ジャンヌ・モロー主演、ルイス・ブニュエル監督『小間使いの日記』の一場面。女物のブーツをフェティッシュとして愛玩する富豪の老人が、雇い入れたばかりの美しい娘に「セレスティーヌか、素敵な名前だ‥‥‥ところでマリーと呼んでもかまわないかね‥‥‥」としつこく迫る。当のセレスティーヌは、雇い主の連中はなぜか決して使用人を本名で呼ばないという妙な癖をもっている、あたしなんか、ありとあらゆる聖女さまの名前で呼ばれてきたんだからね、とむかっ腹を立てる――原作のオクダーヴ・ミルボーの小説にしかない内面の台詞だけれど、ジャンヌ・モローの顔にちゃんとそう書いてある。伝統的な社会において、使用人は適当に、勝手な思いつきのファーストネームを押しつけられ、姓はもたぬかのように扱われたのであり、セレスティーヌ・R嬢がつかいそうな語彙ではないけれど、これは個人の「尊厳」にかかわる問題です。 ところでブルジョワ階級の既婚女性の姓と名の関係はきわめて複雑であり、ヨーロッパ近代小説を読んできた者としては一冊の本が書けるぐらいのネタはありますが、皮切りの話題は、既婚男性の姓と名の関係から――と言っただけで、多くの方が思い当たるはず。ひと月ほど前(2017年1月9日)のことですが、日本人同士の結婚で、夫婦別姓を選択できないことは憲法違反だとして、国に1人あたり55万円の損害賠償を求め、東京地裁に訴状が提出されました。大きな反響を呼んでいる理由の一つは、原告が男性であったから。つまり、この不意打ちの意外性が図らずも、不利益を被るのは女性であるという大方の人が黙認する了解そのものを改めて露呈させたから。もう一つ興味深いのは、夫婦同姓は「女性差別ではない」(?!)とした2015年12月の最高裁判決を覆すという勝算の少ない闘いはやらぬという原告側の戦略です。日本人と外国人が結婚する場合には別姓にすることができるのだから、日本人同士の結婚について同じことが許されないのは、法の下の平等に違反するという主張。「民法750条」は憲法で保障された権利・自由を侵害するという前回の主張と異なり、「戸籍法」の矛盾を突くというわけ。なるほど、法廷闘争というのは、そんなふうにやるものなのですね。ご健闘を祈ります。 じっさい姓名の問題は、原初において「戸籍」の問題でありました。フランスでいえばカトリック教会が洗礼の台帳によって人の生死や婚姻を管理していたアンシャン・レジームが革命によって崩壊し、世俗化された国家に国民生活の管理権が託されたとき、近代の「市民社会」が「戸籍」とともに誕生した。ひとまずこの大ざっぱな見取り図を提示したうえで、既婚女性の姓と名の関係に話は戻ります。 「エンマ・ボヴァリー」という女性は『ボヴァリー夫人』のなかに存在しない、という驚くべき事実を初めて指摘したのは、あの蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房、2014年)でありますが、なるほど作品中には「ボヴァリー夫人」と呼ばれる女性がシャルル・ボヴァリーの母親と初婚・再婚の妻と3人もいる。一方でヒロインは親族からは「エンマ」と呼ばれ、一歩家の外に出れば「ボヴァリー夫人」であって、ただの一度もテクスト上で「エンマ・ボヴァリー」と名指されることはありません。そのような言葉の存在あるいは不在を凝視すべき分析の水準を「テクスト的な現実」と名づけて『「ボヴァリー夫人」論』の議論は展開されてゆく。ただし、わたしの話はここで脱線し―― たぶん生身のエンマは本当に「エンマ・ボヴァリー」と呼ばれたことは一度もなかったのですよ。わたしであれば、家のなかではヨウコ、外ではクドウ夫人(=クドウ某の妻)であって、クドウ・ヨウコとして社会的にフルネームで認知されることはない。19世紀ヨーロッパの既婚女性たちが、おそらく例外なく経験したであろうこの途方もない言語環境を、なんとか説明しようとして、わたしはこう言ってきた――「親密圏」ではファーストネーム、「公共圏」では夫の名、姓と名のあいだには亀裂があって、これは既婚女性が夫の所有物であり、主体として社会的に行動することが想定されていないことの証ではないか、と。
でも、なんだかすっきりしないなあ、と思い暮らしているところで、ハンナ・アーレントの『ラーエル・ファルンハーゲン(*1)』を読みました。文字通り「市民社会」の黎明期、ベルリンでサロンを主宰してロマン主義を牽引した女性の評伝です。タイトルの姓名は「エンマ・ボヴァリー」と構造的に同じですが、ただし、1771年生まれのラーエルがこの姓を名乗るのは43歳のとき。ユダヤ系のレーヴィン家の娘に生まれ、39歳で非ユダヤ的な響きのラーエル・ローベルトに改名、4年後に洗礼を受けてフリーデリーケ・ローベルトになり、この名でファルンハーゲンに嫁ぎ、とりあえず姓名のユダヤ性から脱出したというわけです。じっさいに、親族や友人たちが彼女をどう名指していたかは判然としません。「同化ユダヤ人」として生きるという課題は、著者アーレントも共有していたはずですが、わたしが想像してみたいのは「姓と名」とは要するに何なのか、いかなるインパクトをもつものとして本人や周囲の人に実感されていたのかという話。 そこで「公共圏」と「親密圏」の齟齬という二元論的な解釈はいったん取り下げて、こう考えてみました――ラーエルは「フルネームで社会的に認知されること」を強く願った女性であり、そのような個人的願望と言語的感性において、わたしたちの姉妹である、と。そう確信したのは、大島かおりさんの「訳者あとがき」に、ラーエルは家での集いをサロンではなくGesellschaftと呼んでいる、という指摘があったから。そうでしょう! スタール夫人はラーエルより5歳ほど年長で、パリや旅先のベルリンで同じ時代の空気を吸っていたはずなのですが、やはりサロンではなくsociétéという語を好む。 強調されているのは、来客に提供される「空間」ではなくて、人と人が主体として交わり肉声で語り合う「活動」なのであり、さらにはそこに生じる「社会的なもの」であると思われます。つづいて『人間の条件』を参照し、近代に形成されたという「社会的領域」と古代からの対立概念である「公的領域」vs.「私的領域」にかかわる三点セットの議論を紹介しようなどという野心はありません。それはそれとして、ハンナ・アーレントが国民国家の揺籃期における個人と社会との関係を追体験するために、ひとりの女性に一体化して書いたのが『ラーエル・ファルンハーゲン』であると断言することはできそうです。 さて、そんなことをあれこれ考えながら、要するに「姓と名」が対になって初めて個人が社会的な存在として認知される、「エンマ」と「ボヴァリー」が、あるいはヨウコとクドウがしっかり結びついていないと、いったい誰なのか「社会人」として確定できなくなるわけ、それに成人してからの名前は「選ぶ」ものであって「強制」されるものではない、ましてや現在わが国で許容されている通称と戸籍名の併用なるものが、いかに法的な意味で不安定であり、しかも煩瑣で混乱を招き、物理的・精神的な負担となることか、これはアイデンティティの危機ですよ、現代日本はまるで「姦通小説」の時代のヨーロッパ、やっぱり個人の「尊厳」の問題でしょう、などと支離滅裂なことを呟いておりましたとき、あるトーク・ショーで、ある映画の長い一場面を観てしまいました。 ヒロインは「谷川高子」という名の逞しく美しい港湾労働者。一目ぼれしたひ弱な若社長が、きつく振られた腹いせに、「谷川高子」と記した安っぽい名札を奪って逃げた――それってフェティッシュ? だったら、それこそハンカチとかブーツとか、それらしいものを更衣室で盗むこともできるでしょうが。そこで美しい港湾労働者は、プラスチックの名札なんて、どこかで落としたと思えばいい、とは考えず、奪還するために社長の事務所になぐりこみをかけ、バッタバッタと警備員をなぎ倒し、なぐりつけ、投げ飛ばし、10分もの爽快な乱闘シーンの果てに――その間わたしは、でも、なんで名札なの? なんで? とひたすら焦っていたのだけれど――ついに問題の名札を握りしめたひ弱な若社長を追いつめた。背景は海。 黒沢清監督が東京藝術大学の大学院生たちと一緒に製作した『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』という作品だそうですが、たぶんヒロインの社会的アイデンティティとかいって理屈っぽく小説の分析なんかやってきた人間は、映像の迫力にはまりやすいのでしょうね。谷川高子さんの目の前で、ひ弱な若社長が長い大きな舌を出して白い小さなフルネームの名札をぺろーりと舐める瞬間に、わたしも思わず内心で叫んでおりました――あたしを舐めないでください! *1 ハンナ・アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン――ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』大島かおり訳、みすず書房、1999年 コメントの受け付けは終了しました。
|
Author工藤庸子 Archives
12月 2018
|
Copyright © 羽鳥書店. All Rights Reserved.