2012年夏。私は初めて漁師さんの末っ子に会いました。 仮設住宅団地の広場で開かれた夏祭りの最中でした。末っ子は3歳。 金魚を大事に抱えるところへ「大丈夫?」と声をかけるのは10歳の姉。 ゆかたは、団地へ全国から届いた支援品です。新品でした。ゆきたけなどサイズを合わせてくれたのは団地の女性たち。団地の集会所で手工芸を楽しむ「キラキラ会」のメンバーです。姉のゆかたは「ちょっと腰上げしすぎた」と漏らしていましたが、姉は笑顔で「うれしいです」。和装には慣れています。母に連れられて日本舞踊を習っていましたから。 団地は、第13便から綴ってきた床屋さん家族も暮らした野球場の仮設住宅です。全189戸。町内一のマンモス団地で、入居者は町全域から集まりました。 町内の住宅再建は18年度末までかかる見通しでした。津波が届かなかった標高に宅地を造ることになり、山を切り開くのに時間を要します。それまでの年月を支えるのに奮闘したのが、団地の自治会役員たちでした。 親睦を深めるため、団地の広場で夏祭りを催すことにしました。夜ごと役員会を開き、準備を進めます。金魚すくいの話し合いでは、こんなやりとりもありました。 「水槽が要るね」「昔のたらいがあればすぐ出来るけど、津波で流されているから」「そうだな」「子ども用のプールがあればいい」「それさえ、ないから」 自分がなくしたものを確認するだけでなく、皆も同じようになくしたことを確認します。 役員会を終えるのは夜9時すぎ。役員の多くは年配者です。副会長の知代さんが「このバイタリティー。みんな若いですよ」とほめたたえると、皆、口々に「あとで寝込むんだ」と大笑い。役員たちも初対面同士。準備を通じて打ち解けていきます。 話し合い中は皆の発言を促すのに徹し、ほとんど口出ししない会長の昭道さんが最後に言います。「来年さ結びつくように力を合わせましょう」 本番直前に昭道さんも自ら、実家の山林で高さ10メートルを超す大きな竹を切って運び込みました。「キラキラ会」の女性たちが飾り付けます。 夏祭り本番、道具一式は金魚店で借りることができました。役員たちも大満足です。 「子どもたち結構、喜んだね」「んださあ」「来年は大きい吹き流しをつくるっかなあ」「せっかくここにいるのなら、楽しいことをいっぱいしましょう」 2018年春、漁師さんの長男は大学合格を果たし、今は仙台市で暮らしています。 浪人中は予備校の寮に入った友人もいましたが、「予備校は自分には合わないから」と自宅にとどまりました。高校卒業後すぐに運転免許を取得。妹2人の送迎を買って出ます。父は大助かり。妹たちにも好評でした。兄なら真っ白なミニバンで来てくれます。多忙な父は軽トラック。軽トラは浜仕事の必需品とわかっていても、浜育ちでない友だちの手前、高校生の妹はちょっと恥ずかしかったようです。 時計の針を少し巻き戻し、17年夏の話をしましょう。 17年8月11日、私は女川町南端の浜、小屋取(こやとり)を訪ねました。 右前方の建物群は東北電力の女川原子力発電所です。原子炉は3基。いずれも停止中です。 東京電力の福島第一原発のような過酷事故は免れましたが、あの日、女川原発も被災しました。火災が起き、消火に8時間かかり、津波は海水の取り込み口から流れ込み、排水には5日かかりました。以後、東北地方は原発を使わずに過ごしています。 浜には土を盛って高台が造られました。 防波堤から振り返った浜の姿を、高台が出来る前の11年10月と比べてみます。 浜辺の10世帯が流されました。そのうち4世帯が高台へ戻ってきたそうです。 高台の道路脇に女川中学校第1回卒業生の石碑が建てられました。 震災の教訓を刻んだ碑です。 17年8月11日は除幕式があり、卒業生8人が集まりました。 区長さんたち浜の人々も出席します。中学時代の恩師、一彦先生もいます。 拡声機を手に司会を務めるのは脩君。海上保安庁職員になりました。背筋を伸ばした立ち姿に日々の鍛錬がうかがえます。 開会のあいさつを述べる由季ちゃんは、宮城県職員になりました。落ち着いた物腰にこの間の社会人経験がにじみでます。 脩君は碑文朗読を元哉君へ託しました。大学で念願のバンドのサークルに入った元哉君は、ギタリストらしいボブカットです。 元哉君の背後で卒業生たちは遠い目になります。 |
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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