牡鹿半島で取材を始めて1年が過ぎました。 ふだんの移動は車です。1年間の走行距離は3万キロ近くになりました。かつて新潟県の佐渡島に駐在した頃、1年間の走行距離は1万キロほどでした。佐渡の3倍も走っているのに、ここには今もまだ取材していない漁港があり、焦ります。 ほぼ毎日のように足を運ぶのは、女川港です。港そばの高台に町役場、小中学校、仮設住宅の団地がありますから。私が通い始めた昨年秋、港のわきで魚市場も再開していました。付近に倒壊した建物しか残っていない港の一画で、人々を呼び戻す魚市場。町の底力を感じます。 その市場でヒョウタンのような姿の魚に出合いました。何という魚ですか、と尋ねると、仲買人の魚屋さんも「初めて見るね」。なんと、そんなことがあるのですね。結局、「食べ方がわからないからだめだ」と海へ返すことになりました。その前に撮らせていただいた写真がこちらです。親切にしてくださった魚屋さんも、後継ぎの長男夫婦を津波でなくしました。長男は今も行方不明です。 震災前、女川港は全国有数のサンマの水揚げ量を誇っていました。漁の時期、町の空気は活気にあふれていました。 毎年秋に港そばで開催された「おながわ秋刀魚収獲祭」も大変なにぎわいでした。人口1万人ほどの町に約6万人の観光客が訪れたというのですから、それは盛況だったでしょう。水産業も商工業も協力して町総出で盛り上げる祭りでした。 銀行員の健太さんのお母さんが、2年前の祭りを思い出して言います。 「息子を探したんだけど、人が多くて、見つけられずに帰ってきたの」 彼はみんなとそろいのTシャツを着て収獲祭を手伝っていたようです。そのTシャツは銀行の独身寮の部屋に残っていました。写真は、お母さんに引き取られたTシャツです。 お母さんは終始、笑顔を絶やさずに、息子の思い出話を続けます。祭りの会場では会えなかったものの、その夜、箱いっぱいに詰めたサンマを抱えて帰って来たそうです。 「だから」と、お母さんは笑顔のまま、こう結びました。 「サンマを見るのは、つらいの」 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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