震災から2年半。いまも女川港の近くに、あの日の記憶をとどめる、3棟の倒壊ビルが残っています。全国から視察に来る人々の多くは、この3棟の前に立ち寄ります。その人々は気づいていたでしょうか。3棟のそばにある文学碑に。 高村光太郎の文学碑です。1931(昭和6)年、光太郎は三陸沿岸の旅の中で女川港も訪ね、素描画や散文、詩を書き残しました。のちに、それを知って感激した町の青年が立ち上がりました。養鶏業を営みながら画業にも励み、町の広報誌にも素描画と散文を連載していた貝廣(かい・ひろし)さんです。貝さんが中心になり、1986年から一口100円の募金活動を始めました。3721人から計約1千万円が集まり、91年、3基の碑が建ちました。 2011年3月11日。1基は流失しましたが、1基は向きを変えながらも津波に耐えました。もう1基、幅は10メートルで、高さは2メートルの碑は、波に引き倒され、天を仰ぎながらも、大地を離れませんでした。写真は、昨年夏、あの日のままに残る2基です。 いまは港周囲に土を盛る工事が始まり、2基は1カ所に並べられています。 碑の建立後、貝さんたち有志は毎年、詩人が三陸に向けて東京を出発した8月9日に「光太郎祭」を開きました。公費に頼らない、手弁当の顕彰式典です。碑に寄せて、貝さんは、町が「新たな文化の発信基地になればとせつに願っている」と書き残しています。あの日。貝さんは、妻を心配して、海辺の自宅へ戻り、亡くなりました。64歳でした。 震災前、「光太郎祭」は文学碑の前で開かれていました。毎回、識者を招いて作品の解説を聞き、町の人々が朗読します。昨年は、仮設住宅の団地の広場で開かれました。そこに、にぃにがいました。マイクの前で「道程」を読みます。 にぃにの声に耳を傾ける聴衆の中に、漁師さんと2人の妹もいます。 にぃには多くを語りません。中学1年生の昨年春。学期末の作文で、同級生たちは震災を振り返りましたが、にぃには一切ふれませんでした。「あのこと書くの、やんだ」。漁師さんにそう漏らしたこともあります。私には「なるべく思い出さないようにしている」と話してくれました。 中学2年生の昨年夏。初めて震災の体験を書きました。400字詰め原稿用紙で2枚。書き上げるのに、4時間ほどかかりました。 書きたくても、書けないことがありました。あの日の朝のこと。じっち、ばっぱ、おっ父、おっ母、妹2人と囲んだ食卓。交わした言葉。おっ母の表情。いつもと変わらぬ朝でしたから、記憶に残っていないのです。 思い出さずとも、忘れられないことがあります。体育館で迎えを待った時間。それからの日々。「先週くらいのように覚えている」。4月末、浜から3キロほど沖の島で、じっちとおっ母が見つかりました。おっ父が確認しました。子どもたちには対面させませんでした。あのころ、大変だったのは、「避難所……」。にぃには、一言、答えてくれました。 あとで漁師さんに尋ねますと、即座に「あの時ね」。お寺に身を寄せていた時でした。浜辺の自宅は、向こう岸に打ち上げられ、形はとどめていましたが、海がしけるたび、家財道具が流されていきます。おっ母の着物だけでも取りに行きたい。でも、子どもたちを置いていけない。漁師さんはずっとためらっていました。3月28日朝。12歳の兄に、妹たちを託し、浜へ下りていきました。その時、余震が発生したのです。石巻市で震度5弱を観測。本震以来の津波注意報が発令されました。お寺で妹2人を抱きかかえた兄の胸中を、漁師さんは思いやります。 震災後、漁師さんは海の仕事を極力、控えています。沖に出れば、子どもたちの元へすぐに駆けつけられませんから。「仕事より子ども第一。子どもがいたから。たぶん、ひとりだったら、生きていねぇべ」。にじむ涙をぬぐいます。 「残された子を大事にしないと」 今年8月9日。仮設商店街の一画で「光太郎祭」が開かれました。にぃにが「漁村曙」を朗読します。ねぇねが「あどけない話」を朗読します。貝さんの妻が、2人のために選んでくれました。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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