2012年7月3日。「世界防災閣僚会議」が仙台市で開かれました。 伶美ちゃんと愛梨ちゃんが壇上に立ちます。 傍らで、一彦先生は両手を高く掲げ、昭和三陸津波の石碑の拓本を聴衆に向けました。 先生も必死です。 伶美ちゃんは三つの対策を説明します。 愛梨ちゃんは自らの体験を語りました。 あの日の4日前。曾祖父母が、中学入学を祝ってくれたこと。 「またおいで。今度は制服姿を見せらいよ」「うん、また来るね」 最後になった何気ない会話。ロウソクの明かりだけで過ごした夜の後、伯母からメールが届きました。曾祖父母と、中学1年生、小学4年生のいとこが行方不明だと知ります。曾祖父母は、母の祖父母です。2人の子を捜す伯母は、母のたった1人の姉です。 愛梨ちゃんの感情を抑えた声が響きます。隣で伶美ちゃんは目を赤くして聞き入ります。 その後、一彦先生は職員室で提案を受けました。 7月13日の全校集会の「まるこ山防災教室」でも発表したら? 先生は、新たな発表者を募ることにしました。 放課後。 スクールバスを見送る先生のそばへ智博君がやってきました。 察して尋ねます。 「智博、どうする?」 「僕、考えてみます……」 これを言ってくれただけで十分。そう思い、返しました。 「智博、つらいぞ」 「ん……、考えてみます」 「やっぱり出来ない」と言われてもいいと覚悟し、告げました。 「いやだったら、愛梨にすぐ代わるから」 「うん……」 そうして智博君は初めて自らの体験を書き上げました。 もう少し詳しく伝えられないか。先生は智博君から聞き取りを試みます。 「朝、お母さんの顔を見た?」 「ん……」 「お母さんはどこで見送ってくれたの?」 「ん……」 言葉をにごす智博君。答えたくないのではありません。答えられないのです。 思い出したくても、思い出せないのです。いつもと変わらない朝でしたから。 先生は、手を加えた800字を、智博君に確かめてもらいます。それがたとえ事実を表していても、心が痛む言葉がありますから。先生はそのことを「世界防災閣僚会議」の愛梨ちゃんの発表文を整えた際に学びました。 発表文は、愛梨ちゃんが1年生最後の社会科で書いた作文をもとにしました。先生から発表役を頼まれ、愛梨ちゃんは迷います。母の智恵さんが背中を押しました。 「愛梨の話を聞くのは、私たちはつらい。でも、それを語る愛梨はもっとつらい。それでも愛梨には伝えてほしい。この思いをもう誰にも味わわせたくないから」 ただ、智恵さんは先生に1カ所修正を求めました。原文に「避難所を回っても、4人の安否はわからないままでした。『死んだんだ』そう思ってから私は、ぼーっとすることが多くなり、何もする気になれませんでした」とあります。「先生、『流された』ではいけませんか。『死んだ』というのはあまりにかわいそうで……」。大事な教えでした。 7月13日の「まるこ山防災教室」。 最高気温は25度に届かず、夏にしては涼しい日でした。 体育館は、あの日の地震で損壊し、まだ修理中。 昇降口のホールに全校生徒約200人が集まりました。 マイクの前に、愛梨ちゃん、伶美ちゃん、そして智博君、脩君、洸星君の順に並びます。 智博君が読み始めます。 消え入りそうな声です。 「あの日の朝は、いつものように2階で寝坊している僕と妹に、お母さんが『早く起きろー』と大きな声で起こしてくれました」 小学3年生の妹と2人、乗り遅れないよう、バス停へ走ります。女川第二小学校へ。 あの時。小学校から、より上をめざし、総合体育館へ避難します。 「お父さんから母、祖父、祖母が行方不明ということを聞かされました。僕は『どこかに逃げていてほしい』と何度も何度も祈っていました」 傍らの脩君と洸星君が息をのむ姿が、私の記憶に残っています。 智博君は、話し終えると、ほっとしたように口元をほころばせました。 3年生になり、卒業を目前に控えた日。 当時の並び順で写真を撮らせてほしいと3人にお願いしました。 私が順番を告げるより先に、脩君は中央に立ってくれました。 さらに脩君は、カメラを構える私に「上着をぬいでワイシャツになろう。同じ写真のほうが面白いよ」。夏だったことも覚えていてくれたのね。「寒いよー」と渋る智博君に、脩君は先にワイシャツ姿になり、「早く、早く」。みんな、ありがとう。 今度は、立ち会っていただいた学年主任の実先生が「襟元しめろー」。智博君と洸星君は急いで第一ボタンをかけます。先生、ありがとうございます。 脩君は、あの日、家を失いました。 がれきをかきわけ、かきわけ、探しましたが、何ひとつ見つかりませんでした。大事に集めた古銭も。ミニカーも。ドラえもんの枕も。 自分の部屋を覚えています。階段を上って右へ。入ると、左手に物入れがあり、小窓があり、ベッドがありました。ベランダへ通じる窓辺にはカーテンでなく障子がありました。指でぽつぽつあけた穴でやぶれていた障子。 しばらくして家は土台だけになりました。 その土台もやがて撤去されました。 跡地を見つめて家を思い描きました。 その跡地にも土が盛られることになりました。 喪失感を抱きしめる脩君の心へ届いた、智博君のあの日のお話でした。 忘れがたい防災教室。 全校生徒の後方で耳を傾ける保護者の中に、漁師さんもいました。 前日夜、智博君から「読ませられるかもしれない」と聞かされました。「まさか『お父さんも一緒に出てこい』って言われねえべな。ひげだけ剃っていくから」と答えましたが、内容は聞かされません。漁師さんの前で練習することもありません。 本当に読むのか。 当日朝、「智博、船のペンキ塗りしていいか?」と尋ねますと、「だめだ」と一言。 開始前に学校に着き、待ち構えました。 自らの体験を初めて語った息子は「よかった。立派に見えた」。そう私に語る漁師さんですが、息子にはそんなことは言いません。 帰ってくるなり、一言「せっかく読むんだから、声、大きくしろ」。 息子も心得たもの。即、「うるせえ」。一言、元気よく切り返します。 コメントの受け付けは終了しました。
|
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
Categories
すべて
|