2014年3月12日。 漁師さんは、午前2時に家を出て、メロウド漁へ。 ふだんは午後3時頃に女川港へ戻ってきますが、この日は早々に水揚げを終えると、長男の智博君を車に乗せ、石巻市中心街の石巻好文館高校へ急ぎます。 いよいよ合格発表です。 智博君が中学3年の夏、一家は仮設住宅団地内で引っ越しをしました。 1部屋多い所へ移ったのです。智博君の勉強部屋を確保するためでした。 でも、プレハブ造りでは、妹2人のにぎやかなおしゃべりはどこにいても聞こえます。 なかなか集中できなかったでしょう。 高校で落ち合うと、私もどきどきしながら、合格発表の掲示板に目を凝らします。 あった! いやー、よかった! だめかと思っていたのよ! いやー、よかった! うれしくて抱きしめながら口走ってしまった私に、智博君は「失礼な!」と笑います。 女川中の受験生は全員、合格です。 それにも大喜びの智博君。 同級生を見つけて声を弾ませます。 肩越しに、顔をほころばせたお父さんが見えます。 その春の最高のニュースでした。 3月27日。
南風が吹き始め、朝9時の女川町は10度近くまで気温が上がりました。 その朝、智博君たちにとって中学校の最後の行事、離任式が体育館で開かれました。 防災担当の敏郎先生と学年主任の実先生の転勤が決まり、それぞれ挨拶に立ちます。 敏郎先生は涙声で切り出します。 「とうとう、この日が来てしまいました。今日が来るのがとても怖かったです。大好きな女川中学校と女川町にお別れします」 用意したメモを読み上げます。 「『笑顔と感動、瞳輝くまるこやま』という職員室のスローガンを先生が考えました。最初は職員室に小さく貼っていただけなんですが、だんだん学校全体のスローガンになって、そして震災後は私を支える言葉になりました。この丸子山でキラキラ輝くみなさんの瞳に本当に助けられました。震災で大変な思いもしましたが、その3年後に中学生が石碑を建てるなんて誰も予想しなかった。すごい。中学生は。つらいことがあっても、面白くなくても、それは自分次第です。生きている私たちは目を輝かせて未来に向かうこと。生徒のみんな、女川のみなさんに教えていただきました。今日も精いっぱい頑張って、そして家に帰ったら大きな声で『ただいま』と言いなさい」。メモから目を上げ、笑顔で言い添えます。「ありがとうございました。さようなら。バレー部、がんばれよ」 つづいてマイクの前に立った実先生は、何も手にせず、淡々と語ります。 「女川町に5年間お世話になりました。この校舎は4年間です。途中で大震災がありました。女川はとてもひどい被害に遭いました。みなさんもそうですね。先生もそうでした。それを支えてくれたのが、みなさん、特に卒業生のみなさんです。ありがとう」 実先生は、前の週に卒業生と交わした話を紹介します。「先生の目標は何ですか?」と問われて、すぐに答えられなかったことを打ち明けました。 「震災から自分の目標って考えられなくなっていました。でも思い出させてくれました。答えたのは『まっすぐに正直に』。昔からこの言葉で先生は頑張ってきました。それを、この3年、忘れていました。これを思い出させてくれて、ここから私を押し出してくれた卒業生、本当にありがとう。1年生、2年生、ありがとう。本当にありがとうございました」 拍手の中、先生たちは退場し、生徒たちも外へ。 卒業生は残りました。 実先生を引き留めて囲みます。 堰が切れたように、実先生の目から涙があふれました。 「ごめん・・・・・・」。声が詰まり、すぐに次の言葉を出せません。 「・・・・・・知っている人は知っていると思うけど、家がなくなって、家族なくして、つらくて、もう辞めようと何回も思ったけど、みんなが支えてくれた。たぶん、ほかの学校、ほかの学年の担当だったら、先生はやめていたと思う・・・・・・」 涙をふいて深呼吸します。 卒業生一人ひとりへ笑みを返しながら、しっかりとした大きな声で続けました。 「これからの元気をもらったのも、みなさんからでした。これからまた頑張れると思います。先生を支えてくれたように、みなさんそれぞれ力があります。頑張って下さい」 「私たちのほうから、エールを送りましょう」 竣哉君が呼びかけ、両手を後ろに組み、声を上げます。 「フレー! フレー! みーのーるー!」 智博君たち卒業生一同、声をそろえます。 「フレッ、フレッ、みのるっ、フレッ、フレッ、みのるっ」 竣哉君がもう一度、声を上げます。 「今まで本当にありがとうございましたー!」 ふたたび全員が声を合わせました。 支えられながら支えつづけた中学校生活が幕を閉じました。 この日も智博君は、合格発表の時のように晴れやかな笑顔でした。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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