緊急事態に備えるべく、憲法を改正しておくべきだという議論がある。実際には、現行法制上も、災害対策基本法や各種の有事立法、さらには警察法第6章の「緊急事態の特別措置」等、緊急事態への対処を目的とする立法は数が多い。それなのに、憲法を改正してまで、さらに緊急事態に備えるべきだという議論は──まっとうな議論として受け止めればだが──次のような理屈なのであろう。
今でも緊急事態に備えた立法がいろいろと揃っていることは分かるが、実際に現在の法制度で十分に対処できるかどうかは、その場になってみないと分からない。その時になって法律を急拵えで作るとしても、国会の召集とか、衆参両院の審議をするとか、いろいろと時間もかかるだろう。内閣だけで制定できる政令で、法律と同等の効力をもって対処できるようにしておく方がよいのではないか。 それなりに筋は通っているようだが、本当にこれでよいのだろうか。未来のことはたしかに分からない。何が起こるか分からないのだから、いくら整っているとはいえ、現在の法制度で対処できない事態が発生する可能性も、小さいとはいえ起こらないとは限らない。理屈としてはたしかにそうであろう。しかし、何が起こるか分からないから、何にでも対処できるようにしておこうとすると、とてつもなく広い権限──ここでは法律と同等の効力を持つ、つまり既存の法律も改廃することもできる効力を有する政令を発する権限を政府に与えなければならないことになる。 緊急事態に対処するための政府の権限は濫用されるものである。権限が広ければ広いほど、濫用されるリスクは高まる。悪くすると、ワイマール共和国での緊急事態権限がそうであったように、既存の政治体制を守るための権限が、既存の政治体制を根幹から覆す手段として使われかねない。何が起こるか分からないことのすべてに対して、予め備えておこうとすること自体に、とてつもないリスクが含まれている。 ではどうするのか、何の備えもなくてよいのか。 前述したように、それなりの備えは現在でもある。しかし、それでは対処できない事態が発生するリスクは、たしかにある。さて、そのとき、政府はどのような行動に出るであろうか。法律が我々に与えている権限はここまでだ、それ以上のことをすると法律に違反することになる。緊急事態に対処するためには必要なことなのだが、法治国家の政府として、法律違反の措置はとれない。やはりやめておこう──それが政府のとるべき態度だろうか。 ダイシーの『憲法序説 An Introduction to the Study of the Law of the Constitution』第10版は、「法の支配the rule of law」に関する第2篇の末尾で、政府はときに、法の支配に反して行動すべき場合があると言う(pp. 412-13)。 暴動や侵略により、法治体制を守るためにも、法に違背せざるを得ない場合はある。政府がとるべき行動は明白である。内閣は法に違背した上で、議会が事後的に免責法(Act of Indemnity)を制定することを期待すべきである。この種の法の制定は、議会主権の究極にして最高の行使である。免責法は違法行為を合法化する。それは、いかにして法と議会の権威の維持と危機の際に政府が行使すべき権限とを組み合わせるかという・・・実践的問題を解決する。 |
Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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