あのときの悲痛な叫び声は、いまも私の耳元に残っています。水平線へ向かって思いをこめた、それは礼子さんの声でした。 「おねえさあぁぁぁん」 昨年5月の大型連休前でした。風はまだ冷たく、コートを羽織るほどの寒さでした。銀行員の美智子さんが最後までとどまった勤務先、女川支店の建物の解体がまもなく始まるため、礼子さんと恵子さん姉妹はほかの行員の家族たちと2階建て支店の屋上へ上っていきました。 地上から高さ約10メートル。あの日、美智子さんは12人の行員たちと共にそこへ避難し、迫り来る津波から逃れるため、屋上への出入り口を囲む塔屋の上にのぼります。そこは高さ約13メートル。美智子さんがのぼった塔屋の上へ、礼子さんと恵子さんも立ちました。ほかの家族も一緒です。 そして、地上から見上げていた私のもとへ、礼子さんの悲しい叫びが届きました。 女川支店があったのは女川港そばの鷲神浜(わしのかみはま)でした。震災前はビルが林立する中心街でした。その光景を収めた写真は、編著『女川一中生の句 あの日から』でも紹介していますが、撮影者の許可をいただき、ここにも掲載します。下は、昨年1月の写真です。 標高約50メートルの熊野神社の境内から撮ったものです。浜一帯は標高約20メートルまで津波をかぶりました。被災した建物の解体撤去が進み、昨年1月は海側に観光物産施設のビル2棟、その背後に女川支店と、津波で横倒しになったビルが残るだけとなりました。4カ月後、観光物産施設も撤去され、支店の解体工事が始まりました。 港周辺には今も倒れたビル3棟が残っています。町は当面、3棟を残すことにしましたが、これを保存するかどうか、まだ決めていません。 被災した建物をめぐり、各地で議論が続いています。解体撤去せずに「震災遺構」として後世に残したい。そう望む人々がいます。世界遺産となった広島市の原爆ドームにも重ね合わせ、大津波の猛威を将来へ伝える役割を期待するのです。一方、反対する人々もいます。「見るのはつらい」「思い出して苦しい」。そのような声をしばしば聞きます。昨年11月に女川町の中学生たちが町の人々にアンケートをした時も、反対意見が多数を占めました。 女川支店は、礼子さんと恵子さんにとって、どう映っていたのでしょう。建物の撤去後、2人の妹は跡地を訪れました。 「これはあの窓ガラスかな」 「これ、あそこの壁だよね」 跡地に散らばっていた建物のかけらを拾い集め、大事に抱えて帰りました。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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