2013年7月14日。私は休暇をとり、仙台市民球場のスタンドにいました。夏の高校野球県大会です。健太さんの母校、県立古川高校が初戦に挑んでいました。 私はタオルを振り回し、声を張り上げます。 隣に、健太さんの彼女と、お父さんも座っています。 タオルは、11年11月、健太さんをしのぶ会の参列者たちへ渡すため、彼女がデザインして作ったものです。みんながスポーツ観戦に行く時、どうぞ、一緒に連れて行ってもらえますように。そんな思いがこもったタオル。端に記した数字の「2」は背番号です。 最初は笑顔で観戦していた彼女とお父さん。だんだん眉間にしわが寄ってきます。 結果は、11対0の5回コールド負け。選手のみなさん、本当にお疲れ様でした。 お父さんにとっては、震災後初めての古高野球の観戦でした。 震災があった11年は、一心不乱に健太さんを捜していましたから、高校野球どころではありません。 12年は、試合開始前にちらりとベンチをのぞきました。が、試合そのものを見ることはできませんでした。 13年は、彼女から「高校野球が始まりますね」とメールがありました。試合に行くつもりはなくても承知していた古高の日程を知らせると、「一緒に行きませんか」。彼女が行くというのに、自分が行かないわけにはいかない。お父さんは決心しました。 健太さんの写真と野球帽、タオルも持っていきます。スタンドには、12年夏にお父さんが古高野球部へ贈った横断幕が掲げられていました。 お父さんは、その日だけ、日ごろの悩みに、ふたをしました。 いまだに答えの出ない悩みです。彼女には彼女の人生を歩んでほしい。自分たちが引き留めてはいけない。でも突き放してしまうのも可哀想。どう距離をとったらいいのか……。 健太さんは彼女との結婚を夢見ていました。 2年間お付き合いしました。夏はいつも彼女を連れて県大会の観戦に来ていたそうです。 試合後にアイスクリームを食べて帰るのがお決まりのコース。 健太さんはラムレーズン。彼女はストロベリーチーズケーキ。 11年夏も、12年夏も、彼女はひとりで県大会の観戦に来ていました。帰りに、ひとりでラムレーズンとストロベリーチーズケーキを注文して――。 13年夏は、お父さんがラムレーズンを注文しました。ふだんは甘い物を口にしないというお父さんですけれど。鼻の奥がつぅんとするのを吹き飛ばすように、私たちはアイスを手に「あの審判は」「あの一球は」と戦評を交わします。 古高野球部がつくってくれた楽しい時間でした。 その時間は、12年11月にお父さんと古高を訪ねた時に重なりました。 12年11月3日、お父さんは、野球部の顧問、部長、部員たちへ、夏に横断幕を贈る機会をあたえられたことに感謝の言葉を伝えました。そして、こう続けました。 「人生、努力すれば実るというが、私から言えば、実らないことが多いです。でも、努力することによって、自分が磨かれる。人生、何があるかわかりません。ぜひ一日一日を大切に。今日みなさんが一緒にいたことも、大切な思い出にしてください。これから大学へ進んでも、古高のグラウンドは、みなさんを待っています」 お父さん自身も古高の卒業生です。高校時代は応援団の副団長でした。 部員たちのために、お父さんは、そらんじている「野球部の歌」をアカペラで披露しました。お父さんの後輩にあたる顧問の先生も、肩を並べて立ち、声を合わせます。 立てよ いざ立ぁて わが友よ♪ その帰りでした。お父さんの車が校庭を横切った時です。 校庭にいた部員たちは、一斉に帽子をとり、車を最後まで直立不動で見送りました。 卒業して三十数年たつ今、「母校」という言葉の意味をかみしめます、とお父さんは言います。立つ力も、歩く力も失いかけた卒業生を、母校は、温かく迎え入れてくれました。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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