デレク・パーフィットによると、われわれが日常的に想起し、従おうと心がける義務の多くは、自分と特別な関係にある人々に対する義務、つまり家族や友人、恩人や同志、同僚などに対する義務である。こうした濃密な人間関係における義務は、希薄な関係しかない人一般に対する義務に優越する(Derek Parfit, Reasons and Persons (OUP 1984), p. 95)。
10年以上前になるが、筆者は基本権保障に関する内国人・外国人の区別は、濃密か希薄かという違いで説明できるかという問題を検討したことがある(拙著『憲法の理性』(東京大学出版会、2006)第8章)。結論はこの違いでは説明できないというものであった。各国政府が自国民の基本権保護を第一義的に任務とするのは、それが地球全体として人権保障をはかるための効果的手段だからである。あくまで人一般を対象とする希薄な義務を実現しようとしている。 濃密か希薄かというこの問題をもう少し考えてみよう。議論を単純化するために、濃密な人間関係で当てはまる義務を倫理(ethics)、希薄な人間関係で当てはまる義務を道徳(morality)と呼ぶことにする。つまり、倫理は道徳に優先する(Avishai Margalit, On Betrayal (Harvard University Press, 2017)の言葉遣いを借用しています)。 日本の民事訴訟法・刑事訴訟法は、証人尋問において、近親者が刑事訴追を受け、または有罪判決を受けるおそれのある証言を拒むことができるとする(民訴196条、刑訴147条)。人一般としては証言すべき義務がある。しかし、近親者が罪に問われるおそれがあるときは別である。 教科書類では、こうした場合でも証言を強制するのは情において忍びないし、強制しても真実を語る保証がないからという説明がされている。つまり、本当は人一般の義務に従って真実を語るべきなのだが、こうした特殊な事情の下では、非合理的な「情」に支配されるために、人としての本来の義務を果たすことができないから、というのが根拠だということになっている。法の観点から見れば、そうなのかも知れない。しかし、親兄弟が罪を問われることになっても、必ず真実を述べることが人としての本来のあり方と言えるのだろうか。 |
Author長谷部恭男
(はせべやすお) 憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。 *主要著書 『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年 『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992年 『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999年 『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000年 『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年 『憲法とは何か』岩波新書、2006年 『Interactive 憲法』有斐閣、2006年 『憲法の理性』東京大学出版会、2006年 『憲法 第4版』新世社、2008年 『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年 『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年 『憲法の円環』岩波書店、2013年 共著編著多数 羽鳥書店 『憲法の境界』2009年 『憲法入門』2010年 『憲法のimagination』2010年 Archives
3月 2019
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