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9 「性愛」と「おっぱい」

5/28/2018

 
 ​刺戟的な言葉が並んでいるからといって、期待しないでください。
 一部の日本人男性の幼児性について語りたいのですが、基調となるのは、我が腹心の友Nさんとの対話です。
 
N――お久しぶり。本日の話題は世間を賑わせているセクシュアル・ハラスメント、でしょ? これまでの経緯からして、このブログで見過ごすわけにはゆかないと思っていましたよ。
K――さすが、ご明察、というより、当然そういうこと。もちろん「女たちの声」にかかわる問題なんです。家族や男女の居場所である「親密圏」でも、人と人が交わり活動する「社会」でも、そして「公共圏」の見本であるべき政治の場でも、皆さん、現場でしっかり声を上げてください、と応援すれば、それだけで済むなよう気もするのだけれど、今日は具体的な話をしたい。それは「言葉」‥‥‥。
N――「言葉」? たとえば、どんな?
K――不愉快だから横文字で書くけどOppaiとか。
N――わかった! わたしは「チュー」という言葉が嫌い。ネズミじゃあるまいし。つづく動詞は、「‥‥‥触っていい?」「‥‥‥していい?」でしょ。絶望的に幼稚だよね。
K――まさに、幼児語。それも原初的な幼児語です。母親が疲労困憊していようと爆睡中であろうと、赤ん坊が大声で泣けばOppaiを口にふくませてくれて、それから頬っぺたにチューして、優しく寝つかせてくれる。
N――もちろん男女が合意のうえで言葉遊びをするのは、いいと思いますよ。わたしの趣味ではないけど、そういう口説き方もあるんでしょう。でも堂々たる社会人で、しかも職業人として行動している赤の他人に対して、それはないよね。つまり「社会的マナー」を知らぬ高級官僚の「他者理解」が、生まれたばかりの赤ん坊ていどであることに、憤っておられるわけね、あなたは。
K――はい。で、一つ思い出話、していい?
N――どうぞ‥‥‥。
K――学生の頃、ある職業団体主催の国際大会で通訳をしたの。スケジュールが終了して、さあ、打ち上げということで、六本木だったか赤坂だったか、日仏の事務局の幹部が高級キャバレーに繰り出そうということになった。通訳の若い女性たちは皆、逃げちゃったから、場違いなメンバーは、わたし一人だけ。笑わないで、想像してみてよ――超豪華な空間の真紅の円型ソファで日本の業界理事長とフランス側代表に挟まれてわたしが座り、周囲には肌も露わな豊満系美女がずらり。昔ですから、片言の英語も使えない。すべて通訳するわけ――「Oppai触っていい、と彼(フランス側代表)に言ってよ」とかね。
N――今回の話題との繋がりは、よくわかりました。それ、通訳したの?
K――うん、「彼(業界理事長)はこう伝えるように言っています」と、ワンクッション入れたけど。ちょっと説明させてもらうとね、フランス側代表が素敵な男性だったのよ。秘書みたいな役割だったから、意気投合しちゃって、数日の大会が無事終了した瞬間には、皆の見ているところで抱き合ってビーズというぐらいの仲(ちなみに「ビーズ」は相手の頬への軽い接吻。そもそも「ハグしてチュー」なんて日本語で、然るべき男女の仕草が想像できますか?)。ハンサムで、スポーツマンで、自分は職人として生きてきたことに満足しているけれど、娘は医学部だよ、とか自慢して、要するに品性を信頼できる人物だった。フランス人の参加者たちも、わたしが学生であることを知っており、ナイトのようにお行儀よく接してくれていたから、深刻に不愉快な思いはしないだろうという自信があって、それで、社会見学のつもりで、キャバレーに行ったわけ。 
N――ふーん、そうか。で、通訳の話にもどると、「彼はあなたに『Oppai触っていい』と言っています」という間接話法のフレーズに、声の抑揚一つで「日本人の男って、この程度」ってニュアンスを添わせること、出来るものね。あちらさんは、なんと答えた? 
K――「彼に『ありがとうございます』と伝えるように」って(笑)。
N――つづきの解説はわたしがやってあげる。キャバレーでの一連の出来事は「社会的なマナー」から外れることなく進行した。Oppaiの持ち主も、通訳のあなたも、それぞれ職業人としての尊厳は傷つけられていない。つまりセクシュアル・ハラスメントはなかった、と。
K――同じ語彙、同じ文章だから、思い出してしまったのでしょうね。この比較論においては、ガラの悪い業界理事長よりも出世した高級官僚のほうが、はるかに「たち」が悪い、権力が絡んでいるだけに「悪質」なわけですよ。ちなみにその業界理事長、政界に打って出ようとしていたらしいけど‥‥‥。
N――ところで、今回の話題のメインは「性愛」なんでしょ?
K――そう、これも「言葉」をめぐる問題なの。「言葉と権力」といったほうが正確なのだけれど、文学のことを考えつづけてきた人間としては、皆さん、声を上げてください、という応援のひと言だけで、議論を終わらせちゃいけないという気持がある。わたしのなかでは「性愛」問題とOppai問題は確かに繋がっており、いずれは「秩序としての言語環境に潜むジェンダー・バイアス」というところまで論じたいと思っています。メモ程度のことを、とりあえず書いておきますね。
 というわけで「性愛」のお話です。今から30年ほどまえ、わたしが初めて出した本(*1)の帯に「性愛とエクリチュール」という言葉が大きく印刷されており、恩師の山田𣝣先生に「貴女のようにきちんとしたご婦人が、このような言葉を使ってはいけない」とたしなめられたという話。そのこと自体は、懐かしい思い出として、どこかに書いたことはありますが、じつはわたし自身も、この言葉はすんなりとは通るまいと予感していた。言語論的に重要なのは、この「予感」の方なのです。
 こんな経緯がありました。担当してくださったのは、筑摩書房の淡谷淳一さん。『ボヴァリー夫人』を執筆していた当時のフロベールの書簡を抜粋して、同じページの下段に遠慮なく注をつける、そのことで作品が生成するプロセスを立体的に浮上させるという構想で、ワープロもない時代でしたから、鉛筆書きの原稿を淡谷さんに何度も見ていただいて、そのたびに、カフェで話し合い、示唆というより明確な批判をいただきました。ちょうど大学紛争の時代に学生だったわたしたちの世代は、論文指導らしきものを受けたことがない。一方で淡谷さんは、今、反芻してみると、ある種のリスクを引き受けながら書くことの手ほどきをしてくださった。明らかに「性愛とエクリチュール」という方向に、わたしの思考を導こうと意図しておられたと思うのです。
 神様のような編集者と呼んでいる人たちも身の回りにはいたりして、教養の豊かさには定評がありました。しかも度胸が据わって、途方もなく慇懃な方。「この注は、遠慮して書いておられるでしょう」という指摘を受けて、「本文と注の長さがあまりにバランスが悪くなりそうで」と言い訳すると、「ページの組み方などは、わたしども編集者が苦労すればよいことでございます」と恭しくお答えになる。帯の文言について「『性愛』という言葉は危険だと思う、妙な『挑発』と見られそう」とわたしが及び腰の発言をすると、「ご存じのように帯の文言は著者ではなく編集者が決めるものでございますから」と断固たるひと言。
 ところで、人の声というのは雄弁なもので、お電話を下さった𣝣先生のお話も個人的な叱責ではなく、アカデミズムの現状はその程度だよ、と諭してくださったのだと感じています。昔話はそこまでとして――今どき「性愛」という言葉に目くじらを立てる者はいない、と笑って片づけるわけにはゆきません。今ではプルーストも、マラルメも、バタイユも、優秀な女性研究者がいますよ、という善意の発言の裏に透けて見えるのは、じつは構造的な変化は起きていないという事実。そして、これまでの構造的格差によって歴史的に蓄積された目に見えぬ歪が、人文学の生気を奪っているのではないか、という根本的な問いに対する無関心。もちろんこうした問題を意識化した元気な若い人たちが、いないわけではない。期待しましょう。
 それにしてもアカデミズムの内部にある格差の構造、それも思考や概念にかかわる性差の力学は、まさに「不可視の権力」に支配されており、これを描写するのは極限的に困難です。一方、官僚組織内部の人間関係や、高級官僚とマスコミの取材担当者との関係は、当初から顕在的な権力によって徴づけられている。二つのケースはまるで無縁のように感じられるかもしれないけれど、じつは決定的な共通性があるのですよ――この領域、この仕事は女には無理だろう、この言葉を女は使っちゃいけない、この言葉を男は使ってよい、等々の「禁止/許可リスト」を作成するのは、常に男性でありました。だから女性研究者たちは「暗黙の了解」がどの辺りまで許容するのか「忖度」した。高級官僚の周囲の女性記者たちは「この程度のこと」は「我慢」しなければならないのだろうかと思い悩んだ。
 これに対して「禁止/許可リスト」は自分たちが作る!と堂々と宣言したのは、我が国の女性学・ジェンダー研究を推進した女性たちでありました――というところまで書いて、この辺でまとめようとあれこれ考えていたら、絶妙のタイミングでNさんがメールを送ってきました。ご本人の了解を得て公開します。ちなみにこの方、普段はすごく冷淡なくせに、いきなり戦闘的フェミニストに豹変することがあるのです。
 
NさんよりK宛てのメール
 先日のおしゃべりの続き。上野千鶴子さんの「闘いとってきた変化」(5月23日「朝日新聞」朝刊)読んだ? 「言葉」の問題というので、思い当たったわけ。かつて「セクシュアル・ハラスメント」という日本語はなかった。これを「定義」して「女性の経験の言語化と理論化に務めてきた」のが、女性学・ジェンダー研究だったという指摘、納得しました。ひとたび概念が定義されれば、自分の体験について、客観的な分析ができるようになる。それだけでも、気持は楽になるわけですよ。
 ということで、以下はわたしの常識的フェミニズム宣言――「セクハラ」という言葉になんとなく違和感があるので(たぶん、妙に軽薄な調子で使われることがよくあって、それが不愉快なんだと思う)、しつこく「セクシュアル・ハラスメント」と言いますが(メディアには字数制限があるから仕方ないと言われればそれまでだけれど)、その「セクシュアル・ハラスメント」について、これまで以上に積極的に「社会的なルール」と「弱者保護の制度」を作らねばなりません。フェミニズム世代の実績を踏まえ、フェミニズムに関心があろうとなかろうと、現役世代の普通の女性たちが、しっかり発言すべきです。世の中には頭の悪い人も多いから、「Oppaiとか、チューとか、幼児語を使わないこと」「無暗に触らないこと」等々の「マニュアル」を作るのもいい。それで職場の有能な男たちが委縮する? とんでもない! この程度の「他者理解」も出来ない男が、そもそも「有能」なはずはありません。口を開けば下品なことを口走りジョークだとか身に覚えがないとか強弁するような方々、相手の弱みにつけこんで「我慢」を強いるような方々には、ご自身の出世を「我慢」していただいた方がよい。その分、若い有能な女性たちが元気に活躍するようになって、社会的なマナーを心得た大方の男性たちも、伸び伸びと楽しく働くでしょうから、必然的に経済効果は大であります。 
 だいたい、某高級官僚は、本当に「有能」なのですか? 先回のブログであなたが書いていた、教室で「ワオ! 女だー!」と叫んだ世代でしょ? 本物の知性があって、しかも職業的な野心があるのなら、たまに弁護士のサイトなどを覗いてみるだけで「社会的なマナー」の許容範囲ぐらいは、即座に理解できるはず。自分は何をやろうと安全圏にいると信じていたのであれば、それは時代錯誤、まさに驕りというものです。
 一方で、特定の個人に責任があるという論調も危険です。ニュース報道で問題の官僚組織の「セクハラ防止研修会」の風景を見たけれど、「局長ら幹部」は全員男性です。この風景、国家的な超エリート集団を自認する組織の国際感覚のお粗末さを証明している。恥ずかしくないの ?! と思いましたね。しかも、この組織の関係者は、自分たちは多忙だし、男ばかりの世界だから、と平気で言い訳するのですよ。政治の世界でも、ようやくパリテの方向性が多少は見えてきたことだし、官庁も企業も、ともかく女性のプレゼンスに配慮していただきたい。「局長ら幹部」の3分の1が女性であれば、低次元かつ初歩的なハラスメントは目に見えて減少するはずです。「研修」を義務づけられないとマジメに考えないというのも、困ったものですが、やはり世代や年齢の問題はあるでしょうね。言語道断な某大臣は、もう手遅れですから、早めの引退を期待しましょう。ただし「ワオ!」の世代は、この先まだ20年ぐらいは権力者でありうるわけですよ。真剣に再教育に取り組まねばなりません。では、また。
 
*1『ボヴァリー夫人の手紙』工藤庸子編訳、筑摩書房、1986年。



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    Author

    工藤庸子
    ​(くどうようこ)
    ​フランス文学、ヨーロッパ地域文化研究。東京大学名誉教授。1944年生まれ。

    *主要著書・訳書
    『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』(1998年)
    『ヨーロッパ文明批判序説――植民地・共和国・オリエンタリズム』(2003年)
    『近代ヨーロッパ宗教文化論――姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』(2013年)
    『評伝 スタール夫人と近代ヨーロッパ――フランス革命とナポレオン独裁を生きぬいた自由主義の母』(いずれも東京大学出版会、2016年)
    マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』(河出書房新社、2014年)

    羽鳥書店
    『いま読むペロー「昔話」』訳・解説(2013年)
    『論集 蓮實重彦』編著(2016年)
    『〈淫靡さ〉について』蓮實重彦との共著(2017年)

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