ここ女川町へ来て、初めて知った言葉に「ぴいちゃん」があります。 「どなたのことですか」と尋ねると、「おっぴさんのこと」と言われました。 「ぴいじいちゃん」「ぴいばあちゃん」と呼ぶこともあります。 曽祖父母のことです。 ひ孫たちは親しみをこめて「ぴいちゃん」と呼びます。 敬意をこめて呼ぶときは「おっぴさん」です。 その言葉は、東北の被災地の底力を象徴している。私はそう思います。 この3年間、町の中学生たちは、「千年後の命を守るために」を合言葉に、津波対策づくりに取り組んできました。震災の記録を残すため、最初の語り部になった生徒は、今も行方がわからない曽祖父母への思いを打ち明けました。同級生は涙ぐんで耳傾けました。子どもたちにとって「ぴいちゃん」は掛け替えのない存在。家族の絆を表す言葉です。 千秋さんの7歳の孫娘は、3歳の思い出を、今も口にします。 「ホヤのぴいちゃん、お祭りのとき、綿あめを買ってくれた」 「ホヤのぴいちゃん」は、千秋さんの父のことです。祖父方の曽祖父、「畑のぴいちゃん」と区別して呼んでいました。 ホヤのぴいちゃんは、船乗りでした。震災時、船を沖へ出すために出港したきり、帰ってきませんでした。綿あめを買ってくれたのは、夏、女川港そばで開かれた「女川みなと祭り」のときでした。震災以降、祭りは休止しています。 女川港の周囲には、いま、更地が広がっています。将来の津波に備え、土を盛る工事が続いています。震災前は、軒を連ねるように商店が並んでいました。 千秋さんの10歳の孫娘は、4歳のときに初めてのおつかいに出かけます。母に書いてもらったメモを手に、パン屋へ。それからは毎日、ひとりで買い物に行くようになりました。保育園から帰って来ると、100円玉をにぎりしめ、国道沿いの駄菓子屋へ。 1本10円のきなこ棒を買います。口にくわえ、引き抜いたつまようじの先に赤い食紅がついていれば、「アタリ」です。もう1本もらえます。これも忘れられない思い出です。その駄菓子屋も、震災で姿を消しました。 2014年1月、石巻市の駄菓子屋で、私は、千秋さんの孫娘のために10本注文しました。ついでに私も1本。 素朴な甘さ。何本でも食べられそう。引き抜くと、おっ、赤。これは楽しい。「もう1本どうぞ」と駄菓子屋さん。アタリに年齢制限はないのですね、恐縮です。 そこは、石巻市の幼稚園児も通っていた駄菓子屋です。お目当ては、やはり、きなこ棒。震災時、園児は、高台から海側へ下りる幼稚園バスに乗せられ、津波にのまれました。千秋さんの10歳の孫娘と同い年でした。 13年の晩秋、園児の母が見せてくれた日記には、こう書かれていました。「クリスマスに何を買ってあげたらいいのか、わからない。学校で流行っているものが欲しいと言ったかもしれない。それすら、わからない……」 きなこ棒は、孫娘たちに好評でした。「2本、当たったよ」と7歳の子は報告してくれました。園児の母にも、その話を伝え、こう言い添えました。 ですからね、きっと今も、これからも、きなこ棒は大好きですよ。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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