両親が署名活動を始めたのは、2012年12月1日でした。 仙台の街頭に立ちます。 お父さんは、用意した横断幕の前でハンドマイクを手に、署名を呼びかけました。 この日の最高気温は4.7度。北北西の風が吹き付け、氷点下のような寒さを感じます。 マイクを握るお父さんの手は真っ赤です。 手袋をしたらいかがですか、と私が話しかけると、お父さんは「いや、健太に笑われてしまう」。2時間、お父さんは素手を通しました。 両親にとって初めての署名活動。 お母さんは声が出ません。 誰にどう切り出したらよいかもわかりません。 手作りの看板を背負って、立ち尽くしていました。 そんな両親のかたわらで、来る人、来る人に、頭を下げ、チラシを差し出していたのは、健太さんの大学の同級生です。東京から駆けつけてくれました。 初日のこの日、131人の署名を集めました。 13年3月9日。両親はお墓に遺骨を納め、三回忌の法要を開きました。 11日よりも土曜日の9日がいいですよ。みんなが集まれるから。そう両親に教えてくれたのは、健太さんの小中学校の同級生、ヤッスです。 一緒に通学しました。 毎朝、健太さんの家の前に10人ほどの男の子が集まります。 「健太っつぁん」「おぃー」 健太さんだけが、「つぁん」付けです。親分を呼ぶような響きです。どっしり構えた感じがありました。おしゃべりではありませんが、話しかけづらいこともありません。 一緒に遊んだのは、かくれんぼ、カンけり、たかおに、野球も。 通学路は当時のままに残っています。 震災の半年後の9月に健太さんが帰ってきました。 10月の葬儀で高校の野球部の仲間は「栄冠は君に輝く」を歌いました。 11月から、ヤッスは月命日に両親を訪ねるようになりました。 「できることは、それくらいしか、ないので」 両親のことが心配でした。 「話すことで気を紛らせることができたらいいなと思って」 お父さんは、お墓に健太さんらしい文言を刻みたいと思い、自分の筆で書きました。 みんなと過ごせた日々 共に汗を流した仲間たち 支えてくれたみんな 愛しき人 ありがとう 結んだ絆は未来永劫 これからも 見守ってっからや これは、ヤッスに添削してもらったものです。 お父さんは最後の言葉を「見守ってるからね」と記したのですが、ヤッスが「見守ってっからや、というほうが、健太っつぁんらしい」と助言してくれました。 三回忌法要の後、同級生と彼らの両親約40人が会食につどいました。 お父さんがミットの彫刻を会場に持ち込みました。 同級生たちが手にすれば、ずしりと重く、「おおっ」と驚きの笑顔を見せます。 みんなが順に思い出を語ります。 「小学4年の時のおしっこ事件」を語ってくれたのは、ヨッシーです。 学校2階のトイレの窓から、おしっこすると、気持ちいいんだべっちゃ。そう言ったのは、健太っつぁんでした。それ以来、みんなそろって青空へ放尿。すると、偶然にも、ひとりの子の放物線が、校庭を歩いていた校長先生の頭に命中しました。見上げれば、トイレの窓。言い出したのは、おまえだろ、とヨッシーが叱られました。 会場は笑い声に包まれます。 ヨッシーも笑顔で結びます。 「健太っつぁんは、みんなが楽しい場が好きだったので、またこういうふうに集まれて、いま喜んでいると思います」 涙のあとがのこる両親の目に、笑みが浮かんでいました。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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