今回の衆議院選挙においても言語道断な女性比率は相変わらず。その結果に怒り、その怒りがメディアにしかるべく反映されぬことにも、ふつふつと怒りを覚えている女性たちが、はたしてどのぐらいいるか。少なからずいるはず、と信じることにします。
なにしろ内閣府男女共同参画局には「各分野における指導的地位」の女性比率について「2020年30%の目標の実現に向けて」というサイトが麗々しく立ちあがっているのに(2020年までにあと2年!)、政権与党である自民党の当選者の女性比率は、なんと7.7%なのであります。しかも、政権担当者たちは努力目標ですらない空手形の公約など、すっかり忘れたかのように、恥じる気配もありません。興味深い数字は、分裂した野党二党に関するもの。女性が代表を務めていた希望の党は47名の女性候補者を立てながら当選はわずか2名、にわかづくりの立憲民主党は19名の女性立候補者のうち12名が当選(『朝日新聞』10月25日)。この奇妙な歪みは何を意味するか。まっとうな市民生活から政党政治があられもなく乖離しているとしかいいようがありません。 結果として、女性の意志や知性や生活条件を反映する議席が1割しか与えられなかった。じつは政治の世界と知の世界には、もし適正に数値化することが可能であれば、ほぼ同等の男女格差がある、日本では「ガラスの天井」どころか、はるかに低いところに「1割の壁」があって道を塞いでいる、と経験的に感じています(*1)。ともかくこれでは「パリテ法」(男女同数への権利)を発議したくともできない。「代議制民主主義」の大原則からしても、すべての個人に政治的自由を保障すべき「人権」の理念に照らしても、日本の現状は、明らかに不整合なのではありませんか。ここは「指導的地位」におられる9割の男性の方々に、つよく求めておきましょう――「異性の問題」としてではなく「政治の問題」「社会の問題」として、この格差の由来を考え、それぞれの立ち位置から発言していただきたい、と。 さて本日とりあげるのは「二本のネクタイ」という寓話。二本のネクタイのうち好きな一本を選ぶように、自由に男か女かを選べるという解説はまやかし、誤魔化されてはダメ、という厳しいお話です。女性への聖職授与を認めぬカトリック教会の論理構造を批判して、ある人類学者いわく――神さまは二本のネクタイの好きな方を選んだわけではない、社会の鋳型から考えて、それ以外にはありえぬ一本を選んだだけであり、社会は啓示宗教が登場する以前から、男性を上位においてきた。神の子たるものが、性の混乱を象徴する両性具有に生まれてくるわけにはいかなかったのであり、かりに神の子が、規範に反して二本のネクタイを首に巻くような具合に、両性具有に生まれていたら、聖職者の選択の可能性は大いに狭められたことだろう、とユーモアをまじえた考察がつづきます。 |
Author工藤庸子 Archives
12月 2018
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