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*本連載は、長谷部恭男『憲法学の虫眼鏡』として書籍になりました(2019年11月)。ここをクリックして編集する.

その10 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない

10/23/2017

 
日本国憲法9条2項は、政府が「陸海空軍その他の戦力」を保持することを禁じている。この条文に照らして、自衛隊は憲法違反であると主張する人がいる。最初にお断りしておくと、いわゆる安保法制が可能とした集団的自衛権の部分的行使が憲法違反であるか否かと、この問題は別である。9条2項に照らして自衛隊は憲法違反だと主張する人は、自衛隊による武力の行使が個別的自衛権──日本が直接に攻撃されたとき、それに対処するため必要最小限で武力を行使する権利──に限られているとしても、なお憲法違反だと主張する人である。
 ここには、二つのレベルの異なる論点がある。言語哲学のジャーゴンでいうと、意味論上の論点と語用論上の論点である。
 
意味論上の論点は、「戦力」という概念は当然に、あるいは少なくともその核心的な意味において、自衛隊を含むのか、という論点である。他方、語用論上の論点は、かりに自衛隊が「戦力」という概念に含まれるとしても、結論として自衛隊の保持は憲法違反といえるのか、という論点である。
 戦力ということばは、いろいろに理解できることばである。歴代の政府は、このことばを「戦争遂行能力」として理解してきた。war potential という条文の英訳(総司令部の用意した草案でも同じ)に対応する理解である。9条1項は、明示的に「戦争」と「武力の行使」を区別している。「戦争遂行能力」は「戦争」を遂行する能力であり、「武力の行使」を行う能力のすべてをおおうわけではない。そして、自衛隊に戦争を遂行する能力はない。あるのは、日本が直接に攻撃されたとき、必要最小限の範囲内でそれに対処するため、武力を行使する能力だけで、それは「戦力」ではない、というわけである。
 これに対しては、「戦争」もいろいろだという異論があり得る。二度の世界大戦は明らかに「戦争」である。しかし、より当事者も地域も限られたフォークランド紛争や六日戦争も「戦争」と呼ばれることがある。「交通戦争」や「ブタ戦争」のような明らかに比喩的な意味のみで用いられている事象を除いたとしても、武器をもって複数当事者が戦う紛争であれば、小規模なものであっても「戦争」と呼ぶのはおかしいとまではいいにくい。そうなると、ピストルで武装する警察組織も「戦力」なのであろうか。警察は違うとして、沿岸警備にあたる海上保安庁は違うのか。海上保安庁が沿岸警備のために必要だとして、小型の艦対艦ミサイルや艦対空ミサイルを備えたらどうなるのか。
 ここにあるのは、いわゆる「山のパラドックス paradox of the heap」である。落ち葉が何枚集まると「山」になるだろうか。一枚の落ち葉では山ではない。二枚でもそうではないだろう。N枚のとき、まだ山ではないとすると、N+1枚になったとき、途端に山になるとは考えにくい。となると、いつまでたっても山にはならないのか。そんなはずはないのだが、しかし、どこで山になったかを見分けることは、そう簡単ではない。自衛隊が「戦力」であるか否かを見分けることも同様である。歴代の政府の理解が、あり得ないおかしな理解だというわけではない。
自衛隊が9条2項にいう「戦力」に当然にあたるという結論は、当然の結論ではない。
かりに自衛隊が、9条2項にいう「戦力」にあたるのだとしよう。となると、自衛隊を組織し、維持することは憲法違反なのか、というのが、次の語用論上の問題である。いいかえると、9条の「解釈」の問題となる。
 そんなことは考えるまでもない。当然に憲法違反だと答える人もいそうであるが、ことはそう簡単ではない。
 法哲学者のH. L. A. ハートが提起した事例問題として、ある公営の公園について「この公園への車の立ち入りを禁ずる」という条例があるとしよう、というものがある(『法の概念』第Ⅶ章第1節)。ところがある日、公園内で心筋梗塞を起こした人がいて、救急車が呼ばれた。救急車は、その名の通り、意味論上はどう見ても「車」である。となると、病人を助けるために公園に立ち入ることは許されないのか。
 いろいろな答え方がある。立ち入ることはできないのだというのも一つの答え方だが、これはあまりにも非常識であろう。病人の命はどうなるのか。となると、上記の条例は、通常の状況の下でのみ妥当するものであって、緊急時は別であるとか、上記の条例は、自動車一般には当てはまるが、警察車両や救急車のような緊急時に対応すべき車両がその任務を遂行するために立ち入るときは、当てはまらないという答え方が考えられる。良識にかなった具体的結論が導かれるよう、条例の趣旨や目的に照らし、対立する諸利益を勘案しながら条文を「解釈」するわけである。
 同じことは、自衛隊が9条2項にいう「戦力」にあたるとしても、同じように生ずる。日本に対する直接の武力攻撃が行われたとき、それに対処すべき実力組織が全く存在しないという状態で、何が起こるだろうか。それでも構わないのだというのも一つの答え方ではある。しかし、国民の生命・財産はどうなるのか。われわれの暮らし、われわれの社会のあり方が破壊されようとしているのに、全くそれに対処しないのか。アメリカの有名な裁判官であるロバート・ジャクソンのことばに、「憲法は集団自決の誓約書(suicide pact)ではない」、というものがある。集団自決の誓約書であるかのように、憲法の条文を理解すべきではないという指摘である。それは馬鹿げている。
 そうなると、9条2項の解釈が必要となる。日本に対する直接の武力攻撃が行われたとき、それに必要最小限の範囲内で武力を行使して対処するための組織──個別的自衛権を行使するための組織──は、やはり保持することが許されるという結論が、解釈の結果として従来、維持されてきた。
 日本国憲法の起草と審議にかかわった人たちが、当時からそうした解釈をとっていたことは、多くの資料で確認することができる。憲法の公布と同じく1946年11月3日に政府によって刊行された『新憲法の解説』(現在では、高見勝利編『あたらしい憲法のはなし 他二篇』(岩波現代文庫、2013)所収)は、9条に関する箇所で、将来、日本が占領状態を脱し、国連に加盟したときは、当然に自衛権は行使できると指摘している。内閣法制局が当時からそうした立場をとっていたことは、たとえば、佐藤達夫『日本国憲法誕生記』(中公文庫、1999)126頁以下でも、説明されている。
 他方、自衛隊は憲法違反だと主張する人々は、自衛隊は当然に9条2項にいう「戦力」にあたると主張するだけでなく、解釈論のレベルでも、自衛隊を組織・保持すべきではないと主張する人々である。つまり、9条2項は、集団自決の誓約書として理解すべきことになる。そうした結論を正当化する根拠はあるだろうか。憲法の条文が根拠だという主張は意味をなさない。なぜ、その条文からそうした結論を導き出すことが正当化されるのか、その理由を訊いているのだから。
 かりにそうした理由があり得るとすれば、それは、ただただ敵に殺害され、傷つけられ、財産を奪われること、何の効果的な抵抗もしないことが、人としての「正しい生き方(あるいは死に方)」だから、という理由でしかあり得ないであろう。そうした立場はたしかにあり得る。新約聖書でイエス・キリストは、「右の頰を打たれたら、左の頰を向けよ」「あなたたちの敵を愛せ」と教えている(マタイによる福音書 5:38-44)。
 しかし、この立場をすべての国民に押し付けることは、特定の価値観・世界観をそれを共有しない人々にも押し付けることである。それは、多様な価値観・世界観の存在を認めた上で、それらの公平な共存を目指す近代立憲主義と真っ向から衝突する。
イエスの上述の教えについて、マルティン・ルターは、現世でそのまま実行することに反対している。イエスの教えは真のキリスト者についてのみ当てはまる教えである。しかし、この世に真のキリスト者はきわめてわずかである。大多数は悪人である。狼と羊を共存させれば、羊は平和を守るであろうが、遠からず死に絶えるだろうと、彼は予測する(『現世の主権について』(岩波文庫、1954))。どうしても殺されたい、という人はいるかも知れない。しかし、人を巻き添えにするべきではない。
 
以上のような議論は、「解釈」に関する理論、つまり「解釈理論」のレベルでは、どのように説明することになるだろうか。
 現代の主要な法哲学者の一人に、ロナルド・ドゥオーキンがいる。彼は、主著『法の帝国』において、法を理解することは、つねに法を解釈することを前提とすると主張した。筆者はこの主張は、首尾一貫した議論として成り立ち得ないもので、賛成できないと考えている。上述の意味論上の論点と語用論上の論点の順序からも分かるように、法の理解こそが法解釈の前提であって、その逆ではない(この点については、拙著『法とは何か』〔増補版〕(河出書房新社、2016)第8章参照)。ただ、その点はさて措くとして、かりにドゥオーキンの立論に従うなら、論点は次のように整理できる。
 ある法律問題を解決しよう、答えを出そうとしている人がいる。彼の目の前には、関連する法令の条文、数々の先例や実例がある。しかし、これはまだ「解釈前」の状態である。彼は、そうした条文や先例・実例と可能な限り整合し、しかも全体として説得力に富む、道徳的に正当化し得る解釈を構成する必要がある。そして、この解釈をもとに、具体の問題に回答を与える。
 つまり、ドゥオーキンの立場からすると、斯く斯く然々の条文があるというのは、解釈の素材がそこにある、という出発点を示すにすぎない。最終的には、もっとも説得力があり道徳的に正当化できる結論を導き出す必要がある。しかし、自衛隊が憲法違反でその組織も保持も許されないという結論は、道徳的に正当化可能であるとも説得力に富むとも言い難い。9条2項を集団自決の誓約書として理解すべきだというのだから。ドゥオーキンの解釈理論からすると、自衛隊が憲法違反という結論は維持し難いであろう。
 ドゥオーキンの生前、その論敵であったジョゼフ・ラズの立場からすると、どうなるだろうか。ラズの議論の出発点にあるのは、「法の権威」に関する標準的な理解である。そもそも、人はいかに生きるか、いかに行動するかを自分で判断し、自ら行動するものである。しかし、法は「自分で判断しないで、私のいう通りにしなさい」と主張する。なぜなら、「そうした方が、あなたが本来とるべき行動を、よりよくとることになるから」というわけである。
 自動車を運転して四つ角にくる度に、止まろうか、そのまま進もうか、と考えるのではなく、信号が赤であれば止まり、青であればそのまま進むようにした方が、本来あなたがとるべき行動──スムーズに、かつ安全に自動車を運行する──をよりよくとることができる。
 いいかえれば、法はわれわれの実践的判断の補助手段である。一々自分で改めて考えなくても、とるべき行動を指示してくれる、だからこそ法には従うべき理由がある。
 9条2項は自衛隊の保持を禁止している、だから保持すべきではない、という結論がかりに同項の示す確定的な結論だとして、そうした結論をとることは、われわれが本来とるべき行動をよりよくとることになるのだろうか。そうだという人もひょっとするといるかも知れないが、筆者にはそうは思えない。非常識でもあるし、近代立憲主義の理念にも反する。それは本来とるべき行動ではない、という人がむしろ大多数であろう。
 そうだとすると、かりに9条2項が自衛隊の保持を確定的に禁止しているとしても、そうした結論には従うべきではないということになる。それでもなお従う、というのは、スピノザの言い回しを使うなら、紙とインクに対する物神崇拝である。法である以上はナチスの法にも従うべきだとはいえないように、従うべきでない法に従うべきではない。法に従うべきではないのであれば、いかに行動するかは、自ら判断するという本来の原則に戻ることになる。
 ただし、憲法の名宛人は、個々の市民ではなく、国会を含めた政府の諸機関である。憲法が頼りにならない、政府の諸機関がそれぞれ自分で判断するということになると、憲法によって政治権力を拘束するという、最低限の意味での立憲主義が失われることになりかねない。
 となると、憲法の条文がそうした確定的結論を示しているという前提を疑ってかかる必要がある。そうした前提に代わって、政府諸機関が従うべき指針を設定する必要がある。つまり、9条2項の趣旨・目的に沿った、しかも対立する諸利益を勘案した適切な結論を導き出す条文の解釈が必要となる。有権解釈である。英語に直すとauthoritative interpretation である。政府諸機関が「権威 authority」として従うべき指針が示される。歴代の政府が示した有権解釈は、9条は、個別的自衛権を行使する能力を備えた組織、つまり自衛隊を保持することは、禁止していないというものであった。9条2項は、自衛隊の保持を確定的に禁止するルールとしての意味は持たない。平和を希求する日本の国是に照らしつつ、国民の生命・財産・生活を守るための実力の行使およびそのための組織を最小限に抑止する原理として理解すべきである。
 
9条がありながら自衛隊を保持することには矛盾があるので、9条の条文を変えるべきだという議論がある。以上で示してきた通り、その必要はないというのが結論である。9条を適切に「解釈」することで、自衛隊を保持することは、十分に正当化できる。保持すべきでないという結論は、特定の価値観に基づく集団自決の誓約書として憲法を理解すべきでという主張である。良識よりはむしろ、自説に対する確信に満ちあふれた人のみがなし得るヘンな主張である。
 かりに9条の条文を変えたとしよう。何が起こるであろうか。今まで、政府が積み重ねてきた有権解釈は、現在の9条の条文を土台としている。条文が変更されると、今までの解釈の土台がひっくり返る。従来の解釈は1ミリたりとも変わらないと言い張る政治家の方もおいでのようだが──しかも、そこでいう「従来の解釈」は、集団的自衛権の行使をも容認する新奇な解釈である──そんな保証は1ミリたりともないといわざるを得ない。現在の9条1項2項をそのままにして、新たな条文を付け加えたとしても、同じことである。法学の世界では、「後法は前法に優先する」。後から付け加わった条文は、前からの条文を、上書きすることになる。騙されてはいけない。ペテン師やフェーク・ニュースは世に満ちあふれている。
 自衛隊の保持が違憲ではないとしても、自衛隊の存在が憲法に書き込まれていないことには、重要な意義があった。9条の存在にもかかわらず、なぜ自衛隊を組織・保持することができるのか、自衛隊にはどこまでの活動ができるのか、それを政府は一つ一つ説明する責任を負わされてきた。それは自衛隊の活動を抑制し、日本を軍事紛争に巻き込まないために、重要な役割を果たしてきた。もし、自衛隊の存在を9条に書き込んだとすると、この点はどうなるのだろうか。「自衛隊はすでに憲法上も認められた存在だ。もはや政府が説明する必要はない。自衛隊はそんな任務を果たすことはできないはずだとあなたが主張するなら、なぜそうなのかを説明すべきなのは、あなたの方だ」と政府は言い出さないだろうか。浅はかな考えで憲法を変えてしまう前に、よくよく考えるべきことがたくさんある。

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    Author

    長谷部恭男
    ​(はせべやすお)
    憲法学者。1956年、広島に生まれる。1979年、東京大学法学部卒業。東京大学教授をへて、2014年より早稲田大学法学学術院教授。

    *主要著書 
    『権力への懐疑──憲法学のメタ理論』日本評論社、1991年
    『テレビの憲法理論──多メディア・多チャンネル時代の放送法制』弘文堂、1992
    年
    『憲法学のフロンティア』岩波書店、1999
    年
    『比較不能な価値の迷路──リベラル・デモクラシーの憲法理論』東京大学出版会、2000
    年
    『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004
    年
    『憲法とは何か』岩波新書、2006
    年
    『Interactive 憲法』有斐閣、2006
    年
    『憲法の理性』東京大学出版会、2006
    年
    『憲法 第4版』新世社、2008
    年
    『続・Interactive憲法』有斐閣、2011年
    『法とは何か――法思想史入門』河出書房新社、2011年/増補新版・2015年
    『憲法の円環』岩波書店、2013年
    共著編著多数

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    『憲法の境界』2009年
    『憲法入門』2010年
    『憲法のimagination』2010年

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