東京へ戻ってから途切れがちのこのブログは、再開のたび、長文になりまして・・・、このたびは、冒頭に第1話とつけました。これから最終回の第48便まで各便7話ずつお届けします。どうか、積もる話を1話ずつ読んでいただけましたら。 この間、最も驚愕した出来事は、11月22日の津波です。当初、宮城県沿岸は注意報でしたから、まさか本当に来ようとは。 22日朝6時前。東京ではゆっくりとした長い横ゆれでした。私はすぐさま10日前の女川町の地震を思い出しました。10日前は震度4でした。あれは前震で、これが本震か。1978年を最後にまだ再来していない「宮城県沖地震」か。枕元の携帯電話をにぎります。 携帯へ届いた情報は、「福島県沖」が震源。「宮城県沖地震」ではない、と安心したのもつかのま、福島県に津波警報、宮城県に注意報発令です。 漁師さんへショートメールを。バクバクする心臓が指先へやってきたよう。深呼吸しながら「宮城県に津波注意報 福島県に津波の警報です」。送信。 電話は控えます。私が鳴らしたために漁師さんが大事な電話を逃しては大変です。カキの水揚げ中ですから、今朝はもう出かけたかも。船の上なら、ゆれに気づかないはず。思いめぐらせていましたら、30分ほどして携帯に着信音。 「地震は今のところ大丈夫です」 漁師さんの長男から返信です。漁師さんは外出前。家族一緒です。ほっとしました。 約2時間後、仙台港へ到達した津波は高さ1・4メートルを観測しました。 私たちは災害列島に暮らしていると思いを強くします。備えが大事と改めて心します。 今年も自然災害の多い年でした。 4月に熊本地震があり、8月には東北へ台風10号襲来。 台風10号は当初、女川町直撃が危ぶまれました。前々日に漁師さんへ電話をかけますと、水揚げ前のカキについて「もうあきらめている」と暗い声。返す言葉が見つからず、前日に「気をつけて」と短いメールを送りました。当日の夕方。漁師さんからお電話が。 「風はまだ強いけっども、空は晴れてきた」 明るい声。直撃はまぬがれました。 台風一過の東京湾上空にも晴れ間。読み終えたばかりの本から一句を。 秋高し吾白雲に乗らんと思ふ 『漱石くまもとの句200選』(熊本日日新聞社刊) 9月3日。秋晴れです。女川町立女川中学校の運動会を訪ねました。 大漁旗が赤組と青組の熱戦を見守っています。 漁師さんの3年生の長女にとって中学生活最後の運動会。 漁師さんと長男、次女も応援に来ています。 次女の柚葉ちゃんは小学2年生になりました。 会うたびに大きくなりますねえ。 運動会終了後、ゆっちゃんは、おっきな声で「おねえちゃん!」とよびかけ、長女の奈桜ちゃんへ駆け寄ります。 大きくなったとはいえ、まだまだ小さな妹へ、おねえちゃんがむけたお顔のやさしいこと。 ゆっちゃんは、奈桜ちゃんが大好き。 世界中で一番好きなおねえちゃんです。 8月に新築のおうちを訪ねた時、私も誘ってくださって3人でカルタ取りをしました。私は手をぬいてしまったのに、奈桜ちゃんは本気を出してくれて盛り上がりました。結果はもちろん、おねえちゃん圧勝です。ゆっちゃんは自分の枚数を数えるのをやめて、おねえちゃんの分まで抱きかかえてしまいました。もう知らないよ、と奈桜ちゃんは自分の部屋へ。 「おねえちゃんだいっきらい! 世界中で一番きらい!」 ゆっちゃんのあのおっきな声を思い出すたび、私は幸せな気持ちにひたります。そんなことを言われても、おねえちゃんはゆっちゃんのことを決してきらいになりませんもの。ですから、安心して、きらいって言えます。そう言えるおねえちゃんがいる。幸せですね。 さあ、おねえちゃんは運動会の後片付けです。 ひと足先に漁師さんたちは帰ります。 あら。おにいちゃんもまた背が伸びましたねえ。 高校3年生です。 お父さんを追い越したかな。そう感心する私に、半年前は「気のせい、気のせい」と否定した漁師さんが、今回は笑って「俺がちぢんだんだぁ」。 漁師さん親子の中で私が最初にお会いしたのは、長男でした。 12年春に女川第一中学校を訪ねた時のことです(女川第一中は13年春、女川町の離島、出島にある女川第二中と一緒になり、女川中に名称を改めました)。 長男は2年1組にいました。 ふっくらしたほおのかわいい、小柄な少年でした。 智博君。お母さんの智子さんの字をゆずりうけました。 智博君の得意科目は社会。 とくに歴史が好きなんです。 15年春の夕方。漁師さんの車でファミリーレストランへご一緒します。車中のしりとりの楽しいこと。行きは、ゆっちゃんと。「アは、私、得意なの」。胸張って出てきたのは「赤とんぼ!」。いいですねえ。「1匹つかまえたよ」。よくつかまえられましたねえ。 帰りは、智博君に地名だけのしりとりを提案。なぜか私は外国名ばかりが口をついて出てきて、ウにはウクライナ。窮した智博君。「人名も入れて」。何が出てくるのかなと思いましたら「長屋王」。すごい。それから、ダになって、私がダルエスサラームと答えると、今度は「紫式部」。千年前の源氏物語の作者ですよ。よくぞ思いつきました。つづける私はブルネイ。困った智博君に運転席の漁師さんが「お札の人だよ」と助け船。「えー?」と困惑する智博君。そうね、今は刷っていないお札ですものね。最初の総理大臣ですよと一言添えれば「伊藤博文」。さすがですねえ。 国語はどうかしら。作文は、社会に比べると、ちょっと苦手かな。 それでも、中学校卒業後も同級生たち十数人と休日のたびに集まって、中学生むけの本をつくるんだと原稿用紙に向かいました。 部屋がいくつもある集会所を借り切った時は、友だちから離れて、ひとりで書いていました。 じゃあ私は帰りますからお父さんによろしくねと声をかけても、顔を上げずに「はーい」。集中していましたね。 本には「いのちの教科書」とタイトルをつけています。小学6年生だったあの日の自分たちの体験を盛り込み、この本を読んだ中学生たちが自分で自分の命を守れるようになってほしいと願うのです。 1年かけて各自が書き上げた原稿を、みんなで回し読みして感想を書き込みました。同級生たちは1千字も2千字も書いているのに、智博君は700字足らず。でも、友だちは「話がぎゅっと詰まってていいと思う。頑張って書いてくれてありがと」と返してくれました。 その感想を読んで「ちょっと書き直してみる」。自分から言い出し、あの時の言いようのない気持ちを初めて言葉にしてみました。 智博君の了承をいただき、ここで全文を紹介します。 「東日本大震災があった夜、私は女川町の総合体育館に避難していました。そこで1週間ほど過ごしました。父や尾浦の浜の人が小学生や中学生を迎えに来ました。僕や小学3年生の妹と住んでいた浜に戻りました。私は驚きをかくせませんでした。浜は跡形もなく、家の土台だけがのこった荒地になっていました。住んでいた家はなく、ただただ土台を見つめるばかりでした。 避難所になっていた浜のお寺に行き、知っている人に会った時はとても嬉しかったのを覚えています。そこで母と祖父母が行方不明だと聞かされました。その時は気が動転し何を言っているのか分かりませんでした。でも涙は出てくる。そんな状態でした。 お寺では久しぶりに、ちゃんとした食事をとることができ、夜はお堂や応接間に布団を敷いて寝ました。そんな生活が3週間ほど続いた頃、父が仙台市に住む伯母のうちへ私と当時小学3年生の妹と2歳の妹の4人で行こうと言い、ついていきました。 仙台市は女川町との違いがありすぎ、驚きました。最初は慣れない生活に戸惑うこともありました。仙台市内の中学校に入学しましたが、周りの人はほとんど被害を受けていなくて、自分だけという思いが強くなっていきました。しかし、周りの人に支えられて、なんとか乗り越えることができました。中学校での生活が楽しくなってきた時に、父が祖父母のいる奈良県に行こうと言い、車で約18時間かけて、奈良県の田原本町という町に行きました。 中学校も転校し、新しい学校生活が始まりました。その中学校では東北や震災の話題はまったくなく、何もなかったようになっていました。まるで風化しているように感じました。震災から4カ月後の7月のことでした。 奈良県では約半年間生活し、やっと女川町の仮設住宅が決まり、ついに父が『女川に戻ろう』と切り出しました。そして同じ年の12月24日、女川町に帰ってきました。仮設住宅に引っ越し、女川町の震災前に入る予定だった中学校に入りました。約10カ月ぶりに見る女川町はそこまで変わった訳ではなく、前に見たガレキの多い街でした」 2011年12月11日の女川港です。この光景が、奈良県から帰ってきた智博君たちを迎えました。中央は、津波で横倒しになったビルです。3年後に解体され、今はありません。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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