羽鳥書店 Web連載&記事
  • HOME
    • ハトリショテンだより >
      • 近刊新刊 案内
      • 図書目録
    • 人文学の遠めがね
    • 憲法学の虫眼鏡
    • 女川だより
    • 石巻だより
    • バンクーバー日記
  • 李公麟「五馬図」
  • ABOUT
  • OFFICIAL SITE
  • HOME
    • ハトリショテンだより >
      • 近刊新刊 案内
      • 図書目録
    • 人文学の遠めがね
    • 憲法学の虫眼鏡
    • 女川だより
    • 石巻だより
    • バンクーバー日記
  • 李公麟「五馬図」
  • ABOUT
  • OFFICIAL SITE
画像
​​東日本大震災(2011年3月11日)の震源地に最も近かった宮城県の牡鹿(おしか)半島。その付け根に位置する女川町を中心に、半島一帯を取材してまわる記者の出会いの日々を綴ります。老親の帰りを待つ人がいます。幼子の帰りを待つ人がいます。ここに暮らす人々の思いに少しでも近づけますように。──小野智美

第40便 床屋さん夫婦と<8> がんばれた

12/2/2015

 

 床屋さんが入居した公営住宅で、新しい行政区をつくることになりました。
 2014年7月、行政区の初総会が開かれました。
 約100人が公営住宅の敷地内にある集会所へ集まります。新築です。仮設の集会所ではありません。窓枠の厚みも床の木目も頼もしく、喜びをかみしめます。でも、それは住民ではない私の感慨。牡鹿半島に点在する浜辺の集落の人々が一堂に会するのです。初対面同士、緊張や不安もあったでしょう。
 その空気を和ませたのが役員たちでした。一人ひとり、皆の前で自己紹介します。「私は8号棟の」と切り出すと、周囲から「4号、4号」と訂正が入ります。3年近く暮らした仮設住宅では8号棟だったため、言い間違えたのです。次の人も間違えて、なんと、おっ父までも。どっと沸きました。
 
 おっ父も、役員に加わりました。

画像

​ 最初は断ったのですが、昭和4年生まれの大先輩も加わっています。昭和21年生まれのおっ父が引き受けないわけにはいきません。
 
 総会の後、役員会の開催です。日常の課題を話し合います。
 こんな要望も出ました。
 「『エレベーターは降りる人が優先』と講座的なものを開いてくれたら。お年寄りは、わかっていらっしゃらない方がいると思う」
 生まれて初めてのマンション暮らしとなれば、エレベーターに戸惑うお年寄りもいるでしょう。
 発言に土地の言葉が混じります。
 「雨降りの時、1号棟から8号棟を歩いて回るといい。暖かい時はいいけど、たんぺなると、高齢者は大変だからね」
 お年寄りの足元を心配し、点検してほしい、という話です。育った浜は違っても、通じ合う言葉に、皆、うなずいています。
 「たんぺ?」
 東北育ちではない私は、ノートに書き留めて、あとで意味を教わります。
 「たんぺ」は女川育ちのおっ父の表記。石巻育ちのおっ母は「たっぺ」。シャーベット状に凍っていることを3文字で表現できる優れた言葉です。
 
 公営住宅に入居当初、おっ母は隣の長女宅を訪ねては、「なんだい、また鍵かけて」とこぼしました。鍵はかけなくてもいいのに、と。長女からは「マンションでは鍵をかけるんだよ。そういう習慣つけらいん」と諭されたそうです。
 
 おっ父は2年目の役員は辞退しました。
 いよいよ、お店の本格再開が迫ってきたからです。JR女川駅の駅前商店街に加わります。2015年末にオープン予定です。
 
 元々は、自宅兼店舗でした。奥に四畳半があり、横になれました。お客さんも一緒に足をたたんでお茶っこをします。コンテナの仮店舗では横になれず、夕方になると、疲れます。ただ、今後はもう自宅兼店舗は望めません。
 この間ずっと、おっ父は悩みました。
 「毎日毎日、どうすっぺ、どうすっぺ、とパニック」
 そう嘆いた時もあります。70歳は目前。後継者はいません。やめることも考えました。が、「やめたらば、女川さ、いられねえ」と考え直しました。お客さんたちへ合わせる顔がないというのです。責任を感じています。
 おっ母も背中を押しました。
 「お客さんがカツオもシウリも持ってきてくれる。キャベツも大根も。梅干しも。ありがたい。がんばって、がんばって、お返ししないと」
 
 少年客がやってきました。
 おっ母の出番です。少年はじっとしていられません。「3時までに終わらせてけろ」「ほら、動いたら、終わらないよ」。おっ父も笑いながら手を添えます。
画像

​ 駅前に加わると知ったお客さんたちは喜びました。離島の出島(いずしま)から通う人には足の便がよくなります。注文も相次ぎます。「トイレも腰かけにしてけろよ」「椅子も脚あげるの、入れろよ」。そんな声を聞き、夫妻は、駅前での再開に踏み切ってよかったと、また励まされるのです。
 
 自宅兼店舗は、3階建てでした。
 あの時。
 1階の店のレジが落ち、停電になりました。
 入り口の自動ドアを手動で開けました。念のために。建物がゆがんでドアが開かなくなってはいけないので。
 自転車に乗った行政区長が顔を出しました。
 「だいじょうぶか」「うん、だいじょうぶ」
 区長は次の家へ向かいました。それが区長の姿を見た最後でした。
 
 2階は、冷蔵庫の中身が散乱して、足の踏み場がない状態でした。
 おっ母は片付けたかったのですが、おっ父に「今日は仕事になんないんだから、下りろ」と言われ、渋々、1階へ下りました。
 
 隣に住む人たちが「床屋さん、どうすっぺ、どうすっぺ」とうろたえていました。足の不自由な家族がいます。おっ父は「いまのうち、車さ乗せてたほうがいいよ」とすすめました。車で避難できるように。
 ただ、おっ父自身は避難を考えず、駐車場の車にエンジンをかけ、そこで暖をとっていました。
 カーラジオが「6メートル強の津波」が来ると告げていました。
 内陸育ちのおっ母にはイメージがわきません。
 おっ父は落ち着いて話しました。
 1960年のチリ津波は、お店より約20メートル海寄りの熊野神社の鳥居下に達しました。大津波といっても「あそこまでしか来ねえんだから。ここまで来たら女川はなくなるんだからな」。
 おっ母は「そうなんだ」と思いました。
 
 近所の人々が、家の中を片付けたり、2階の窓から外を見たりしているのを目にしながら、おっ母は、ふと思い立ちました。
 「お父さん、店から、お金もってきてよ」
 天の啓示のような一言でした。
 
 十人十色とも言いますから、性格を血液型4種類で分類できるものではないと思うのですが、おっ母には自分が大雑把なO型で、おっ父が几帳面なA型だったことが今につながっているように思えてなりません。
 
 おっ父が店に入ろうとすると、入り口のマットの上に、倒れた植木鉢の土がこんもりとあるのです。
 おっ母は言います。「私だったら、土があっても気にせず、ぐんぐん入っていって、あ、こいつも、こいつも、と持って来ようとして間に合わなかった」
 
 おっ父はマットを抱えて、店の前の側溝で払い落とそうとしました。
 その時です。
 ガリガリ、バリバリ、と轟音が聞こえました。
 見上げると、海側の2軒先、2階建ての屋根の上に、その倍の高さのがれきが見えたのです。水は見ませんでした。家の柱、壁、床、基礎の木材が積み上がっています。津波だ。瞬時におっ父は理解しました。
 
 津波は側溝をさかのぼってきてはいませんでした。
 今にして思えば、2軒先ではなく、もっと海寄りのものが、あまりの高さに間近に見えたのでしょう。時間の猶予はありました。
 
 慌てて車へ戻り、おっ母を引きずり出しました。
 「出ろ、出ろ、出ろ、津波だから」
 エンジンをかけていたのですから、そのまま運転して路地をぬければすぐ高台だったのですが、すっかり動転し、おっ母を連れて高台へ走りました。
 
 高台の道路まで来て振り返りました。
 バババババ、と大音響の中、近所の大きな家があっという間につぶされていきます。足元の道路下には、波がぶつかっては戻り、ぶつかってはまた戻るのを繰り返していました。
 「えっ。えっ」
 おっ母は茫然としました。悲しみと表現することもできない、言いようのないものが胸の内を占めます。
 それからです。
 長女と孫息子の名前が口をついてでてくるのです。
 なぜなのか、自分でもわかりません。
 苦しくて、苦しくて、足が前へ進みません。
 長女と孫息子の名前を呼びながら、泣いて、泣いて、泣き続けました。
 大泣きして動かないおっ母を、おっ父は「もっと歩け、もっと歩け」と怒りながら引っ張っていきます。
 
 夫妻の後から来る人はなく、車も来ません。
 高台へ避難した人々の中で、夫妻が最後の避難者でした。
 
 とてつもない光景に、おっ父はまた立ち止まります。
 「おっ母、見ろ、どっかのうちが燃えて流れているよ」
 その時、おっ父が見たのは押し波だったと言います。
 おっ母が記憶するのは、引き波の中の火災でした。
 目に映しても、頭の中は真っ白です。
 現実とは思えず、映画を見ているようでした。
 
 高台へ避難して2日目の朝でした。
 おっ母は外に立ち尽くしていました。
 長女一家が気掛かりですが、長靴がなく、探しに行けません。
 おっ父が「おっ母、寒いから、中さ入れ」と声をかけた時です。
 坂の下に人影が見えました。
 長女でした。長靴を履いています。
 「あぁ。おっ父。おっ母」
 低く力のない第一声が、今もおっ母の耳に残っています。
 「ああ、よく来れたなあ」
 そう答えた後、おっ母の記憶には、長女が孫娘を頼んできたから帰ると言い残したことしか、ありません。おっ父は、夫も息子もだめだったと長女が語ったことを覚えています。「私も行く」と言い張るおっ母を、長女は「長靴でなければ行けないから、だめ。ひとりで帰る」と押しとどめました。坂を下りていく長女の後ろ姿を、今も思い出すたび、涙がこみあげます。
 
 次の日、夫妻は長靴を借り、服も借りたものを着込み、2キロ余り先の総合体育館へ向かいました。
 1階の人込みの中、かまわずに声を張り上げ、孫娘の名を呼びます。2階へ。人々はまばらに座っていました。その奥へ。隅にいました。2人は、ぽつねんと座っていました。孫娘は、夫妻の顔を見ても、無表情でした。言葉も発しません。夫妻は着込んできた服をすべて置いていきました。
 
 その翌日、夫妻は、借りた車に、借りた布団を積み込み、体育館へ向かいました。2階へやってきた夫妻に、長女は「ここにはいんな。大変だから。おっ父は風邪をひく」と反対しました。おっ父はまもなく65歳になる時です。町外へ避難することも出来ました。しかし、夫妻は、長女と孫娘と一緒にいようと決心していました。おっ母はこう振り返ります。「『帰れ、帰れ』と言われてもな。決めて来たから。そばにいる。そばにいるだけでも」
 
 長女は、夜明けと共に、一人きりで夫と息子を捜しに出かけます。
 孫娘は、ぼーっとしたままで、何も話しません。
 夫妻は、言葉のかけようもありません。話しかけられるのを待ちました。
 一言、二言漏れると、相槌を返す、それを続けました。
 
 体育館に、各世帯の布団を仕切る段ボールが届きました。
 皆、段ボールの外側に、表札替わりの苗字を記します。
 長女は、夫の姓と旧姓を並べて記しました。二世帯同居です。
 来てよかったのかな。おっ父とおっ母は安堵しながら見守りました。
 
 「体育館の生活をしたら、なんでもできるさ」
 今も夫妻はそう語ります。
 体育館での避難所生活は約8カ月におよびました。
 「あそこでがんばれたんだから、これからも、がんばれる」
 「がんばった」ではなく「がんばれた」。
 大事な違いです。
 祈りのこもる夫妻の言葉です。
 がんばれます。どこまでも歩き通せます。長女も。孫娘も。

コメントの受け付けは終了しました。

    Author

    小野智美(おの さとみ)
    朝日新聞社員。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から2014年8月まで仙台総局。宮城県女川町などを担当。現在、東京本社世論調査室員。


    ​*著書

    小野智美『50とよばれたトキ──飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)
    小野智美編『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012年)
    『石巻だより』(合本)通巻1-12号(2016年)

    Archives

    3月 2019
    12月 2018
    8月 2018
    7月 2018
    1月 2018
    11月 2017
    10月 2017
    9月 2017
    8月 2017
    7月 2017
    6月 2017
    5月 2017
    4月 2017
    3月 2017
    1月 2017
    12月 2016
    4月 2016
    3月 2016
    2月 2016
    1月 2016
    12月 2015
    10月 2015
    9月 2015
    8月 2015
    9月 2014
    8月 2014
    7月 2014
    5月 2014
    4月 2014
    3月 2014
    1月 2014
    12月 2013
    11月 2013
    10月 2013
    9月 2013
    8月 2013
    7月 2013
    6月 2013
    5月 2013
    4月 2013
    3月 2013
    2月 2013
    1月 2013
    12月 2012
    11月 2012
    10月 2012

    Categories

    すべて
    花屋さん一家と
    漁師さん親子と
    健太さんの家族
    女川だより 目次
    床屋さん夫婦と
    美智子さん姉妹
    祐子さんの家族

    RSSフィード

Copyright © 羽鳥書店. All Rights Reserved.