若き友人でもあるところの女性編集者と差し向かいで御馳走を食べながら編集会議を兼ねたよもやま話をやっていたときのこと。先回のブログを読んでくれたその人が、働く女性は声が低くなるって、統計的にも証明されていること、ご存じでした? と切り出しました。 あ、それそれ、教えて頂戴。わたし、以前からそう思っていたの。身に覚えがあるんですから。女子大から男ばかりの大学に移って、わたし、確実に声が低くなった。このブログでもどこかに書いたと思うけど(4 性差のゆらぎ)、男性ばかりの会議で初めて女性が無意味ではないことを発言しようとすれば、目に見えぬ小さな衝撃が走る。もちろん居合わせた男たちは、空気が凝固する一瞬の感覚なんか、覚えていませんよ。でも、わたしは、男ばかりの大学に着任してから何年か、いつでも男ばかりの会議に出席していたのだから、発言のコンテンツが無意味な注目を浴びぬようするためには、高い声で逆撫でしないのがいちばん、と思ったのでしょうね、無意識のうちに意識的に、としかいいようがないのだけれど、いつのまにか低い声で話すようになりました。 と、一気にしゃべったところ、その人は自分も声の高さにふと違和感を覚えたことがあると述懐し、要点を以下のように説明してくれました。要するに、日本の女性は「世界一声が高い」のですって! そしてドイツの女性は「声が低くなった」とのこと。周波数でいうと世界標準の男性の声の平均は110Hz、女性は220Hz(その差はほぼ1オクターヴ)だそうですが、ドイツの女性は平均165Hzであると。もっとも低いのは北欧だそうで、おわかりのように厳正な事実として、女性の社会進出と声の低さは連動することが統計的に証明されたことになる。情報源は久保田由希さん(ベルリン在住のフリーライター)のブログ。調査結果が発表されたのは、2018年1月18日の「ターゲス・シュピーゲル」。 それにしても、上記の3つの数字は示唆的です。ドイツ女性の平均は、奇しくも世界の男女の平均になっている‥‥‥。ヨーロッパの安定と世界の平和に貢献する責任があると自覚する女性がEU諸国には多数おり、若々しい中間層がこれを支えていることが、この数字からも実感されるではありませんか。だって、メルケル首相が銀の鈴のような乙女チックな声で、アメリカやロシアの大統領に電話したら、やっぱり笑ってしまうでしょう? 声の周波数を決定する要因がなんであるのか、体型とか、ホルモンとか、諸説あるらしいけれど、わたしとしては――よっぽど時間があれば――性差をめぐる環境の変化と女性の声の関係を本気で歴史的に考察したいところです。 ちなみに、こんな個人的な思い出も――以前に同窓会で昔々おたがいに憎からず思っていた人に何十年ぶりかに会ったところ、その男性は、わたしの声が低くなったと失望の色を露わにした‥‥‥。でもね、あなたの凍結された乙女幻想に応える気は全然ないの、とわたしはすげなく内心でつぶやきました。人生の時は移り、時代も流れ、性差の規範も変化する。女は女らしく、男は男らしく、と説得あるいは強要しながら、性的な差異を極限にまで拡大させ、制度化したのは19世紀ヨーロッパのブルジョワ社会です。公共圏と親密圏での男女の棲み分けが奨励され、男と女の服装や髪形や帽子が徹底的に差異化され、そして男性は100Hz、女性は250Hzでしゃべっていた‥‥‥。 むろん数値は空想だけれど、ありそうな話じゃありません? 最大化された性差を縮小させたという意味で、ドイツ女性の声は立派だと思う。ちなみに、これを「女性の男性化」と捉える向きもあるでしょうけれど、それこそ自分の立ち位置を普遍的な基準とみなす男性中心主義の典型でありましょう。 さて歴史的な考察ということで、ちょうど半世紀前、1968年の前後を後半の話題にしてみます。この時期に「性差をめぐる環境の変化」が世界的なスケールで起きたことはまちがいないのですけれど、随想のきっかけとなったのは、たまたま届けられたボーヴォワールの新刊書、そしていつものように机上にあるアーレント。 『第二の性』? あれは面白くない、昔の本でしょ、と言下に否定的な言葉を返してきたのは、英文科を卒業した長年の友Nさん。たしかにイギリスにはブロンテ姉妹もジェイン・オースティンもいるし、なにしろヴァージニア・ウルフがいるものねえ。フランス20世紀に足跡を残した女性といえば、コレット、ボーヴォワール、そしてシモーヌ・ヴェイユ。思い返せば半世紀前には、ボーヴォワールが圧倒的な存在感を見せ、コレットは大学の研究には値しない作家とみなされていた。そしてボーヴォワールと同世代のシモ-ヌ・ヴェィユが日本の若い男女を惹きつけるようになったのは、むしろ最近のこと。つまり、わたし自身はボーヴォワールを読む世代の仏文卒業生として出発したのであり、「女たちの声」が生涯の研究テーマです、などと公言した以上、そのことを忘れてはいけないという気はするのです。
なんだか屈折した導入になりました。まず以下のことを確認しておきましょう。『第二の性』原典は終戦直後の1949年刊。わたしは学生のとき新潮社の文庫本(生島遼一訳)を読んだわけですが、その後1997年に、旧訳の問題点を指摘し周到な注や用語解説を付した新訳 (*1) が、同じ出版社から堂々たるハードカヴァーで刊行されたとき、これでようやく女性の本が女性のものとなったという感慨を覚えました。1983年に日仏女性資料センター(日仏女性研究会)が設立され、その内部に置かれて「『第二の性』を原文で読み直す会」と命名されることになる活動の、長年にわたる研鑽が実らせた成果です。 だからね、とわたしはここで急に声色を変え、内心でNさんに語りかけます。一冊の本は一冊の本のままに留まることはないと思うの。例外的な「女の声」のプレゼンスが感じられる本には、かならず「女たちの声」が応答する。この本を、自分たちで読み直し、議論し、正しく紹介しましょうよ、という呼びかけが、たとえば『第二の性』をめぐって、大学の周辺でなされたのだと思う。それこそ世界各地の大学の周辺で。 ここで思い出話をひとつ――どこかで話したことがあるけれど、わたしが某大学の初習フランス語の教室に初めて入っていったとき、たぶん男子校出のお馬鹿さんが「ワオ! 女だー!」って叫んだんですからね。語学の教室でさえ女性が教壇に立つことが異様とはいわぬまでも「ワオ!」ではあった時代が、さほど遠からぬ昔の日本にありました(あの教室の若者たちは今、日本社会の現役エリートです)。大学院の学問が女人禁制だったわけではないけれど、わたしの世代の数少ない女性研究者たちが、読書会のような教室外の活動を拠り所にしたこと、口語的なやりとりによって醸成される連帯感を大切にしたことには、それなりの理由があったといわざるを得ない。そうした活動の頼もしい中核となり得た書物が『第二の性』でした。これは忘れてはならぬ歴史の事実です。 で、いつになったら「ボーヴォワールの新刊書」が出てくるわけ? と誰かに叱られそう――『モスクワの誤解』(*2) は1966年から翌年にかけて執筆された中篇小説ですが、今年の2月に本邦初訳が出たところ。むずかしい話はいっさいないから入門に最適、ただし、あくまでも入門であって、この先は各自で読書の幅を広げてほしいな、という感じの書物です。帯の言葉を借りるなら「老年カップルの危機と和解」が描かれており、しかもサルトルとボーヴォワールの年齢にほぼ見合った主人公の男女は「普通の夫婦」という設定になっている。おかげで老齢の男女一般にかかわる身近な心理小説として読める。簡にして要を得た「序文」(エリアーヌ・ルカルム=タボンヌ)と「訳者あとがき」(井上たか子)のページを開けば、初心者でも、サルトルとボーヴォワールがいかに「例外的なカップル」であったか、なんとなく想像できる。と推薦したうえで、わたしなりに思考の幅を広げてみたいと思います。 『モスクワの誤解』が書き上げられた1967年は東西冷戦の時代でした。サルトルとボーヴォワールは60年代に数度にわたってソ連邦を訪れており、その体験がフィクションの素材になったそうですが、じつは、わたしは1967年にモスクワを経由してヨーロッパに行った。日本の留学生に開かれたばかりの危なっかしい廉価コースです。つまり、西側知識人の代表としてソ連作家同盟に招かれ、国家的な歓待を受けたにちがいない「例外的なカップル」とは異なる次元で、いかにも頼りない「普通の旅行者」として同じ時空を生きたことになる。巨大な国家機構と警察が支配するあの土地で、ひりひりと肌を刺戟するような不安を覚えたことは何度かありました。夜汽車の閉ざされたカーテンに決して触ってはならない。カメラを街中で取り出してはならない。あたりに充満する「見ること」の禁止は、目に見えぬ絶大な権力という理不尽な存在を告げていた。あれはアーレントが「ボルシェヴィズム」と呼ぶスターリン体制の残滓であったということを、あの不安な感覚を反芻しながらわたしは最近になって理解したところです。 邦訳では『全体主義の起源』の第3巻冒頭におかれた「緒言(一九六八年の英語分冊版より)」が、まさにこの時期の世界を捉えている。初版はナチス・ドイツの敗北後4年に当たる1949年に亡命先のアメリカで書き上げられているのだが、これは物語の終幕の一部でしかない、と著者はいう。終戦はロシア全体主義の終焉を招くことはなく、1953年のスターリン死去とその後のスターリン批判により、曖昧さをかかえながらも非全体主義化が徐々に進行したのだということを、今、この文章を書いている1966年の視点で確認することができるというのです。わたしたちの視点から今、事後的に見れば、この年は10年におよぶ文化大革命が開始された年でもありますが、さすがはアーレント、中国で初の全国的な粛清が行われたことに注目し、さらに東欧の不穏な情勢を懸念する。じじつ2年後の1968年にはソ連の戦車がチェコに侵入し、自由化を求める「プラハの春」を鎮圧するわけです。この年に刊行された『全体主義の起源』の英語分冊版は、戦後の全体主義の趨勢を直近の時点まで視野に入れたものであり、その「緒言」が「暫定的な終わり」という言葉で結ばれているのは、覚醒した意識のなせるわざと敬服するほかありません。 『モスクワの誤解』には、こうした時事問題がさりげなく描きこまれていないわけではない。そして引退した高校教師である主人公たちは、もとはシンパであった共産主義に「幻滅」しているというのですが、微妙な違和感が読後に残ったのも事実です。東アジアの敗戦国から来てこの国を通過した貧しい留学生のモスクワ体験と異なり、何かに脅かされているという感覚がこの「普通の夫婦」にはないらしい。そんなこと当然でしょ、と言われそうだけれど、西側知識人と共産主義との関係という文脈で、やはり「例外的なカップル」の立ち位置が気になります。 いずれにせよ『モスクワの誤解』は考えるヒントにはなるけれど、ボーヴォワールの代表作ではない。それに老夫婦の諦念というフィクションの結末に惑わされてはならないと言いたくなる理由がひとつあるのです。ボーヴォワールのフェミニストとしての活動は1970年代に開花して、妊娠中絶にかかわる法制度の整備などに結実する。哲学者シモーヌ・ヴェイユと同姓同名の有能な女性政治家が牽引し、数え切れぬほどの著名な女性・無名の女性が自主的に参加して「女たちの声」が社会と国家を動かしたこの運動があったからこそ、フランスはEU諸国の女性解放を先導し、2000年のパリテ法(議会選挙の候補者を男女同数とすることを義務づける法律)にまで漕ぎ着けることができた。 政治的な権利要求に目覚め、現場に身をおいて理論化した欧米の先進的な女性たちは、全員が『第二の性』を読んでいたと思うのです。それがこの書物の歴史的な偉大さです。さらに、今日の多様なジェンダー論の最も重要な淵源のひとつが、ここにあることも確か。ボーヴォワールの考察は、不当に剥奪された権利を奪い返すための正当な要求(revendication)として構築されています。当然ながら権力の側に立つ無意識の加害者としての男性と被害者としての女性という二項対立のイメージを喚起するし、男と女の分類は自明のことだから「性差の揺らぎ」とか「性的マイノリティー」とか、ましてやウルフのいう「両性具有」などが入り込む余地はない。でも、政治の現場において、つまり権力との闘いにおいて、二項対立的な論理が「権力」と相似形の「権威」として立ち現われ、決定的な力を発揮してしまう場面はあるような気がするのです。くり返すなら『第二の性』は戦後の新時代に向けてのマニフェスト。女性も男性と対等な主体的存在として「アンガージュマン」(社会と政治への参加)すべきだという信念に貫かれた書物です。70年前の主張が今なお有効であることに、あらためて驚き、知的戦略として継承すべきでしょう。 要するに、わたしは『第二の性』が「昔の本」だとは思わない。女性の解放についていかにも実績の乏しいわたしたち日本人が、もうボーヴォワールに学ぶものは何もないなどと読みもせずに片づける資格をもつでしょうか‥‥‥。 さて、ボーヴォワールに冷淡なNさんは、これでうなずいてくれるかな。 あなたの言いたいことはわかった、でも面白いとは思わない、と冷たく応じるかもしれません。 結びはやっぱりアーレント――『全体主義の起源』の初版が書き上げられたのは『第二の性』が刊行された年ですが、当時の注目度はともかくとして、著者の気迫は優るとも劣らず、書物の存在感は近年むしろ増している。一点だけ確認しておくなら、権力が行使される現場の「主体vs.客体」「加害者vs.被害者」という二元論から出発したのでは、近代世界が産んだ巨大な悪としての「全体主義」は読み解けない。エルサレムのアイヒマンを裁けない。これがアーレントの「政治的な権力」をめぐる哲学的な思考の根底にある確信です。 *1 ボーヴォワール『第二の性―Ⅰ事実と神話』井上たか子、木村信子監訳『第二の性―Ⅱ体験』中嶋公子、加藤康子監訳、新潮社、1997年 *2 シモーヌ・ド・ボーヴォワール『モスクワの誤解』井上たか子訳、人文書院、2017年 コメントの受け付けは終了しました。
|
Author工藤庸子 Archives
12月 2018
|
Copyright © 羽鳥書店. All Rights Reserved.