2015年4月。
末っ子は小学生になりました。学校はすぐそば。大人の足で徒歩5分とかからない近さです。入学式には母方の祖父母も来てくれました。父はネクタイを着けて出席します。末っ子は桜色のジャケットにスカート。父方の伯母がポニーテールを結い上げてくれました。私は、その朝の東京駅始発の新幹線を乗り継ぎ学校へ。式の途中から参観します。 式後、担任教諭が教室への移動を告げます。若い女の先生です。1人が先生の脚に抱きつきます。その子を別の子が背後から抱きしめます。さらにその後ろで末っ子も笑顔で先生を見上げます。カルガモの親子のよう。先生は、片時もじっとしていられないヒナたちに整列を呼びかけます。 教室中央の一番前が末っ子の席。机には大きな封筒も置かれています。 保護者が窓際、壁際に並びました。 先生が通学手段を確認します。 「バスで帰る人、手を挙げて」 復興の工事車両の往来が激しい町内は、ほぼ全員がスクールバスを使います。 「歩いて帰る人」 末っ子は高々と右手を挙げながら、体も右側へ向けます。教室の入り口そばに父がいます。口を半開きにして「歩きだよね」と問いたげに父を見つめます。まだ6歳ですからね。 次に先生は「封筒の中を保護者の皆様も一緒に確認してください」。一斉に母親たちがわが子の席へ。ハッとしました。父親と確認するのは末っ子だけです。 初日の下校は家族一緒。記念撮影に収まる母子もいます。ランドセルを背負った子へ「写真を撮りましょう」と呼びかけると、「いいっ」。叫ぶように言い残し、仮設住宅へ一目散に走っていきます。漁師さんと私が遅れて着くと、末っ子はコタツの中。ポニーテールのほつれもジャケットの乱れもかまわずに潜り込んでいます。泣き顔を見られまいとしているようでした。鼻をすすりながらゲームをいじっています。必死に自分をなだめているのでしょう。ようやくコタツから出てくると、笑顔を見せてくれました。強くて優しい6歳です 。 2014年春。メロウド漁が始まりました。 仙台沖での漁を終え、女川港へ戻ってくる漁師さんの船、金宮丸です。 喫水線から大漁がうかがえます。ペンキ塗り中の金宮丸の姿と比べると、この日のメロウドの重みがずっしりと伝わってきます。 水揚げしたメロウドは5トンでした。 7.8トンまで積める金宮丸。海原を分け行く速さは22ノット。時速約40キロです。 午前2時に仮設住宅を出て、港へ戻ってくるのは午後3時ごろという長時間労働。帰りの航海中は「眠気が襲ってきて海へ落ちそうになる」と苦笑しながらも、豊漁に漁師さんの表情ははつらつとしています。 ところが、このあとから不漁がつづきました。自宅再建はこれから。3人の子の教育費も要ります。不安が募ります。「なんぼか奨学金があれば」。嘆きも漏れます。「土日にシラス捕りに行ってみたいんだ」。ですが、高校生の兄と中学生の妹の部活の送迎もあります。保育園児の末っ子を一人残して出かけるわけにもいきません。 綱渡りがつづきます。 2013年10月。 カキの養殖も手がける漁師さんに「種つけ」を見せていただきます。 女川町西隣の石巻市渡波で「種つけ」と言えば、ホタテの殻にカキの卵をつけることを指しますが、漁師さんの意味するところはちょっとちがいます。 渡波で買ってきた種ガキの原盤を船に積んで出かけます。 原盤は、種ガキがついたホタテの殻です。目を凝らすと、殻の表にも裏にも大人の指の爪ほどの大きさのカキがいくつもついています。生後半年ほどのカキの子どもたちです。牡鹿半島付け根の入り江、万石浦で育ちました。 「種ガキ」と呼び、「種つけ」と称するところは、畑の種まきを思わせます。 殻の真ん中に小さな穴が開けてあり、穴に針金を通して原盤を束ねています。 1本の針金で原盤七十数枚が束ねられています。 養殖ロープのある所に到着。 針金を外し、原盤を作業台に広げます。ザラザラと原盤が音を立てます。 しろうとは、豪快な手さばきに不安を覚え、尋ねます。 ――種ガキが取れてしまいませんか? 「大丈夫、ちょうどいい間引きになる」 「間引き」という表現も、畑仕事を思わせます。 針金を外した後も、この通り、種ガキは残っていました。 その原盤を1枚ずつロープの編み目にはさみます。 ホタテの殻についたカキが大きくなることを見越して間隔をあけ、長さ10メートルのロープに25枚ほどはさみます。その間隔は「適当。大体の勘」。 これで「種つけ」完了です。 2012年夏。私は初めて漁師さんの末っ子に会いました。 仮設住宅団地の広場で開かれた夏祭りの最中でした。末っ子は3歳。 金魚を大事に抱えるところへ「大丈夫?」と声をかけるのは10歳の姉。 ゆかたは、団地へ全国から届いた支援品です。新品でした。ゆきたけなどサイズを合わせてくれたのは団地の女性たち。団地の集会所で手工芸を楽しむ「キラキラ会」のメンバーです。姉のゆかたは「ちょっと腰上げしすぎた」と漏らしていましたが、姉は笑顔で「うれしいです」。和装には慣れています。母に連れられて日本舞踊を習っていましたから。 団地は、第13便から綴ってきた床屋さん家族も暮らした野球場の仮設住宅です。全189戸。町内一のマンモス団地で、入居者は町全域から集まりました。 町内の住宅再建は18年度末までかかる見通しでした。津波が届かなかった標高に宅地を造ることになり、山を切り開くのに時間を要します。それまでの年月を支えるのに奮闘したのが、団地の自治会役員たちでした。 親睦を深めるため、団地の広場で夏祭りを催すことにしました。夜ごと役員会を開き、準備を進めます。金魚すくいの話し合いでは、こんなやりとりもありました。 「水槽が要るね」「昔のたらいがあればすぐ出来るけど、津波で流されているから」「そうだな」「子ども用のプールがあればいい」「それさえ、ないから」 自分がなくしたものを確認するだけでなく、皆も同じようになくしたことを確認します。 役員会を終えるのは夜9時すぎ。役員の多くは年配者です。副会長の知代さんが「このバイタリティー。みんな若いですよ」とほめたたえると、皆、口々に「あとで寝込むんだ」と大笑い。役員たちも初対面同士。準備を通じて打ち解けていきます。 話し合い中は皆の発言を促すのに徹し、ほとんど口出ししない会長の昭道さんが最後に言います。「来年さ結びつくように力を合わせましょう」 本番直前に昭道さんも自ら、実家の山林で高さ10メートルを超す大きな竹を切って運び込みました。「キラキラ会」の女性たちが飾り付けます。 夏祭り本番、道具一式は金魚店で借りることができました。役員たちも大満足です。 「子どもたち結構、喜んだね」「んださあ」「来年は大きい吹き流しをつくるっかなあ」「せっかくここにいるのなら、楽しいことをいっぱいしましょう」 2018年春、漁師さんの長男は大学合格を果たし、今は仙台市で暮らしています。 浪人中は予備校の寮に入った友人もいましたが、「予備校は自分には合わないから」と自宅にとどまりました。高校卒業後すぐに運転免許を取得。妹2人の送迎を買って出ます。父は大助かり。妹たちにも好評でした。兄なら真っ白なミニバンで来てくれます。多忙な父は軽トラック。軽トラは浜仕事の必需品とわかっていても、浜育ちでない友だちの手前、高校生の妹はちょっと恥ずかしかったようです。 時計の針を少し巻き戻し、17年夏の話をしましょう。 17年8月11日、私は女川町南端の浜、小屋取(こやとり)を訪ねました。 右前方の建物群は東北電力の女川原子力発電所です。原子炉は3基。いずれも停止中です。 東京電力の福島第一原発のような過酷事故は免れましたが、あの日、女川原発も被災しました。火災が起き、消火に8時間かかり、津波は海水の取り込み口から流れ込み、排水には5日かかりました。以後、東北地方は原発を使わずに過ごしています。 浜には土を盛って高台が造られました。 防波堤から振り返った浜の姿を、高台が出来る前の11年10月と比べてみます。 浜辺の10世帯が流されました。そのうち4世帯が高台へ戻ってきたそうです。 高台の道路脇に女川中学校第1回卒業生の石碑が建てられました。 震災の教訓を刻んだ碑です。 17年8月11日は除幕式があり、卒業生8人が集まりました。 区長さんたち浜の人々も出席します。中学時代の恩師、一彦先生もいます。 拡声機を手に司会を務めるのは脩君。海上保安庁職員になりました。背筋を伸ばした立ち姿に日々の鍛錬がうかがえます。 開会のあいさつを述べる由季ちゃんは、宮城県職員になりました。落ち着いた物腰にこの間の社会人経験がにじみでます。 脩君は碑文朗読を元哉君へ託しました。大学で念願のバンドのサークルに入った元哉君は、ギタリストらしいボブカットです。 元哉君の背後で卒業生たちは遠い目になります。 2017年3月1日朝。 JR仙石線の陸前山下駅に降り立ちました。 ぬけるような青空の下、智博君が3年間通い続けた道をたどります。 この日は石巻好文館高校の卒業式です。 漁師さんに従い、3年5組の保護者席に腰を下ろします。 開式まで漁師さんとひそひそ話。 「大丈夫と思っていたのですが・・・・・・」 「俺も1校は受かるだろうと思っていたから」 大学受験の話です。東京の大学5校に挑み、この日までに結果が出そろいました。初志貫徹へ。もう1年、挑戦を続けることになりました。 2014年3月12日。 漁師さんは、午前2時に家を出て、メロウド漁へ。 ふだんは午後3時頃に女川港へ戻ってきますが、この日は早々に水揚げを終えると、長男の智博君を車に乗せ、石巻市中心街の石巻好文館高校へ急ぎます。 いよいよ合格発表です。 智博君が中学3年の夏、一家は仮設住宅団地内で引っ越しをしました。 1部屋多い所へ移ったのです。智博君の勉強部屋を確保するためでした。 でも、プレハブ造りでは、妹2人のにぎやかなおしゃべりはどこにいても聞こえます。 なかなか集中できなかったでしょう。 高校で落ち合うと、私もどきどきしながら、合格発表の掲示板に目を凝らします。 あった! いやー、よかった! だめかと思っていたのよ! いやー、よかった! うれしくて抱きしめながら口走ってしまった私に、智博君は「失礼な!」と笑います。 女川中の受験生は全員、合格です。 それにも大喜びの智博君。 同級生を見つけて声を弾ませます。 肩越しに、顔をほころばせたお父さんが見えます。 その春の最高のニュースでした。 2014年3月8日。 ようやく氷点下を脱し、0.5度まで気温が上がった朝9時。 女川中の体育館で吹奏楽部が『Time to Say Goodbye』の演奏を始めます。 第1回卒業式です。 大きな拍手が迎える中、胸にコサージュをつけた3年生67人が入場します。 卒業証書を手に席へ戻る智博君です。 答辞を読み上げるのは、女川中の初代生徒会長、竣哉君。 式直前にインフルエンザにかかって寝込み、ひと晩で書き上げた答辞は、こう始まります。 「覚えていますか? 私服で学校に登校していたあの日。まるこ山ホールに山と積まれた段ボールがあったあの頃。空の下に歌声が響いていたあの瞬間。そんな思い出を両手いっぱいに握りしめて駆け抜けた私たちの3年間が今日、終わろうとしています」 2013年6月。 私は女川中の避難訓練の様子を見せてもらいました。 1978年6月12日に宮城県沖地震があり、この再来に備え、毎年6月に訓練を行います。 訓練は毎年、抜き打ちです。 訓練日のみ、全校生徒と教職員たちへ伝えます。 時間は秘密。校長、教頭、防災担当の先生だけが承知しています。 1時間目。私は音楽室へ。2年生の授業を参観します。 私の姿に生徒たちは「訓練は1時間目だ・・・・・・」。 訓練の開始時刻を承知する私は、何も言わず、笑みを返すだけ。 みんなピアノに合わせて歌います。歌えば心身ともにリラックス。雑談が始まります。 音楽の恵先生は「静かに」と制し、クギを差します。 「今日はいつ地震が起きるかわかりません。先生はみんなを置いて逃げます。あんだだぢは自分で自分を守らなくてはいけませんよ」 これこそが抜き打ち訓練の成果です。 教室も職員室も、朝から訓練の話題で持ち切りになります。 1時間目終了。恵先生は「終わりまーす。音楽の時間にサイレン鳴んねかったなあ。さあ、3年生来っから、机の中を空にしてくださーい」。 次に音楽室へやってきたのは智博君のクラスの3年生。 彼らも私を見て口々に「訓練だ・・・・・・」。 その2分後。 校内放送です。 「ただいま地震が発生しました」 停電を想定し、その一言で放送は終わります。 同時に廊下から2年生たちの叫び声が響きました。 「うわあぁぁ」「早くしないと死んじゃう」「どうすんの」 あれほど「今日は訓練」と言われていても本番は大慌て。抜き打ちの効果絶大です。 休み時間中のため、拡声機を手にした先生たちが「避難を開始します、外に出なさい!」と呼びかけて回り、トイレの個室も確認していきます。 恵先生は「逃げて逃げて」と生徒たちを廊下へ誘導し、「けがすっから、けがすっから」と注意喚起しながら先導します。3年生は口を真一文字に結んで外へ。 玄関前に集合。校庭には出ません。校庭へ出るには体育館脇を通りますが、あの日は、体育館の窓ガラスが散乱して校庭へ出られなかったので。 防災担当の敏郎先生が拡声機で次の指示を出します。 「大津波警報が発令されました。ここは危険なので浄水場の坂まで行きます。1年生を先頭についてきなさい。はい、小走り、早く!」 先頭の1年生たちは必死の表情。私は全速力の彼らを追い抜くことができません。 数分後、学校上の山の坂道に全校生徒約200人がそろいます。 しばし、生徒たちのおしゃべりが続きます。 緊張を解きほぐすため、懸命におしゃべりしているかのよう。 敏郎先生が生徒たちへ話し始めました。 2013年11月、女川中3年生は国語の授業で魯迅の『故郷』を読みました。
主人公の「私」は最後に、「希望」とは何かを述べます。「それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」 次の国語の時間、生徒たちは「希望」を題に200字の作文を書きました。 智博君はどんな作文を書いたのでしょう。 その前に同級生4人の作文を紹介します。 まず脩君から。 「私にとって希望とは、絶対に捨ててはいけないものだと思います。なぜそのように考えたかというと、希望を捨てたら、そのとたんに、できることがなくなり、何もできなくなると思ったからです。 希望を持っていれば、いろいろなことを達成できる可能性ができます。しかし、希望を捨ててしまったら、可能性がゼロになってしまい、何事も始まりません。なので、希望は絶対に捨ててはいけないと思います」 国語の敏郎先生は脩君に「『希望を捨てる』とは言うけど、『希望を拾う』とは言わないよな。希望は拾うもんじゃないんだな」と話しかけます。 次に七海ちゃん。 「希望を失うとき、人はどれだけ傷つきどれだけの輝きを失うでしょう。心の中に一つでも希望があれば人は美しい輝きをはなち無限の可能性を感じることができます。 私が希望を失ったとき周りは真っ暗で寒くて異常な寂しさがある部屋に閉じこめられた感じでした。しかし希望がめばえた瞬間、その部屋は温まり優しいぬくもりと愛で満たされました。私にとって希望とは美しく輝きながら生きていくうえで必要なものだと思います」 先生は「希望は『芽生える』ものなんだな」。「言葉」を味わいます。 |
Author小野智美(おの さとみ) Archives
3月 2019
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