牡鹿半島に赴任して2年が過ぎました。 この間、被災した建物の撤去は進みましたが、いまもまだ、地盤沈下で壊れた岸壁が所々にのこり、色あせた夏草におおわれた街跡地が広がっています。 今年10月、早朝の女川港を写しました。 そこにあった暮らしを思うと胸が痛む景色ですが、私は、この情景の中に身を置くほうが、仙台駅前の雑踏にいるより、落ち着きます。 10月末。仙台駅前のにぎわいは、別世界へ来たような違和感がありました。地元球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」の快進撃を応援する歌やメッセージが街中にあふれています。この街をどんな思いで歩いているのか……。私は、健太さんのお父さんの胸中を思いました。 お父さんの勤務先は仙台です。会社から徒歩数分先に、楽天の本拠地「日本製紙クリネックススタジアム宮城」があります。お父さんが仕事を終えて外へ出ると、会社前の通りは球場へ急ぐ人々であふれかえっています。明るい声が飛び交う中、お父さんは、ひとり背を向け、黙々と家路に着くのです。 あの日がなければ、お父さんも球場へ向かったでしょう。 長男の健太さんと連れ立って行ったでしょう。 一緒に興奮し、一緒に声援を送り、一緒に祝杯を上げたでしょう。 小学校から野球を始めた健太さんは、ずっとキャッチャーでした。県立古川高校3年の夏、県大会で8強入りを果たした記録は、いまなお、校史の中で輝いています。 試合中の健太さんはいつも声を出していました。ミットで胸をたたき、「俺に向かって思いきり投げ込め」というジェスチャーを繰り返していたそうです。 東京の大学でも野球をつづけました。就職活動は七十七銀行を第一希望に据えます。エントリーシートを朝一番に持参し、受け付け番号「1番」をもらいました。都市対抗野球でも活躍している銀行ですから、ずっと野球にかかわれると期待していたようです。 2011年3月11日、25歳の健太さんは、女川支店で勤務中でした。支店長の指示の下、2階建て支店の屋上へ避難し、津波で流され、約半年後の9月26日、海で見つかりました。葬儀を終えても、両親は遺骨を手放せませんでした。 12年夏、お父さんはようやく、お墓をつくろうと心を決めました。墓所を案内していただきました。裏山を見上げ、お父さんは「桜の木を植えられるかな」とつぶやきました。 家を離れてしまう息子に、愛用のミットを持たせたいと考えました。 一緒に仙台まで買いに出かけたミットです。その日の曇天を、お父さんは今も覚えています。健太さんはそのミットで高校生活最後の夏の試合に挑みました。 お父さんたちは、墓石メーカーを通じ、彫刻家に頼みました。 縫い目一つひとつが再現されました。使い込まれた黒ずみも。 まさしく、ボールをつかんだ健太さんのミットです。 震災後、お父さんたちは銀行に何度も問いました。支店から走れば1分で行ける高台がありました。そこは町の指定避難場所です。なぜそこへ行かなかったのか。 銀行の避難のマニュアルには、津波の時は「指定避難場所または支店屋上等の安全な場所へ避難」と記してありました。そのため、銀行は、支店屋上への避難は「問題なかった」と繰り返します。議論は平行線をたどりました。 12年9月11日、お父さんたち3家族は裁判に踏み切りました。 その後、休日のたび、仙台市の街頭で、あるいは支店跡地の前で、銀行に対して原因究明と再発防止策の確立を求める署名を募っています。ある日は70人、ある日は140人、とコツコツと集めた署名の人数は1万人を超えました。 あの日から、お父さんは、野球中継を見ることも、スポーツ記事を読むこともできずにいます。「楽天のニュースは、東北の人々にとって大変喜ばしいことです」と語ります。でも、そのニュースに目を凝らすことはできません。 楽天が日本一を決めた翌日。女川町に隣接する石巻市のショッピングセンターは優勝セールでにぎわい、大通りには駐車場の空きを待つ買い物客の長い車列ができました。 その日も、お父さんたちは、朝から夕方まで、支店跡地の前で署名を呼びかけていました。空は、雨をふくんだ灰色の雲におおわれていました。 |
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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