万石浦では何本もの木の杭を目にします。海面には浮き球や浮き樽もあります。それらはカキ養殖のものです。 養殖の妨げとならぬように、重機を搭載した船が、海底のがれきの撤去を急ぎます。日没の時間が迫っていました。 日暮れ時、美智子さんのお母さんはいつも思うのです。 「おねえちゃんが帰ってくる時間だ……」 同時に、こうも思うのです。 「ああ、おねえちゃんはもう帰ってこないんだ」 石巻市は昨年3月11日まで毎月11日の午後2時46分に防災無線で黙祷を呼びかけていました。1年半を迎えた昨年9月11日の午後2時46分、また黙祷を呼びかけました。お母さんは、防災無線に耳を傾け、手を合わせました。それから時計を見つめました。お母さんがもう一度、祈る時間が刻々と近づきます。午後3時20分。 「ああ……、津波が押し寄せてくるころだ」 お母さんの心臓の鼓動が速まってきます。 午後3時30分。 お母さんはふたたび手を合わせます。 「流されていった……、冷たくなって……」 その夜、お母さんが「午後3時30分」の思いを私に話していた時です。恵子さんが台所から出てきて、強い口調で言い放ちました。「わかんないよ。この時間もまだ生きていたかもしれないよ」。その言葉は、私にはこう響きました。それ以上、もう言わないでよ。私も悲しいのよ――。 のちに、恵子さんにあの言葉の意味を尋ねました。 「実際、翌日でも漁船に助けられた人たちがいたでしょ。だから、おねえさんも助けられたかもしれないと思うのよ」 美智子さんは41日後の4月21日、女川港から海岸伝いに南南東約14キロ、塚浜(つかはま)で見つかりました。 夕方、お母さんは仏壇に向かって話しかけます。 「代わってあげたかったね」 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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