日本列島に早くも猛暑が到来した2014年6月。 北海道でも35度以上を観測したのには驚かされましたが、牡鹿半島ではそれほど暑さに悩まされることはありませんでした。霧が出るためです。 写真は、私の通勤路、6月の東松島市大曲(おおまがり)です。霧が晴れると、震災後初めての早苗田を望むことができます。 以前は1枚あたり10アールだった田んぼを10倍の1ヘクタールに広げました。15年春には一帯のすべての田んぼが再生します。 写真は、女川浜です。上は2012年1月に、下は14年3月に撮影しました。そこは町の中心街でした。12年1月は、町役場と生涯教育センターを撤去する前でした。中央奥、高台に見えるのは中学校です。 一帯では、土を盛る工事を急いでいます。 宅地には、今回のような千年に一度の巨大津波が来ても届かないよう、10~15メートルほどの高さの土を盛ります。商業地には、100年に1度の津波には耐えられるように5~10メートルの高さの土を盛ります。 大型のショベルカーやダンプカーを使っています。あまりに大型な重機なので、道路を走らせることはできず、分解して運び込み、工事現場で組み立てました。町は、13年夏から一帯を立ち入り禁止にして、突貫工事を進めています。 11年9月の着任時、変わり果てた浜に立ち、胸が詰まりました。いままた、工事が進むにつれ、変わりゆく浜の光景に、胸が締め付けられます。 きなこ棒を抱えて歩いた道が、ぴいちゃんが綿あめを買ってくれた浜辺が、遠のいていくような寂しさを覚えてしまうのです。 14年3月末、中学校が立つ高台のそばに、町第1号の災害公営住宅が完成しました。 美智子さんは、入居を申し込もうと意気込んでいたのですが、いざ募集が始まると、気持ちがなえて、やめました。震災前に暮らしていた場所に「帰りたい」と思ったからです。 夢見るマイホームは、前に暮らしていた家なのです。 写真の左奥にありました。 「あそこから始まったので。かさ上げ工事の後でも、あそこに戻れたら、最高。風景がちがう。気持ちがちがうんです。全部ちがうんです」 そう美智子さんは語ってくれました。 2階建ての町営アパートでした。結婚生活を始めた場所です。10年ほど暮らしました。 玄関わきには、潜水士の夫が、海中で働く写真を飾っていました。千秋さんからの贈り物でした。カギを入れる木製のケースも置いてありました。千秋さん手作りのケースです。「WELCOME」の手書き文字もありました。玄関のその一角は、美智子さんのお気に入りのコーナーでした。 千秋さんは、いま、悩んでいます。 お店をどこに再建するか。 女川浜には、15年3月、JR女川駅が完成する予定です。駅から写真右奥の女川港へ向かって、長さ400メートルにわたり、町は歩行者専用道路をつくる考えです。震災前にはなかった新しい道路です。その幅は15メートル。 東京のコンサルタントや設計士のアイデアをもらい、まんなかの6メートル幅には、実がなる木や花が咲く木など、様々な種類の樹木を植え、公園のような空間をつくろうと構想しています。町は、その道路の一部、駅から長さ170メートルの両側に店舗を並べた駅前商店街を計画しています。 そこにお店を再建するべきかどうか。 ただ、そこは、住居が建てられない一画です。震災前は、自宅兼店舗でした。同じようにしたいと願うのですが、その願いをかなえられる場所があるのか。そして、駅前でも、どこでも、にぎやかなひとの往来が戻ってくるのか。 町第1号の災害公営住宅が完成するころから、町のひとたちと自宅再建についても話しやすくなりました。すると――。「公営に入るの?」「ううん、引っ越す」「女川で?」「女川じゃない」。町を出ていくひとが多いことを実感します。 震災前、町の人口は約1万人でした。あの日、町は827人をなくしました。それから3年のうちに、約2千人が町を出ていきました。町の正念場は、これからです。 ここ女川町へ来て、初めて知った言葉に「ぴいちゃん」があります。
「どなたのことですか」と尋ねると、「おっぴさんのこと」と言われました。 「ぴいじいちゃん」「ぴいばあちゃん」と呼ぶこともあります。 曽祖父母のことです。 ひ孫たちは親しみをこめて「ぴいちゃん」と呼びます。 敬意をこめて呼ぶときは「おっぴさん」です。 その言葉は、東北の被災地の底力を象徴している。私はそう思います。 この3年間、町の中学生たちは、「千年後の命を守るために」を合言葉に、津波対策づくりに取り組んできました。震災の記録を残すため、最初の語り部になった生徒は、今も行方がわからない曽祖父母への思いを打ち明けました。同級生は涙ぐんで耳傾けました。子どもたちにとって「ぴいちゃん」は掛け替えのない存在。家族の絆を表す言葉です。 千秋さんの7歳の孫娘は、3歳の思い出を、今も口にします。 「ホヤのぴいちゃん、お祭りのとき、綿あめを買ってくれた」 「ホヤのぴいちゃん」は、千秋さんの父のことです。祖父方の曽祖父、「畑のぴいちゃん」と区別して呼んでいました。 ホヤのぴいちゃんは、船乗りでした。震災時、船を沖へ出すために出港したきり、帰ってきませんでした。綿あめを買ってくれたのは、夏、女川港そばで開かれた「女川みなと祭り」のときでした。震災以降、祭りは休止しています。 花屋さんがある仮設の商店街には、定食屋さん、居酒屋さんもお店を構え、そこは牡鹿半島を中古のマイカーでめぐる私のベースキャンプでもあります。 2012年夏の昼下がり。 定食屋を出ると、千秋さんのお店の前に、孫娘が座っていました。手にはカフェオーレの紙パック。こんにちは、と私も隣に腰かけましたら、「どうぞ」と笑顔でカフェオーレを差し出してくれました。ありがとう、でも、のどはかわいてないから、だいじょうぶよ。それから、おしゃべりを楽しみ、憩いの時間を過ごします。孫娘が保育園の年長組の時です。 そのころ、お店にはベビーカーが置いてありました。 孫娘のマイカーです。 祖母の千秋さんが、手作りの免許証をベビーカーにとりつけてくれました。それを押しながら、9店舗が並んだ商店街を走り回っていました。「訓練の良いきっかけになりました」と母親の美智子さんは目を細めます。先天性脳性まひで、足に不自由があります。 花屋の千秋さんの長男夫婦には2人の娘がいます。いまは小学3年生と小学1年生。 3年生の子は、魚が大好き。さかなクンのようになるのが将来の夢です。2013年のクリスマスには、叔母の伶奈さんから深海魚の図鑑が贈られ、大喜びでした。 14年1月の夕暮れ時。 海上輸送用のコンテナでつくられた仮設の商店街は、まもなく閉店。私は、長男のおヨメさんの美智子さんと、2人の娘と、ストーブを囲みます。 3年生に尋ねました。好きな魚を教えてください。 「サメの中ではラブカ」 ラブカのどんなところが好きですか。 「ラブカの歯が好き」 まあ、どんな歯をしているんですか。 「こうなっているの」 さらさらと描き上げました。深海にすむサメの仲間だそうです。 おや、クリスマスツリーのようですが、これが1本の歯なのね。 みなさんにもおわかりいただけますよう、左は、私の描いたラブカの口元。そして、右は、3年生が描いてくれた歯1本の拡大図。説明も書き添えてくれました。 2013年7月14日。私は休暇をとり、仙台市民球場のスタンドにいました。夏の高校野球県大会です。健太さんの母校、県立古川高校が初戦に挑んでいました。 私はタオルを振り回し、声を張り上げます。 隣に、健太さんの彼女と、お父さんも座っています。 タオルは、11年11月、健太さんをしのぶ会の参列者たちへ渡すため、彼女がデザインして作ったものです。みんながスポーツ観戦に行く時、どうぞ、一緒に連れて行ってもらえますように。そんな思いがこもったタオル。端に記した数字の「2」は背番号です。 両親が署名活動を始めたのは、2012年12月1日でした。 仙台の街頭に立ちます。 お父さんは、用意した横断幕の前でハンドマイクを手に、署名を呼びかけました。 この日の最高気温は4.7度。北北西の風が吹き付け、氷点下のような寒さを感じます。 マイクを握るお父さんの手は真っ赤です。 手袋をしたらいかがですか、と私が話しかけると、お父さんは「いや、健太に笑われてしまう」。2時間、お父さんは素手を通しました。 両親にとって初めての署名活動。 お母さんは声が出ません。 誰にどう切り出したらよいかもわかりません。 手作りの看板を背負って、立ち尽くしていました。 健太さんの両親が署名活動を思い立ったのは、2012年の晩秋でした。 文言を吟味し、横断幕を用意し、準備に熱中する両親の横から、健太さんの4歳下の妹が口をはさみました。 「仙台で署名してくれる人なんて、いないよ。チラシだって、受け取ってくれるかどうか。署名なんて、仙台では全然期待できないからね」 冷めた口調でした。誰も署名なんかしない。そう思いました。その時になって両親が落胆することも心配でしたから、あえてクギをさしたかったのです。が、熱くなっているお父さんから「自分の兄貴のことなのに、なんだ、その言い方は」と叱られてしまいました。 2人きりの兄妹です。幼いころの写真を拝借しました。 牡鹿半島に赴任して2年が過ぎました。 この間、被災した建物の撤去は進みましたが、いまもまだ、地盤沈下で壊れた岸壁が所々にのこり、色あせた夏草におおわれた街跡地が広がっています。 今年10月、早朝の女川港を写しました。 そこにあった暮らしを思うと胸が痛む景色ですが、私は、この情景の中に身を置くほうが、仙台駅前の雑踏にいるより、落ち着きます。 10月末。仙台駅前のにぎわいは、別世界へ来たような違和感がありました。地元球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」の快進撃を応援する歌やメッセージが街中にあふれています。この街をどんな思いで歩いているのか……。私は、健太さんのお父さんの胸中を思いました。 お父さんの勤務先は仙台です。会社から徒歩数分先に、楽天の本拠地「日本製紙クリネックススタジアム宮城」があります。お父さんが仕事を終えて外へ出ると、会社前の通りは球場へ急ぐ人々であふれかえっています。明るい声が飛び交う中、お父さんは、ひとり背を向け、黙々と家路に着くのです。 あの日がなければ、お父さんも球場へ向かったでしょう。 長男の健太さんと連れ立って行ったでしょう。 一緒に興奮し、一緒に声援を送り、一緒に祝杯を上げたでしょう。 小学校から野球を始めた健太さんは、ずっとキャッチャーでした。県立古川高校3年の夏、県大会で8強入りを果たした記録は、いまなお、校史の中で輝いています。 試合中の健太さんはいつも声を出していました。ミットで胸をたたき、「俺に向かって思いきり投げ込め」というジェスチャーを繰り返していたそうです。 東京の大学でも野球をつづけました。就職活動は七十七銀行を第一希望に据えます。エントリーシートを朝一番に持参し、受け付け番号「1番」をもらいました。都市対抗野球でも活躍している銀行ですから、ずっと野球にかかわれると期待していたようです。 2011年3月11日、25歳の健太さんは、女川支店で勤務中でした。支店長の指示の下、2階建て支店の屋上へ避難し、津波で流され、約半年後の9月26日、海で見つかりました。葬儀を終えても、両親は遺骨を手放せませんでした。 12年夏、お父さんはようやく、お墓をつくろうと心を決めました。墓所を案内していただきました。裏山を見上げ、お父さんは「桜の木を植えられるかな」とつぶやきました。 家を離れてしまう息子に、愛用のミットを持たせたいと考えました。 一緒に仙台まで買いに出かけたミットです。その日の曇天を、お父さんは今も覚えています。健太さんはそのミットで高校生活最後の夏の試合に挑みました。 お父さんたちは、墓石メーカーを通じ、彫刻家に頼みました。 縫い目一つひとつが再現されました。使い込まれた黒ずみも。 まさしく、ボールをつかんだ健太さんのミットです。 震災後、お父さんたちは銀行に何度も問いました。支店から走れば1分で行ける高台がありました。そこは町の指定避難場所です。なぜそこへ行かなかったのか。 銀行の避難のマニュアルには、津波の時は「指定避難場所または支店屋上等の安全な場所へ避難」と記してありました。そのため、銀行は、支店屋上への避難は「問題なかった」と繰り返します。議論は平行線をたどりました。 12年9月11日、お父さんたち3家族は裁判に踏み切りました。 その後、休日のたび、仙台市の街頭で、あるいは支店跡地の前で、銀行に対して原因究明と再発防止策の確立を求める署名を募っています。ある日は70人、ある日は140人、とコツコツと集めた署名の人数は1万人を超えました。 あの日から、お父さんは、野球中継を見ることも、スポーツ記事を読むこともできずにいます。「楽天のニュースは、東北の人々にとって大変喜ばしいことです」と語ります。でも、そのニュースに目を凝らすことはできません。 楽天が日本一を決めた翌日。女川町に隣接する石巻市のショッピングセンターは優勝セールでにぎわい、大通りには駐車場の空きを待つ買い物客の長い車列ができました。 その日も、お父さんたちは、朝から夕方まで、支店跡地の前で署名を呼びかけていました。空は、雨をふくんだ灰色の雲におおわれていました。 今年3月6日。震災後初めて漁師さんは船を出しました。カキ養殖の船より大きい7.6トンの船です。午前2時過ぎに女川港を出発。午後4時前に戻りました。 水揚げするのはメロウド。漁師さんの顔に笑みがこぼれます。メロウドは細長い魚です。その稚魚はコウナゴです。 メロウド漁は、漁師さんが小学生の頃、父親が手がけていました。その後、父親はカキ養殖に専念し、そこに漁師さんも加わりました。17年前、「やっかぁ」と父親が言い出し、漁師さんも「やっぺぇ」と応じ、漁を再開しました。2人とも、メロウド漁が好きでした。港から80キロほど沖へ。メロウドの群れを探す手がかりは、水際に集まるカモメと、海面を跳びはねるオットセイの動き。彼らもメロウドを探しています。 見つけたら、舳先から、電信柱のような、長さ13メートルの棒2本を一気に海中へ。重さ数百キロの棒の名称は「アゾ」。2本の間に取り付けられた網を広げ、魚群をすくいとります。アゾは機械で動かしますが、その機械はひとの手で操作します。カモメやオットセイに先駆け、網にオットセイをひっかけず。このタイミングを体得するのに「10年かかる」と漁師さん。いまでも「毎日が勉強だっちゃ。生き物とるんだもの」。 漁期は3月から5月。「春を告げる魚」とも呼ばれています。カキのシーズンが終わる頃なので、養殖と両立できます。メロウド漁の話になると、声が弾みます。 「網を起こしている時も楽しい。船にいっぱい積んでいく時も楽しい。とるというのは面白い」 にぃには、小学生の時に二度、漁に連れて行ってもらいました。オットセイを見たいと思ったのです。メロウドの群れがいると、水の色が変わり、海は赤黒くなる、とも聞きました。ところが、一度目は、しけの日。漁の最中、ずっと横になっていました。「次はしけない時に行きたい」と頼みました。二度目は、近い漁場へ。カモメの群れをおっ父に教えました。「よく見つけたな」。おっ父が褒めてくれました。 にぃには、えらいな。私はすぐに船酔いするので、漁の取材は敬遠しているのです。そう申し上げると、漁師さんは「誰でも酔う。おれも酔う。あれは慣れだよ」。震災前は海の状況がよければ、毎日のように出漁しました。家事も育児もこなさなければならない今年は、週2、3回しか漁に出られません。春は、学校も保育園も、運動会や授業参観の行事が続きます。体は慣れず、船酔いがつづきました。仮住まいの狭い部屋では体も休まらず、腰痛にも苦しみました。 母親と妻に代わり、家事を引き受けるものの、四苦八苦の毎日です。3人の子の遠足が相次ぎ、3人目のお弁当を作り忘れ、コンビニへ走ったこともありました。小学生の子の合宿に「何を用意したらよいのか」と途方に暮れたこともあります。「漁師って言っても魚さばかれねぇ。男なんて、そんなもん」と漁師さん。炊飯器も洗濯機も、初めて使います。電子レンジはまだ使いこなせません。仮設の集会所の「男の料理教室」でレバニラ炒めを習い、それが食卓の定番になりました。子どもたちに言います。 「おれたちは、生きるか死ぬか、しかねぇんだ。おいしいか、おいしくないかのレベルではない」 「おめえら、うちは不良をする暇はねぇぞ」 漁師さん自身、3人の子がいないところで「うつになっている暇はねぇんだ」と涙をぬぐい、自分を奮い立たせています。 子どもたちもわかっています。にぃにも、ねぇねも、あれを食べたい、これを買って、とせがんだことはありません。にぃには、おっ父の前では泣きません。ねぇねが、おっ父の胸で泣いたのは一度きり。友だちの家で遊んで帰ってきた時のことでした。友だちの母の姿に、おっ母の不在が耐えられなかったのです。その後はもう涙を見せません。 今年春。漁師さんが出かけた後の仮設住宅で、にぃにに尋ねました。メロウドのどんな料理が好きですか。 「刺し身とか。みそ汁もおいしい」 みそ汁は、ばっぱがよく作ってくれました。 家事が苦手な漁師さん。ですが、仮設住宅では早朝から洗濯機を回し、朝食を作り、働き通しです。船上にいる時と同じですね。台所はつねに整理整頓が行き届いています。今年夏。きれいな台所にカメラを向けましたら、大王さまが喜び勇んでやってきました。4歳のカメラマンと交代しましょう。台所を背に、11歳の姉が、妹のために、はい、ポーズ。 |
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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