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​​東日本大震災(2011年3月11日)の震源地に最も近かった宮城県の牡鹿(おしか)半島。その付け根に位置する女川町を中心に、半島一帯を取材してまわる記者の出会いの日々を綴ります。老親の帰りを待つ人がいます。幼子の帰りを待つ人がいます。ここに暮らす人々の思いに少しでも近づけますように。──小野智美

第47便 漁師さん親子と<7> アは赤とんぼ   第1話  ドナルドさん

7/8/2018

 
 ​2018年春、漁師さんの長男は大学合格を果たし、今は仙台市で暮らしています。
 浪人中は予備校の寮に入った友人もいましたが、「予備校は自分には合わないから」と自宅にとどまりました。高校卒業後すぐに運転免許を取得。妹2人の送迎を買って出ます。父は大助かり。妹たちにも好評でした。兄なら真っ白なミニバンで来てくれます。多忙な父は軽トラック。軽トラは浜仕事の必需品とわかっていても、浜育ちでない友だちの手前、高校生の妹はちょっと恥ずかしかったようです。
 
 時計の針を少し巻き戻し、17年夏の話をしましょう。
 17年8月11日、私は女川町南端の浜、小屋取(こやとり)を訪ねました。
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 右前方の建物群は東北電力の女川原子力発電所です。原子炉は3基。いずれも停止中です。
 東京電力の福島第一原発のような過酷事故は免れましたが、あの日、女川原発も被災しました。火災が起き、消火に8時間かかり、津波は海水の取り込み口から流れ込み、排水には5日かかりました。以後、東北地方は原発を使わずに過ごしています。
 
 浜には土を盛って高台が造られました。
 防波堤から振り返った浜の姿を、高台が出来る前の11年10月と比べてみます。
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 浜辺の10世帯が流されました。そのうち4世帯が高台へ戻ってきたそうです。
 
 高台の道路脇に女川中学校第1回卒業生の石碑が建てられました。
 震災の教訓を刻んだ碑です。
 17年8月11日は除幕式があり、卒業生8人が集まりました。
 区長さんたち浜の人々も出席します。中学時代の恩師、一彦先生もいます。
 拡声機を手に司会を務めるのは脩君。海上保安庁職員になりました。背筋を伸ばした立ち姿に日々の鍛錬がうかがえます。
 開会のあいさつを述べる由季ちゃんは、宮城県職員になりました。落ち着いた物腰にこの間の社会人経験がにじみでます。
 脩君は碑文朗読を元哉君へ託しました。大学で念願のバンドのサークルに入った元哉君は、ギタリストらしいボブカットです。
 元哉君の背後で卒業生たちは遠い目になります。
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 右端に漁師さんの長男、智博君。隣は太聖君。
 同じ保育所に通いました。5月生まれの太聖君は、3月生まれの智博君を「豆粒みたいにちっちゃかった」と記憶しています。「おんぶしたことがあって。すぐ落としたら、泣き出して。泣き虫だった」。智博君の大泣きに大弱りしたことは忘れられません。
 小学校は違いました。中学校は同じでも、3年間違うクラスでした。部活も智博君はバレー部、太聖君はバスケ部。高校も別でしたが、朝夕の通学の電車は一緒でした。
 
 高校卒業後、太聖君は宮城県北部、栗原市の大学校へ進み、一人暮らしを始めました。
 「冷蔵庫には何が入っていますか」と尋ねる私に、太聖君は大きな目に笑みを浮かべてユーモアたっぷりに「お菓子が入っています」。聞きつけた智博君は「リンゴ入れておけば」と言ってすぐに「リンゴ丸かじりするタイプじゃないよねー」。安心しきって大口をたたきます。太聖君の大きな目はずっと笑っています。
 
 2人には、幼い日々ともう一つ、分かち合えるものがあります。
 あの日。太聖君の高台の家は無事でした。
 次の日。母方の祖父母の車が見つかりました。太聖君の家へ向かう途中の坂でした。祖父母は、車の中にいました。
 祖父母宅は、第13便から綴ってきた床屋さんの近所でした。2階建てで、1階は水産加工場でした。「コハダの酢漬けも作っていたよ」と、床屋さんは目を細めます。祖父は、床屋さんの常連客でした。
 ひと頃はカツオ節も作っていました。第1便から綴ってきた健太さん、美智子さん、祐子さんが勤めていた七十七銀行女川支店の一帯が埋め立てられる前、まだ海だった頃です。港はカツオ船でにぎわい、通りにはカツオ節屋が立ち並んでいました。
 太聖君は小学2年生まで祖父母と一緒に暮らしました。高台の新築の家へ移る時、工場を離れたくないと祖父は動かず、祖母も残りました。春はコウナゴの佃煮を、サンマの卯の花漬けも1年を通じて作り、近所にも配るのを楽しみ、ようやく店じまいを決心したのが、11年春でした。また一緒に暮らそうとしていた矢先だったのです。
 
 ひと足先に新築の家へ移ってからも、太聖君は学校帰りに祖父母宅へ向かいました。「じぃ」「ばぁ」と呼んでいました。「ばぁ」はお菓子を用意して待っていてくれました。ランドセルを置くと近所の公園へ。夕方はテレビを見ながら、母の理恵さんが仕事を終えて迎えに来るのを待ちます。理恵さんが遅くなる時は、夕食を済ませて待ちます。「じぃ」が作ってくれるイカの刺し身は最高でした。祖父自ら石巻魚市場で買い付け、孫にも良質の魚介をふるまいました。
 
 家族の前でも涙を見せたことのない太聖君。中学時代の作文で祖父母のことは一切ふれませんでした。中学3年の時に私の取材へ語る口調も淡々としたものでした。が、「最後に会ったのはいつか覚えていますか」と尋ねた時です。間髪入れずに「水曜日」。あの日からずっと心に置いていた3月9日の水曜日。いつものように「ただいま」と声を上げると、「あぃー」と「じぃ」の声。「はいー」と「ばぁ」の声も。ランドセルを置き、公園で遊び、理恵さんが迎えに来て、「じゃあね」。
 その日、祖父母はヒメタラを干していました。理恵さんには「あんたたちにもやるからね」と話していました。祖父母が乗っていた車にはヒメタラの干物が積まれていました。
 荼毘に付すのに山形県まで行きました。理恵さんは太聖君には最後まで対面させませんでした。棺を見送る時に「最後だ」と思ったことを、太聖君は覚えています。
 
 石碑の除幕式を終えた17年8月11日夕刻。
 JR女川駅前の交流館で今後の打ち合わせをします。
 智博君は元哉君、滉大君、唯ちゃんと26日に東京へ出向くことになりました。防災講座の講師を務めるのです。講座は2時間。受講料は千円。元哉君は「わざわざ千円払ってくるんだよ」と前置きし、何を話すべきか、3人に問いかけます。
 滉大君は講師になった口ぶりで「私たちは教科書を作って頑張っています」。
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 うん、その話をしなくてはね、と後ろで耳傾ける私もうなずきます。
 ところが、「千円払って、それか」と元哉君。すると、智博君まで「俺なら30分で帰る。東京に役立つ話があったほうがいい」。
 唯ちゃんがゆっくりと口をはさみました。「あんま、そこを考えなくていいような。自分たちが知っているのは東京のことじゃないから。知っている範囲のことを」。しかし、元哉君は思案顔で「東京に役立つ‥‥‥」と復唱しています。
 黙って見守っていた一彦先生が切り出しました。「あんだだぢには授業をやってほしいと思っているの。授業はね、教える人の知識と経験の中でやるの」。「あんだだぢにとってはこの辺のことを」と先生は左のてのひらに右のひとさし指を置きます。「『こういう考えもある』と広げてあげる」と、その指でてのひらに円を描きます。
 「てのひらから、はみださせないように」とつぶやく元哉君に、「地震と津波の話でいいんじゃない?」と唯ちゃん。「おれたちは何も出来なかったとしか言えない‥‥‥」と元哉君はためらいます。そこへ智博君が言い出します。「たとえば火災報知機が鳴ってもすぐに建物の外へ逃げない。なぜか。防災が身近じゃないから。だから、防災を身近に。ゆいぴー、まとめて。これ以上、国語力ない」。唯ちゃんより先に元哉君が引き取ります。
 「おれらは震災で気づいた。一日一日が大切。一気になくしたから。なくなっちゃうから。おれらはなんで防災をしているのか。地元が、地元の仲間が、すんげえ大事と思うから」
 
 26日。東京の講座には約100人集まりました。
 4人はそれぞれの班をつくって車座になります。
 受講者の話を引き出すため、最初に自分たちの体験を語ります。
 智博君が話し始めます。
 「総合体育館に避難し、迎えに来てもらって、浜に帰ったんです。家2軒を残して全部なくなってしまって。ショックというか。びっくりというか。今でも夢なんじゃないかと、たまに思う時があって。やっぱり、つらくて」
 心の内を初めて言葉にしました。すぐに「すみません」と照れたように笑い、話を切り替えます。
 「中学校は2回転校したんです。仙台と母親の実家の奈良県にも行き、震災の年の12月に女川へ帰ってきて。この活動が始まっていたんです。『どうせそのうち終わるんだろう』とすごい思ったんですけど、震災の記憶を書いてくれる人を募集していて。その時、自分でもわかんないんですけど、『先生、やってもいいですか』って言ったんです。やりたくないはずなのに、口からぽんと出て。そこからこの活動にどんどん入っていったんです」
 ひと息つくようにまた笑って続けます。
 「自分でも少し後悔していることがあって。母親と祖父母が流されていたんですけど、小学6年生で、学校にいたんですが、何か出来たんじゃないかと、たまに思う時があって」
 今度はその場を和ませるように笑ってから、「日々の生活でもっと仲良くしていればなぁとか。たまに思ったりします」。
 母と祖父母の話を人前でするのは、第45便の第3話で綴った中学2年の夏以来です。
 中学3年の夏に参加した防災教室を思い出します。災害発生日が事前にわかっていると仮定し、1年前にすること、1日前にすることを書くように求められました。智博君が書いたのは、1年前は「家族に伝える」、1日前は「楽しむ!」でした。
 
 「ちょっと話が変わるんですけど」と再び話を切り替えます。
 「当時、避難訓練はちゃんとしていなかったんです。『どうせ訓練だろ』というのがあったんですね。自分の家が津波で流されるなんて考えたこともなかったので。自分自身が助かったのも偶然みたいなものなので、災害に対する準備をちゃんとしておけばよかったのではないかなと考えることもあります」
 そこで智博君は笑顔になり、身じろぎせずに聴き入っていた受講者たちへ発言を促しました。一人ひとりが東北への思いや防災への考えを熱く語り出します。終了時刻まで話は尽きませんでした。
 
 講座の帰り道。
 並んで歩く私に智博君は「あんな話をするつもりはなかったんだけど」。
 はにかんだように笑いました。
 その日はワイシャツにジーンズ姿。
 腰に手を添えて一言「ベルトのせいかな」。
 ベージュのメッシュベルト。婦人用です。もしや母の智子さんの‥‥‥。
 「魔法のベルトかな」と問いかけると、笑顔だけが返ってきました。
 
 帰り道の1枚。一彦先生と地元の大事な仲間たちと。
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 その晩、私は漁師さんへ電話をかけ、講座の様子を伝えました。
 「いつの間にか、大人になってんだなあ」
 父の声にも感慨がこもります。
 
 もっと仲良くしていれば。今も悔いるのですね。ただ、私はこう思うのです。「思い出」として引き出せるほど記憶の表層にはなくとも、仲良く笑った日々はたくさんあったはず。今がそうであるように。
 
 17年夏の智博君は、受験勉強に、家事に、育児にフル回転でした。
 小学生の妹、ゆっちゃんの朝のラジオ体操にも付き添います。
 「こちらの顔も覚えてもらって、ご近所の皆様との絆を深めています」
 楽しそうに教えてくれました。
 
 では。私も一緒にラジオ体操へ参加してみました。
 集会所で年配の女性たちと体を動かします。
 体操後、ゆっちゃんが呼ばれました。名前も覚えてもらっています。
 「どれがいい?」
 シールが差し出されました。首から提げた出欠カードに貼るシールです。
 これ。指さしたのはディズニーのキャラクター、ドナルドダック。
 「ドナルドがいいかね。じゃあ、お兄ちゃんにも、ドナルドさん」
 智博君にも同じシールが差し出されました。
 「ありがとうございます」と智博君は照れ笑い。
 帰る道々、高校生の妹の奈桜ちゃんについて尋ねる私に、ゆっちゃんは元気な声で「お姉ちゃんは寝てるよー」。朝が苦手でしたね。「あの奈桜が皆勤賞って信じらんね」と智博君。17年春の女川中卒業式で皆勤賞をもらったのです。みんなで奈桜ちゃんを応援したものねとたたえると、ゆっちゃんは「必殺技があるのー」。なになに。「あのね、鼻にティッシュ詰めるんだよ」。それはすごい。
 
 家に帰ると、漁師さんは朝の支度中です。食卓に湯飲みを二つ置きます。一つはお茶、もう一つにはお水が入っています。父の指示を待たずに智博君はそれを仏間へ。仏様にお供えし、線香を手向け、鈴を鳴らして、手を合わせます。
 
 智博君はお皿洗いもします。誰に言われるでもなく自発的に始めました。震災後、漁に出る父に代わって、祖父の妹である大叔母が兄妹の面倒を見てくれています。その大叔母が流しの食器を何も言わずに洗い始めたのを見て、「やばくない? ほかの人に皿を洗ってもらっていいの?」と気づき、以来、自分で洗うようになりました。高校2年の合宿で後片付けを命じられて「皿洗いなんてしたことないのに」とぶつぶつ言っていたのがうそのよう。
 そんな話をしているところへ漁師さんがやってきて「おにいは奈桜の茶碗を割ったのね」。苦笑いする智博君。たまには失敗もしますねと私が応えると、漁師さんは「失敗じゃないさあ。それだけ回数やっているってことさ。初めてやって割ったわけじゃないから」。すてきな考え方ですね。「そういうことなの?」と智博君もうれしそう。
 
 そうして盛り上がる私たちのそばで小学生の妹は静かに下を向いています。手にはスマホ。智博君の出番です。「ゆっちゃん。朝は見ない約束でしょ」。お返事はありません。目はスマホに釘付け。再度「ゆっちゃん。約束したね」。
 声を荒らげずに諭す兄。妹が4歳の時もそうでしたね。
 次回、時計の針をさらに巻き戻してお話ししましょう。

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    Author

    小野智美(おの さとみ)
    朝日新聞社員。1965年名古屋市生まれ。88年、早稲田大学第一文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。静岡支局、長野支局、政治部、アエラ編集部などを経て、2005年に新潟総局、07年に佐渡支局。08年から東京本社。2011年9月から2014年8月まで仙台総局。宮城県女川町などを担当。現在、東京本社世論調査室員。


    ​*著書

    小野智美『50とよばれたトキ──飼育員たちとの日々』(羽鳥書店、2012年)
    小野智美編『女川一中生の句 あの日から』(羽鳥書店、2012年)
    『石巻だより』(合本)通巻1-12号(2016年)

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