これは、わたしの生涯の研究テーマ。といっても出遭ったのはそう昔のことではなくて、「近代ヨーロッパ批判」三部作(*1)の第二作の終章に「女たちの声」というタイトルをつけてみたのが、新しい自覚の始まりでした。学生のころから親しんできた『ボヴァリー夫人』の周辺にさまざまの「姦通小説」を配し、政治と宗教、人の掟(民法)と神の掟(教会)という対立軸によって構成された社会秩序の内部で読み解くことが、著作の意図だったのですけれど、書いているうちに、しだいに欲求不満になってきた。どうしてわたしはこれほど忠実に、男の視点、男の立ち位置、男の世界観をなぞるような作業ばかりやっているの? とだんだん腹が立ってきて、これぞ女の視点、女の立ち位置、女の世界観、よくぞ言ってくれました、と応答できるような女性作家はいないものか、という探求の意欲がムラムラとわいたのですが、ついに発見したという確信が得られたのは、第三作を書き終えたときでした(「読むこと」はしばしば知識の「習得」でしかないけれど「書くこと」はときに真の「体験」となる)。 つまり「女たちの声」と今のわたしがいうとき、それはとりわけ「スタール夫人の声」であり、こめられた意図は何よりも「政治的」なもの――なにしろスタール夫人はフランス革命勃発時の大臣ネッケルの娘なのであり、フランスのみならず英国・ドイツ語圏・イタリアなど、ヨーロッパの諸国民にかかわるフィクションや評論を書くときには、その地で「女たちの声」を「公的な領域」に届ける仕掛けが機能しているかどうかに必ず言及する。これは「世論」と「代表」をめぐる問題を、女性が自ら関与する政治的課題として語った初めての例であると思われます(誰もが知るように「声」voixは選挙の票や投票権も指す)。 というわけで日々のBSのニュースを観ても、真っ先に気にかかるのは、公的な領域における女性の身体的なプレゼンスです。3月14日、ドイツ連邦議会でメルケル首相が再選されて、ようやく新政権が誕生しそうですけれど、閣僚の女性比率はどうなることか。ご存じのように、フランスのマクロン政権は、数字のうえでは完全な「男女同数(パリテ)」を達成している。ただし女性閣僚の大半が「女性の権利省」など女性に特化した分野を担当する現状は、アリバイ工作が透けて見える、という批判もあるらしい。もしかしたらドイツのほうがプレゼンスは実質的なのかもしれません(日本の現状を思うとほとんど絶句するけれど、でも、絶句している場合ではない)。 圧倒的な存在感を見せるのは、与党ドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)副党首のウルズラ・フォン・デア・ライエンで、国防相の続投が確実視される人物(59歳、洗練された凛々しい女性)。メルケル首相の後継者として俄かに注目されるようになったもう一人の女性は、アンネグレート・クランプ=カレンバウアー(55歳、信頼できる友人であるというメルケル首相と同じタイプの好感のもてる安定型)。たしか2月の半ば、記者団のまえで党の新幹事長候補として紹介する場面だったか、メルケル首相が、もしこの人が幹事長になれば女性で初めて、と言った瞬間の反応が面白かった。えっ? という感じで一瞬その場が固まり、首相はキョトンとして、何かドジやった? という表情を見せてから、照れくさそうに破顔一笑。じつは初代の女性党幹事長はメルケル自身でありました。昨年9月の総選挙後5カ月にわたる紆余曲折の末、3月4日の党員投票の結果を受けてようやく大連立を組むことになったドイツ社会民主党(SPD)は、新体制の党役員6名はまだ発表できないが、男女同数3名ずつになるだろうと発言。ニュース報道ですらない、こういう普通の光景も――集団の社会的なバックグラウンドが一瞬露呈するという感じで――切実に羨ましいですよね。 さて「女たちの声」という主題には、とりあえず3つのアプローチが想定されており、「政治的」なものにつづく第二の切り口は「メディア論的」そして第三は「唯物論的」な考察です。「声vs.文字」「話される言葉vs.書かれた言葉」「パロールvs.エクリチュール」といった具合に対立的に分類された言語の様態に関し、男性と女性は歴史的に同じかかわり方をしてきたか? 同じでないとしたら、いかなる差異があるのだろう? 考えてみたこと、おありでしょうか? もちろんわたしも最近まで、そんなこと考えたこともなかったのだけれど、ヴァージニア・ウルフは、さすがですね。女性というテーマの講演を頼まれて大英図書館に調べに行ったところ、ともかくあらゆる職種のあらゆる分野の専門家を称する男性たちや何の資格があるのかもわからぬ男性たちが饒舌に女性について語っていることにまず呆れ、女性が女性について語った本が見つからないことに愕然とした、と皮肉たっぷりに語っている(『自分だけの部屋』)。近代ヨーロッパにおいて出版物に託される知の言説は――抒情詩や恋愛小説などの創作や女子教育など例外的な分野はごくわずかあるものの――ほぼ100パーセント男性のものだったのだから、当然といえば当然ですが、ともあれ冒頭で述べたわたしの欲求不満は、正確にウルフの憤懣に合致します。ちなみに今日、わが国の研究者の女性比率はざっくりした数字で15パーセントだそうですから、日本の大学図書館の収蔵する知の言説の男女格差は1世紀前の大英図書館のそれとあまり変わらないでしょう(とはいえ1冊の本を書くことさえ容易ではない。でも、ここで諦めたくはない)。
もともと女性は口語の領域においては実績をもっていたのであり、戦略的に見れば比較的攻略しやすい「話し言葉」の領域をおろそかにしてはならぬというのがスタール夫人の教訓です。「サロン」すなわち複数の人が交流する小さな「社会」(société, Gesellschaft――これらの語彙については前回のブログを参照)は、女性が「会話」の主導権を握って「公的な領域」に「声」を届けるために死守しなければならない場であると。ハンナ・アーレントが政治的な言語を「スピーチ」と呼んで、その口語的でパフォーマティヴな側面を強調するのは偶然ではない。その根幹にはスタール夫人と同時代のサロニエール(サロンを主宰する女性)について体験話法的な文体で評伝を書いたという経験があるにちがいない(『ラーエル・ファルンハーゲン』)。そうわたしは考えているのですが、この大きすぎる問題は、いずれ「文語体」で考察したいと思い、当面は棚上げにしています。 ここで「メディア論」と「唯物論」の狭間に位置する話題を一つ。電子的なメディアが普及して以来、じつは「声vs.文字」「話される言葉vs.書かれた言葉」「パロールvs.エクリチュール」という二分割自体が揺らいでいるとも感じています。そもそも電子媒体については「書かれたものは残る」Scripta manentとは保証できないし、たとえばSNSは男性中心的・ロゴス的な権威主義が無効化される言語空間ではありませんか? つまり言語的な水準においては、男女格差の歴史から解放され、発話者の性別(そんなものは捏造できる)すらあいまいな両性具有的空間ではないかと思うのです(ただしこれはウェブ空間に流通する情報が、しばしば差別的・暴力的であるという事実とはまったく別の話)。このブログにしたって、口語的でもなく文語的でもない、論理の構築をめざすのではなく、テーマからテーマへと方向を変えながら表層を滑ってゆく。だからって無責任に思考しているわけではないけれど、とりあえず書物という紙媒体の構造的な厳めしさから解放された自由を存分に享受しています。 というわけで最後の、というかメインの話題は「声」そのものの物質性について。2カ月ほど前、たった2行のメールが届きました。今しがたウルフの声を聴いたので、という言葉とサイト情報のみ。差出人は、わたしがヴァージニア・ウルフに魅せられていることを知る旧友のNさん。英文科を卒業した彼女とは肝胆相照らす仲であり、今回もウルフの誕生日(1月25日)にちなむBBCの番組がきっかけで、いつものように電話の長話となりました。以下はその要点。 K――惚れ惚れしました。深みがあって繊細で、温かいけれど人を寄せつけない、孤独で聡明な声。自然に造形されるのかな、その人の身体から出てくるときに。 N――いいでしょう? でも声を聴いて納得できない作家もいる。コレットの声には感動しないと、あなた言っていたじゃない。ちなみにウルフの声は、これしか残っていないらしい。1937年にBBCで放送されたものですけれど。 K――80年前か、そう思うとなおさら冥府から響いてくるみたいね。テクスト付のサイトを探し出したのだけれど、この文章、好きだなあ、……Words, English words, are full of echoes, of memories, of associations — naturally. しかもウルフ本人の声で肉付けされて。この人が『ダロウェイ夫人』を読んだら、さぞ素晴らしいでしょうね。 N――よく言われる「意識の流れ」Stream of consciousnessを音声的にどう表現するかって話でしょ。内面の情感や思考にかかわる言葉と外界を描写する言葉との連続性とか、面倒なこと考えなくても、読んでもらえば一瞬でわかる気がする。わたしもそう思うわよ、ウルフは本質的に「声の作家」だと。 K――フローベールはちょっと違うんだな。有名なgueuloirというのは「がなり立てる」gueulerという動詞からつくった言葉だってこと知ってるわよね。草稿片手に書斎をのしのし歩き回りながら、ひたすら大声で読む。作家の「朗読」と捉えている研究者もいるけれど、あれは即物的に「音」の効果を確かめているのであって、何かを表現する「声」なんかじゃない。つまり声と文字、パロールとエクリチュールの親密な関係は、いったん切断されている。フローベールの「散文」はそこから、その亀裂から、何かまったく新しいプロセスによって編みだされたのだと思う。『ボヴァリー夫人』の朗読CDは山ほどあるけれど、どれも納得できないのは、たぶんそのせい。フローベール自身も読めないテクストじゃないかな。もっともフローベールの声は、たぶん普通のオジサンよ、聴きたいとも思わないけど。 N――その話は長くなりそう(笑)。それにしてもあなた、ウルフが好きだって言うわりには、ちゃんと読んでいるのは二冊だけ。もちろんウルフほどの作家であれば、一つのセンテンスでも、一つの単語でも、うっとりして世界観まで変わる、というのはわかりますよ。たとえば「両性具有」とか、ね。だけど、今日、ウルフにかこつけて電話してきたのは、別のことをしゃべりたかったんじゃない? K――はい、ウルフは追々読みます。じつはね、「スタール夫人の声」がわかったの。 N――さすがに録音が出てくるはずはない。それで? K――サロンの会話で惜しげもなく見せる爽快なエスプリとか、王党派の大物相手にやった堂々たる政治論争とか、いろんなエピソードがあるんだけれど、義理のいとこに当たる知的な女性がね、スタール夫人の声の音楽性について「何かしら天上的なもの」quelque chose de célesteがあると書いているの。スタール夫人は晩年に息子ぐらいの歳の青年と再婚しているのよ。その青年はね、戦争で重傷を負ってふらふらしているときに、スタール夫人に二言三言なぐさめの言葉をかけられただけで、生き返ったみたいになって、ぼくはこの女性と結婚するぞ、と決心した――という話が、一族に伝わっているらしい。こんな話もある。スタール夫人よりやや年長の著名なサロニエールが、もしわたしが王妃だったら、絶えずわたしに話しかけなさい、とスタール夫人に命令する、と言ったとか。想像できる? N――できるわけないでしょ! でも、たぶん男心をとろかす妖艶な声なんかと全然違うのじゃないかな。かといって銀鈴のような澄んだ声でもない。ジャンルとしてはウルフ型と言いたい? K――そう、当然そういうこと。声と感性、声と知性との幸福な連帯のようなもの――サロニエールでもあったスタール夫人の文学の源泉は、そこにあると。サント=ブーヴなんか、やっぱり男の人ですから(笑)、スタール夫人における「会話の文体」なんて言うんだけれど、それじゃあ、全然面白くないじゃん‥‥‥。 N――はい、わりと高級なところに着地しました。次回は電話じゃなくて、ランチにしましょうよ。 *1 『ヨーロッパ文明批判序説――植民地・共和国・オリエンタリズム』東京大学出版会、初版2003年、増補新装版、2017年 『近代ヨーロッパ宗教文化論――姦通小説・ナポレオン法典・政教分離』同、2013年 『評伝 スタール夫人と近代ヨーロッパ――フランス革命とナポレオン独裁を生きぬいた自由主義の母』同、2017年 コメントの受け付けは終了しました。
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Author工藤庸子 Archives
12月 2018
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