朝6時すぎ、私は携帯電話の呼び出し音で目をさましました。受話器の向こうから、明るい声。 「恵子です。朝早くにごめんね」 えっ、あ、もう朝。あわてました。前夜、私は目覚まし時計をセットせず、早々に寝てしまったのです。 「メールの返事がなかったから、姉も心配していたの」 え……。前の晩、恵子さんの姉、礼子さんからのメールに気づかず、私は熟睡してしまい、朝のメールにも気づかず寝ていました。昨年12月のクリスマスの朝のことです。 クリスマスイブの夜、私は礼子さんと恵子さん姉妹を訪ねました。 81歳のお母さんが明るい声で「食べらいん(食べなさい)、食べらいん」と食卓に招いてくださいました。 車を運転するため、ふだんは飲まないのですが、タクシーを使ったこの夜、ワインをいただいたら、効き目は抜群。帰宅後、布団へ直行しました。夜10時すぎ、礼子さんから「メリークリスマス」と題したメールが届いていたのです。いつもはすぐに返信するのですが、この時はもう寝入っていました。翌朝6時、私から音信がないため、礼子さんはまたメールを送信。
「朝早くすみません。おはようのメールください」 30分後、礼子さんはもう1度、メールします。 「安否確認メールです。連絡ください」 礼子さんは石巻市の実家から仙台市の会社へ向かう途中でした。2度のメールにも応答がないため、妹の恵子さんに、私の電話を鳴らすように伝えました。 その後、礼子さんからメールが届きました。 「無事を確認し、安心しました。トラウマになっているんでしょうね。連絡がとれないと、心配で、不安なんです。お騒がせしました」 ああ、礼子さん……。ごめんなさい。思い出させてしまいましたね。あの日のことを。イブの夜の「メリークリスマス」と題したメールには、こう書かれていました。 「今日は、ありがとうございました。私たち家族だけだと、どうしても姉を思い出し、涙が出て、しめっぽくなります。母も楽しく過ごすことができたと思います」 礼子さんと恵子さんは、2人姉妹ではなく、3人姉妹でした。美智子さんというお姉さんがいたのです。 美智子さんは、高校卒業後、七十七銀行に就職。2011年3月11日は女川支店に勤務中でした。地震後、2階建ての支店の屋上へ避難しました。このブログの初回に紹介した健太さんも一緒でした。津波は屋上に達し、流されました。54歳でした。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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