問いとして、あらためて「わたしは大江健三郎のcontemporaineであると感じるか」と自問してみます。ひとまず率直に答えるとすれば、かつてはNon! であった、今ならOui! ということになりそうです。この先はやや具体的な回想を。 1960年代半ばに東大の仏文に在籍する者が、大江健三郎の愛読者でないということはありえませんでした。本郷キャンパスの医学部から弥生門にかけて、通行人もまばらな辺りでは、しかるべき時刻に犬の吠え声が陰気に響くはずであり、夕暮れ時の病院施設では人目もはばかるアルコール漬けの遺体の移動作業が……なんて夢想に浸されることなく文学部に進学した者はいないでしょう。「奇妙な仕事」「死者の奢り」などの短篇や『芽むしり仔撃ち』『性的人間』そして『個人的な体験』までが60年代の前半に出揃っている。強烈な熱風のようなものを肌で感じて刺戟を受けとめたという記憶もあるけれど、それにしてもジェイン・オースティンやブロンテ姉妹に育てられたフツウの文学少女が、読んだふりをして読み飛ばしたページは少なくなかったにちがいない。つまり20代のわたしは、断じてこの小説家を「身近」な存在と感じてはいなかった。もし、あの頃に「セヴンティーン」を読んだとしたら‥‥‥、大江健三郎を嫌いになっていたかもしれない、とすら今は思うのですが、この話題は次回にゆっくりと。 その後、わたしは横文字の世界に脱出し、かぎられた時間をどこに投入するかという切羽詰まった暮らしでしたから、日本語の小説や評論にじっくり親しむことはありませんでした。したがって、自分が大江文学のよい読者だと思ったことはなく、読んだはずの作品も、未消化のまま記憶があいまいになっている。ところが、いつ頃からか、多少は生活にもゆとりができて、いわば大江文学の再発見のような体験をすることになりました。それが、今ならOui!と答えるだろうという意味であり、とりわけ2013年の『晩年様式集』(イン・レイト・スタイル)は――「おそらく最後の小説」と帯の冒頭に記されたものですが――ほとんど戸惑いに似た、言いようのない「親(ちかし)さ」の感情を覚えて読みおえました。 ところで、いただいた御本に肉筆のお礼状を書くためにパソコンで下書きをするという恥ずかしい習慣は、ペンを握るのが身体的につらくなった時期から身についたものですが、おかげで読みおえた時点での率直な印象を正確に思い出すことができる。『晩年様式集』の作者に宛てた手紙から、小説の感想のような文章を、ほぼそのまま引用してみます。 〔‥‥‥〕翻訳が出たばかりのル・クレジオ(*1) などを読んでも感じるところですが、複数の語り手が交替する「ポリフォニック」な物語は、近代ヨーロッパの「三人称小説」を解体するための挑戦という段階を過ぎて、今や、ある種のトレンドになりつつあると思われます。そうしたなかで『イン・レイト・スタイル』は希有な輝きを放つ、なぜなら、ここでは小説家が生涯の文筆活動を批判的に俯瞰するという作品創造の野心とその「スタイル」とが、一方なくして他方がなり立たぬような本質的な力によって結ばれているから、と感じ入りました。タイトルの示唆する「様式」とは、フローベールが云うところの「内容と不可分なスタイル」であって、たんなる「意匠=外観のデザイン」ではない、と云い換えることもできましょう。
複数の語り手を設定するのであれば、そのなかに「女たちの声」を導入することは、これも時代のトレンドかもしれません。それはそれとして、ここでは小説家の「晩年」に至るまでの時間を批判的に、そして時には攻撃的に再構築してみせるという役割が、もっぱら女性たちに割り当てられています。それらの「声」は痛切であるだけでなく、それぞれの場面で発された言葉として味わえば、モリエール的な喜劇の効果も伴っているように思われます。 プルーストの作品に見られるのは、書かれるべき書物を模索する過程がそのまま書物になるという不思議な構造です。ここでは生成しつつある小説の原稿を読んだ女性たちの肉声を文字化するプロセス(それ自体フィクションの内部にある運動)が、作品の新たな生成を援けています。Work-in-progressと呼ぶのは不正確かもしれませんけれど、これは小説の歴史に前例のない「様式」ではないかという気もいたします。 ここでわたしは言葉に窮し、唐突に手紙を終わりにしたのだと思う。「小説家」の妻・妹・娘である「三人の女たち」に、それぞれニュアンスの異なる共感を――先ほど定義した言葉によればcontemporaineとしての親さを――無条件に覚えてしまったことは確か。「大江ワールド」の役者たちが勢ぞろいしたフィクションのなかで、行動においても発言においても能動的なのは、これら三人を中心とする魅力的な「女たち」であり、先行きの見えぬ未来への細い希望を語る長い詩が――自分は十代に書物で出遭った渡辺一夫の「ユマニスム」に、残された月日を賭けるという老作家の呟きのように――物語の最後をしめくくる。それでいて、世に言う女性の解放やオプティミズムとは全く異質の何か、むしろ何かしら途方もないもの、不穏で、荒々しいものを突きつけられたという読後の印象があった。そして2013年のわたしは、手に負えぬものを前にしたときの一抹の不機嫌さとともに、サイン入りの貴重な『晩年様式集』を書棚に収めたのでした。 わたしは今、その『晩年様式集』を読みなおし、5年前の「印象」を反芻しています。作者への手紙にも書いたように、21世紀においてポリフォニックな形式は、それ自体としては安易なアリバイのように採用されていることも少なくない(19世紀の三人称小説における「父権的な語り手」への批判とか、その超克とか)。一方、雑誌『群像』にほぼ1年半にわたって連載されたこの「小説」では、「前口上として」と題された幕開けの短文が、世にも不思議な構想を披露する。「小説家」がみずから書きつないでゆく原稿に加え、複数の書き手が参加する私家版の「雑誌」として、このテクストは生成するという。じじつフィクションのなかで「三人の女たち」は「小説家」と同等の権利=権威をもって『「晩年様式集」+α』と呼ばれる媒体の「原稿」を書いている。しかも彼女たちは、かなり攻撃的な批評家としてふるまい、エライ「小説家」の人生に――パパは抑圧的だとか――遠慮なく口出しもする(女性読者としては、なかなか痛快)。 今、あらためて感じるのですが、近代ヨーロッパで誕生して2世紀の伝統をもち、良くも悪くもその権力的な秩序を刻印された「小説」という様式そのものを、『晩年様式集』の作者は安住できる場とは考えない。むしろ距離を置き、対象化してみせて、そこから生じる形式的な斬新さが、「レイト・スタイル」と呼ばれるものの特質となってゆく。対話や電話の採録というかたちも多く、聡明な女性たちの「口語的」な文体が(言語的な性差が著しい日本語の近代小説において権威ある伝統とみなされてきた)男性的な「文語体」を、着々と、たくましく侵食する。「雑誌」という設定の複合的なテクストに、インタビューという肉声の営みが導入される。原稿や手紙を書くこと、話すこと、書かれた文字を朗読すること、録音すること、録音を聴き、さらに文字化すること‥‥‥インタビュアの第一言語は英語なので、翻訳論の実践のような場面もある。このあたりの複雑きわまる仕掛けは「メディア論」的に分析したら面白いにちがいない。 このような捉え方と無縁ではない第二の論点は「不穏で、荒々しいもの」という特質にかかわります。『晩年様式集』は「三・一一」の翌年1月から現実の「雑誌」である『群像』での連載が始まり、2013年10月に単行本として刊行されました。フィクションの冒頭ページは、余震のなかで書き始められた「小説家」の日記という設定なのですから、日々の時間が東日本大震災と福島の原発事故という極限的な不安と脅威を孕んでいるのは当然といえば当然です。しかも、この「後期高齢者」の「小説家」は気を失うほどに疲労困憊しながらも、「原発ゼロ」の市民運動に参加する気力を物語の最後まで失わない。 後半の大きな出来事として、アメリカ育ちの日本人であり「小説家」と深い因縁をもつインタビュアが来日し、「カタストロフィー」という言葉をかかげて「小説家」に応答を求めます。この「カタストロフィー」という言葉こそ、大江健三郎の「おそらく最後の小説」とされる『晩年様式集』In late styleが、エドワード・W・サイードの遺著『晩年の様式』(*2) On late styleへの応答であることを示すキーワードであるはずです。人類の終末を予感させる原子力の災厄と目前に迫る自分自身の死が――わたし自身もその感覚を分かち合う年齢には達していますから――ひとまず「カタストロフィー」という概念で括られる。これは納得しやすい話だけれど、ただし、それだけではありません。 サイードのいうlate styleは、功成り名を遂げた著名人の静謐な晩年というイメージから限りなく遠い。ベートーヴェンの晩年の作品は「エグザイル(故国喪失者、亡命者)の形式」を構成するという指摘(『晩年の様式』で導入として紹介されるアドルノの議論)はその一例ですが、前提となるのは「作曲家が既存の社会秩序とのコミュニケーションを断ち、体制とのあいだに矛盾にみちた疎外関係」が生じたという状況であるらしい。これを考えるヒントにするならば、大江的なlate styleが円熟の境地でもなく、老いの諦念でもなく、技巧や形式の完成を仄めかすのでもないことは明らかです。この「様式」は本質において不穏であり、既存の秩序の外に出て、体制を侵食する破壊的な力を宿している。わたしが思いおこすのはジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やフローベールの『ブヴァールとペキュシェ』など。これらはサイードの著作で検討される対象ではないし、安易な比較は禁物だけれど、要するに、これは「小説」なのですか? と問いたくなるような、読み手を困惑させるほどのテクスト的な力業。以上の点を、ここで強く主張しておきたいと思います。 『晩年様式集』の冒頭近く「パパがウーウー泣いていました! どうしたのでしょうか?」という息子の的確な言葉によって報告される「小説家」の生身の姿は、一見したところ、弱々しい老作家のそれのようでもある。その一方で、濃密な言葉によって「エグザイルの形式」に造形された「小説」のテクストは、途方もない気迫と「カタストロフィー」を直視する気概を内に秘めている。これが5 年前にわたしが感じた戸惑いと「手に負えぬもの」の正体であるような気がします。 ところで『群像』8月号の「筒井康隆×蓮實重彦対談」のキーワードに立ち返るなら、大江健三郎の「同時代人」であるとみずから名乗りを上げるためには、今ここで『晩年様式集』にcontemporaineの共感を覚えたと表明しただけでは足りない。半世紀の時間をさかのぼり、惹かれつつ疎外感を覚えた初期の作品群を読み直し、もちろん中期や後記の作品も手に取って、そのうえで戦後文学をひとつの「持続」として捉えなければならない! そんなことゼッタイ無理に決まってる!と内心で叫び、それはそれとして、春の終わりに初めて読んで言葉にすることが困難な衝撃を受けた「セヴンティーン」(*3) につづき、その後半を読むべく、7月に刊行された『大江健三郎全小説 第3巻』を購入し、幻の「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を夏の読書の事始めとした次第です。 *1 ル・クレジオ『隔離の島』中地義和訳、筑摩書房、2013年 *2 エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』大橋洋一訳、岩波書店、2007年 *3 『大江健三郎 自選短篇』岩波文庫、2014 コメントの受け付けは終了しました。
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Author工藤庸子 Archives
12月 2018
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