震災から2年半。いまも女川港の近くに、あの日の記憶をとどめる、3棟の倒壊ビルが残っています。全国から視察に来る人々の多くは、この3棟の前に立ち寄ります。その人々は気づいていたでしょうか。3棟のそばにある文学碑に。 高村光太郎の文学碑です。1931(昭和6)年、光太郎は三陸沿岸の旅の中で女川港も訪ね、素描画や散文、詩を書き残しました。のちに、それを知って感激した町の青年が立ち上がりました。養鶏業を営みながら画業にも励み、町の広報誌にも素描画と散文を連載していた貝廣(かい・ひろし)さんです。貝さんが中心になり、1986年から一口100円の募金活動を始めました。3721人から計約1千万円が集まり、91年、3基の碑が建ちました。 2011年3月11日。1基は流失しましたが、1基は向きを変えながらも津波に耐えました。もう1基、幅は10メートルで、高さは2メートルの碑は、波に引き倒され、天を仰ぎながらも、大地を離れませんでした。写真は、昨年夏、あの日のままに残る2基です。 昨年暮れの夜。女川町の仮設住宅に漁師さん親子を訪ねました。玄関のドアを開けたら、そこは台所。ドアの前のマット1枚分が、玄関スペース。約30平方メートルの2DKです。 居間から可愛い声がします。 「パパ、お水ちょうだい」 漁師さんが、水を注いだコップを持ってきます。中学生の兄と小学生の姉が笑います。 「大王って呼んでいるんだ」。兄が教えてくれました。 「だって、のど、かわいたんだもん」 保育園児の大王さまは、澄ましたお顔。次に、漁師さんは、大王さまの前に器を差し出します。サイコロ状に小さく切った焼き餅に納豆をからめてあります。「あーん」。大王さまのお口へ、漁師さんが焼き餅を運びます。次はお薬。大王さまはお風邪なのです。咳き込みました。漁師さんはすばやく察知して、器を差し出し、もどしてしまった子の背中をさすります。器をのぞいて「薬も出ちゃったかなあ」と漁師さん。でも、すっきりしたよう。大王さまは、ケロリとしたお顔で、私が控える、ちゃぶ台へ。 その夜、私は折り紙を持参しました。年の瀬の新聞に載せるため、子どもたちに年賀状を作ってもらいます。前の晩、はがきを手に参上しますと、大王さまが黒ペンで一気に仕上げてくれました。現代美術の巨匠ジャクソン・ポロックのような絵です。すてきですね。でも、きょうだい3人で仕上げてもらいたいの。どうしたらいいかな。思いついたのが、ちぎり絵でした。大王さまは折り紙を手に「わたし、ピンク、好き。水色、好き」。 ふだん大王さまは、兄を「にぃに」、姉を「ねぇね」と呼びます。ねぇねは、黙々と、ちぎり絵で花畑を描いています。大王さまもちぎってはみたものの、すぐにあきてしまい、ハサミで切って、テープで貼って……。ふと、大王さまが、ねぇねに目を向けると、はがきの上に色とりどりの見事な花畑が出来上がりつつあります。 「あれ、わたしも、ほしい」 大王さまはちょっと泣き声です。 震災前の夏。ここ牡鹿半島の入り江には、青色のキャンバスに黄色や赤、黒の点描をほどこしたようなカラフルな海がありました。ここではカキやホタテの養殖が盛んです。養殖に使うプラスチック製の浮き樽や浮き球が、海を彩っていたのです。 今年7月、女川湾の北、尾浦(おうら)で、私は漁師さんの船に乗せていただきました。小雨に煙る海の色調は、モノトーンではありますが、水面には浮き樽が秩序正しく並び、なつかしい海の色彩を少し取り戻していました。 女川町へ通じる国道398号は、海沿いにカーブがつづく片側1車線の道路です。ダンプカーが車線をはみだして向かってくることもあり、注意しなくてはなりません。対向車線に青いバスを見つけることがあります。町民バスです。目を凝らすと、29人乗りの小さなバスの運転席には祐子さんのご主人。手をふる私に気づき、すっと右手をあげてくださいます。よし、私もがんばるぞ、と力がわいてきます。 バス運転手として再就職が決まったことを誰よりも喜んでくれたのは、祐子さんでした。ご主人は思っています。バスに乗せてあげたかった……。 「だから、毎日、一緒なんです」 運転免許証には祐子さんのお写真をはさんでいます。 町民バスは、町のすべての仮設住宅をめぐり、仮設商店街や病院と結びます。昨年度は20311人が乗車しました。無料です。誰でも乗れます。今年5月初め。私もご主人が運転するバスに乗りました。車窓の景色をご覧ください。 女川港から国道を東へ約3キロ走ると、女川湾を望む高台に着きます。崎山(さきやま)公園と呼ばれ、滑り台やシーソー、ジャングルジムがありました。遊具だけ見れば、どこでも目にするような公園です。 震災から間もなく2年を迎える日曜日。私は女川町の塚浜(つかはま)へ出かけました。女川港から海岸伝いに南東約15キロ先にある浜です。浜から1キロほど先には東北電力の女川原子力発電所があります。その日、祐子さんのご主人も一緒でした。 浜辺を一緒に歩きました。冬枯れの草むらに洗面器やバケツが散らばっています。扇風機の羽根がありました。洗濯機のふたもありました。ストーブの灯油タンクもありました。「しらすふりかけ」の文字が残る錆びた空き缶も──。2年前、そこには扇風機が回っていた夜があり、洗濯機が音を立てていた朝があり、ストーブで暖まった人がいたことを思います。 奥の山ぎわまで歩きました。大木が立っていました。立派な枝を千手観音のように広げています。女川町が天然記念物に指定したタブノキです。樹齢300年以上になります。これから町は山を切り開き、今回の規模の津波があっても浸水しない高台に宅地を造成します。タブノキが造成後もそこに残るかどうか、まだわかりません。 昨年暮れのことです。女川町役場の取材を終え、女川港へ急いでいると、車から妙な音がします。路肩に止めて点検すると、後輪のパンクでした。 さて、どうしたものか。2キロほど先のバイク店へ向かいました。店主は一目で「ここにクギが」。慣れた手つきでタイヤからクギを抜き取り、10分もたたずに修理は完了。 そのクギがこちら。大きさを見ていただくのに、本と一緒に置いてみました。 床屋さんでは、おっ父が男性客、おっ母が少年客と私の担当です。 ほかにお客さんがいない時、「お茶っこ飲んでって」とおっ母は勧めてくれます。入り口そばの丸椅子に腰掛け、コーヒーをはさんで、床屋談義に花が咲きます。 「お茶っこ」。東北育ちではない私も、このごろ、この言葉が口をついて出るようになりました。お菓子を持参して「お茶っこの時にどうぞ」。もう一つ使うようになったのは「学校さ行くので」。取材を控えている時はそう申し上げ、お茶っこを辞退します。 店舗は、夫妻の仮設住宅から徒歩15分ほど先。コンテナを利用した小さな仮設商店街の一画にあります。店内の客席は当初、美容院専用の椅子でした。今は、寄贈された床屋専用の中古の椅子を活用しています。 昨年秋、お店の奥から、また、お店の入り口から撮らせていただいたおっ父とおっ母の写真をご紹介しましょう。 2011年11月、私はおっ母と再会しました。女川町で最後の仮設住宅144戸が完成した日です。床屋さん夫妻も約8カ月におよんだ体育館での避難生活を終え、仮設住宅へ移りました。その引っ越しの最中、またお会いできたのです。 引っ越し先は、体育館裏の野球場に建てられた3階建ての仮設住宅です。 震災後、町の人々のために仮設住宅1294戸が建てられました。町内は敷地が限られるため、290戸は隣接の石巻市に建てられました。が、それでも間に合わず、町は海上輸送用コンテナを利用し、45戸は2階建て、144戸は3階建てで造りました。 |
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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