小春日和の昼下がり。 訪ねてきた私を見るなり、祐子さんのお母さんは明るい声を上げました。 「あらぁ、裸みだいな格好して」 え、裸? この言葉を初めて耳にした時はあわてました。 女川や石巻でよく使われる、薄着をたしなめる表現です。 「私は、ほらぁ」 ご自分の首元に手をあてます。 重ね着した襟を一つずつ引き出しながら「さまざまなものを着ているのよ」。 語り口はユーモアたっぷり。 お母さんは難病を患うため伏せがちですが、小康を保つ日は笑顔で迎えてくださいます。 男兄弟の中で育ちました。 同じく女川町で生まれ育ったお父さんと1962年に結婚。 サケマス漁に携わるお父さんは、米国アラスカ沖まで出漁し、3カ月は留守にします。 お父さんの留守中も、お母さんは町内の水産加工場で働きます。 その間、おばあさんが孫娘の面倒を見ます。お母さんの母親です。一緒に暮らしていました。息子より娘が一番と、おばあさんはお母さんを手放しませんでした。 祐子さんは2人姉妹の姉です。 幼い姉妹のいたずらを叱る時、おばあさんは必ずこう言うのでした。 「お父さんな命懸けで船さ乗っているんだど。そういうことしちゃだめなんだ。よく考えろ」 夜、祖母と母と幼い姉妹は枕を並べて寝ました。 幼稚園に通い始めた祐子さんは、近くの神社を通りかかると、手を合わせるようになりました。「なんで拝むの」とおばあさんが尋ねると、「おばあさんさ、いつまでも生きるようにって拝むんだ」。 小学校の遠足での出来事です。 100円玉を二つ手にして出かけました。帰ってくると、しょげかえっています。一つ落としてしまいました。級友がそれを拾いましたが、自分のだと言いかねたそうです。 おばあさんの好物、シソ入りの落雁だけを買って帰ってきました。 「私には何にもねえ」とお母さんは思い出して笑います。 親類一同から「祐子は、お父さんとお母さんさ、ご飯を食べさせる人」と言い含められてきました。「なんで」と口をとがらす祐子さんに、お母さんも「そうして生まれたんだから。私、どこまぁでも、あんださ、ついていくんだからぁ」と話していました。 女川第一中学校から石巻女子高校(現在の石巻好文館高校)へ進みます。難関の女子高です。 誇らしかったでしょうとお母さんに尋ねれば、「誇りも誇り。おっきな誇りだぁ」。 それから祐子さんは猛勉強を始めます。 夏休み中も毎朝6時すぎに家を出て高校へ。 大学受験をめざします。 ところが、おばあさんが大反対しました。 「女が大学さ入って何すんのや。大学さ入れたら戻ってこねぇんだから、放したらだめだ」 祐子さんは懇願し、高校の先生もお母さんに訴えました。 「国立大学で大丈夫です。心配ないですから。もったいないです」 でも、おばあさんの反対は押し切れませんでした。 高校卒業後の1982年、祐子さんは七十七銀行に入行しました。 その後。 おばあさんは90歳の冬、大相撲のテレビ中継を最後まで楽しんでから1週間ほど寝込み、家で息を引き取りました。 家族みんなで看取りました。 祐子さんは結婚して家を離れましたが、長男の出産を機に、ご主人と戻ってきました。 銀行勤めを続ける祐子さんに代わり、お母さんが長男の面倒を見ます。 次に生まれた長女も。漁をやめたお父さんも手伝います。 長女は、お父さんの背中のぬくもりがなければ寝付きません。 2歳の頃まで毎晩、お父さんが長女をおぶいました。 その頃のご両親と長男と長女の写真です。 航空自衛官のご主人が三沢基地へ転勤になると、祐子さんは銀行を辞め、ご主人の元へ子どもを連れて行きました。ご両親は2人きりに。 当時を振り返るお母さんの声はふるえます。 「ホヤの身、抜かれたようになったっちゃ。泣いてばりいたよ」 5年後、ご主人が再び松島基地勤務になります。 また6人で囲む食卓。長男と長女は小学生です。 祐子さんはパートで銀行勤務を再開する一方、家事もこなします。 家族の誕生日や節句には、かんぴょうやシイタケを甘く煮て、錦糸たまごや花でんぶも添え、ちらしずしを作りました。 「年寄りはちょっとでいい」とお母さんが口をはさんでも、祐子さんは「そんなこと言わないの」と銘々の皿に同じ量を盛りつけます。 笑いの絶えない家庭でした。 祐子さんのお母さんが風邪で寝込んだ時のことです。 小学生の長女が、おかゆの器を手に、張り切って枕元へやってきました。 「おばあさん、『あーん』して」 小学生の長男も顔をのぞかせます。 「おばあさん、だいじょうぶう?」 アルバムをめくると、祐子さんの好きな色がわかります。 全身ピンク色の長女をご覧ください。 2015年春。私は祐子さんのご主人から、こんなメールを頂きました。 本当はちゃんと飾りたかったのですが、おばあさんが嫌がるので、防虫剤の入れ替えを理由に4年ぶりに雛人形を出してみました。大好きだった雛人形 妻も喜んでいるかも ご主人が「おばあさん」と呼ぶのは、祐子さんのお母さんのことです。 第19便でお伝えした通り、祐子さんは毎年、七段飾りの雛人形を長く飾って楽しみました。 あの日の朝。お母さんは、雛人形をいつ片付けるのか尋ねました。 「14日、休みとるから。14日に片付けっから」 祐子さんはそう言い残して、出勤しました。 そして――。勤務先の七十七銀行女川支店で流されました。 後日、雛人形は、ご主人とご両親で片付けました。 以来、目にするのもつらかった雛人形を、15年春、ご主人は手に取りました。 でも、それを飾るのは、お母さんには今も耐えられないことなのです。 母のまぶたには娘のあの日の姿が焼き付いています。 黒のパンツ、キャメルカラーのハーフコートに、ショートブーツ。 47歳の娘の行方は今もわかりません。 コメントの受け付けは終了しました。
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Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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